夏の終わり!
夜空が弾けた。
咲き誇る花火が、光の花を空に描く。
色とりどりの閃光が、まるで夢の中のように降り注ぎ――
その瞬間、世界が音を失った。
「……ん?」
晴臣は、瞬きを一つした。
だが、それが引き金になったかのように、すべてが――止まっていた。
花火は空で凍りついたように咲きっぱなし。
周囲のざわめきも、波のせせらぎさえも、音をなくし、色すらどこか抜けている気がする。
隣にいた姫野も、キラキラと笑みを浮かべたまま固まっていた。
手にしたラムネ瓶の中の泡すら、動きを止めている。
晴臣は頭を軽く掻く。驚くというよりは、少し困ったような、諦めたような顔。
「さて、どうしたものか……」
まるで夢の中のような、いや、夢よりも異様な光景。
だが彼は、日常的に“こういうこと”に慣れてしまっている。
そんな彼の首筋を――
するり、と、なぞるような柔らかな感覚が走った。
「――っ」
条件反射で振り向く。
誰かの気配。
それは彼のすぐ背後に、確かにあった。
「こんばんは、晴臣くん」
そこに立っていたのは、白い肌に漆黒のウルフカット。よく似合う浴衣姿に晴臣は思わず息を呑む。それを見て淡く輝くような瞳を細め、どこか愉快そうに、真琴が微笑んでいた。
手は、まるで「今」触れていたかのように、彼の首筋に伸ばされたまま。
花火の光が彼女の輪郭を柔らかく縁取っていた。
しかしその笑みは、どこかこの世界のものではなかった。
「こんなに騒がしいのに、こんなに静か」
彼女は、時の止まった世界を見渡して、ゆっくりと目を閉じた。
「譲ろうと思ったけど、やっぱり無理かも」
その声は、優しく、でも拒絶を許さない――神話の深淵からの囁きのようだった。
空には、止まったままの光の花。
街の喧騒も静寂に溶け、まるで世界が一枚の絵になったような不気味な静けさ。
真琴は、花火大会の会場からゆっくりと海へ向かって歩き出していた。
草履の音が、静けさの中で異様にくっきりと響く。
晴臣はその後ろ姿を、しばらく見つめていた。
そして何も言わずに、彼女の背を追って歩き出す。
やがて、砂の感触が足元に変わる。
潮の香りが漂い、止まった世界の中にあって、なぜか海だけは――生きていた。
真琴は波打ち際で足を止めると、静かに浅瀬に足を踏み入れた。
すっかり濡れてもかまわない様子で、浴衣の裾を軽く持ち上げる。
「……来ない?」
くるりと振り返った彼女の声は、風のように柔らかい。
でもその目は、どこか試すような、誘うような――不思議な色を宿していた。
晴臣は苦笑しながら、裾を軽く捲って海に入る。
「夜の海は冷たいよ」
「……あなたが、温めてくれるんでしょう?」
真琴は、そんな台詞を冗談めかして言いながら、手を広げてバシャ、と海水を晴臣にかけた。
「うわっ……」
顔にかかった冷たい水に目を細める晴臣を見て、真琴は嬉しそうに笑う。
その笑みはどこまでも無邪気で――どこか、この世界に似つかわしくないほど人間らしかった。
まるで恋人同士が、夏の海辺ではしゃいでいるような――そんな光景。
けれど、周囲には誰もいない。
世界のすべてが静止した中で、ただ二人だけが動いている。
「ねえ、晴臣くん」
と、真琴がふいに声を潜めた。
「この世界が全部、偽物だったらどうしまする?」
そう言って、彼女は足元の水を見つめる。
海面に映るのは、止まった空と、真琴の影、そして晴臣。
「みんな止まってる。動けるのは、あなたと、わたしだけ。まるで、夢みたいでしょう?」
晴臣は、真剣な様子の真琴について少し考え込んでから言った。
「……夢でも、現実でも、綺麗な人と遊べるなら、いいんじゃないですか?」
真琴は吹き出した。
夜の海で、止まった世界で。
波は静かに揺れ、二人の時間だけが確かに進んでいた。
「――きゃっ」
わざとらしく軽く叫んで、真琴は仰向けに海へ倒れ込んだ。
水音がやわらかく響き、浴衣の袖が波に染まる。
黒髪が夜の海に溶けるように広がって、まるで深淵に沈む人魚のようだった。
「大丈夫か?」
晴臣が慌てて身をかがめると、真琴はその手をつかんで、ぐいと引いた。
油断していた晴臣は体勢を崩し、そのまま真琴の隣に浅瀬へ倒れ込んだ。
「うわっ、ちょっ……」
「ふふ。びっくりした?」
晴臣の腕と肩が水に濡れ、浴衣越しに冷たい海水が染み込んでくる。
けれど、その感覚すらも遠くに感じられるほど、視界に映る空は美しかった。
止まったままの大輪の花火。
光の軌跡を空に焼きつけたまま、動かないその輝きが、永遠のように頭上で煌めいている。
ふと隣を見ると、真琴も空を見上げていた。
「綺麗ね……」
彼女の声は、波と静寂のあいだをすり抜けて晴臣の耳に届く。
「海も冷たくて夜風も涼しくて、でも楽しい」
真琴はそう言って、ゆっくりと目を細めた。
まつげの先が濡れて、頬には海水と見分けのつかない水滴が伝う。
その笑みは、いつもの気まぐれで人をからかう顔ではなかった。
――子供のような、ひと夏の夢に身を委ねる少女の笑顔だった。
晴臣は言葉を返さず、ただ静かにその横顔を見ていた。
海は静かだった。
空は光で満ちていた。
そして世界は――この一瞬だけ、確かに、止まっていた。
「ねえ、そろそろ終わりにしよっか?」
海水に濡れたまま、空を仰ぎながら真琴がぽつりと言った。
その声はどこか余韻を残すようで、でもそのすぐ後にはいつもの調子で、
「……最後に、抱きしめて?」
と、いたずらっぽく笑った。
晴臣は一瞬だけ真琴を見て、それから――本当に何のためらいもなく、すっ、と腕を差し出した。
「はい、どうぞ」
「えっ」
声を上げる暇もなく、真琴の体はひょいと持ち上げられる。
両腕の中、晴臣の胸に抱えられたその体勢――完全なるお姫様抱っこ。
「ちょ……な、何を……!」
「いや、濡れたままだと風邪ひくし、浅瀬は歩きにくいので」
まったく悪びれもせず、真顔で説明しながらスタスタと海から上がる晴臣。
真琴は一瞬ぽかんとし、そのあと急激に顔が赤く染まっていく。
「そ、そういう意味じゃ……っ、まったくもう……っ」
呆れとも照れともつかない声で唇を尖らせるが、怒ったようで怒っていない。
むしろ――
「……まあ、いいか」
真琴はふっと力を抜き、晴臣の肩にそっと頭を預けた。
その体から伝わる温もりと鼓動が、濡れた浴衣の冷たさを和らげてくれる。
止まっていた世界の中で、自分だけが生きていて、たったひとりとつながっている感覚。
真琴は晴臣の胸元に顔を埋めるようにして、そっと目を閉じた。
――今だけは、このままでいいかな?
どこまでもいたずらな神様のように笑っていた彼女の頬に、ほんの少しだけ、本当の幸福がにじんでいた。




