表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
汐見市生活課!  作者: ケン3
本編
59/96

夏の終わり!

夜空が弾けた。

 

咲き誇る花火が、光の花を空に描く。

色とりどりの閃光が、まるで夢の中のように降り注ぎ――

 

その瞬間、世界が音を失った。

 

「……ん?」

 

晴臣は、瞬きを一つした。

だが、それが引き金になったかのように、すべてが――止まっていた。

 

花火は空で凍りついたように咲きっぱなし。

周囲のざわめきも、波のせせらぎさえも、音をなくし、色すらどこか抜けている気がする。

 

隣にいた姫野も、キラキラと笑みを浮かべたまま固まっていた。

手にしたラムネ瓶の中の泡すら、動きを止めている。

晴臣は頭を軽く掻く。驚くというよりは、少し困ったような、諦めたような顔。

 

「さて、どうしたものか……」

 

まるで夢の中のような、いや、夢よりも異様な光景。

だが彼は、日常的に“こういうこと”に慣れてしまっている。

 

そんな彼の首筋を――

 

するり、と、なぞるような柔らかな感覚が走った。

 

「――っ」

 

条件反射で振り向く。

誰かの気配。

それは彼のすぐ背後に、確かにあった。

 

「こんばんは、晴臣くん」

 

そこに立っていたのは、白い肌に漆黒のウルフカット。よく似合う浴衣姿に晴臣は思わず息を呑む。それを見て淡く輝くような瞳を細め、どこか愉快そうに、真琴が微笑んでいた。

 

手は、まるで「今」触れていたかのように、彼の首筋に伸ばされたまま。

 

花火の光が彼女の輪郭を柔らかく縁取っていた。

しかしその笑みは、どこかこの世界のものではなかった。

 

「こんなに騒がしいのに、こんなに静か」

 

彼女は、時の止まった世界を見渡して、ゆっくりと目を閉じた。

 

「譲ろうと思ったけど、やっぱり無理かも」

 

その声は、優しく、でも拒絶を許さない――神話の深淵からの囁きのようだった。

 

空には、止まったままの光の花。

街の喧騒も静寂に溶け、まるで世界が一枚の絵になったような不気味な静けさ。

 

真琴は、花火大会の会場からゆっくりと海へ向かって歩き出していた。

草履の音が、静けさの中で異様にくっきりと響く。

 

晴臣はその後ろ姿を、しばらく見つめていた。

そして何も言わずに、彼女の背を追って歩き出す。

 

やがて、砂の感触が足元に変わる。

潮の香りが漂い、止まった世界の中にあって、なぜか海だけは――生きていた。

 

真琴は波打ち際で足を止めると、静かに浅瀬に足を踏み入れた。

すっかり濡れてもかまわない様子で、浴衣の裾を軽く持ち上げる。

 

「……来ない?」

 

くるりと振り返った彼女の声は、風のように柔らかい。

でもその目は、どこか試すような、誘うような――不思議な色を宿していた。

 

晴臣は苦笑しながら、裾を軽く捲って海に入る。

 

「夜の海は冷たいよ」

「……あなたが、温めてくれるんでしょう?」

 

真琴は、そんな台詞を冗談めかして言いながら、手を広げてバシャ、と海水を晴臣にかけた。

 

「うわっ……」

 

顔にかかった冷たい水に目を細める晴臣を見て、真琴は嬉しそうに笑う。

その笑みはどこまでも無邪気で――どこか、この世界に似つかわしくないほど人間らしかった。

 

まるで恋人同士が、夏の海辺ではしゃいでいるような――そんな光景。

 

けれど、周囲には誰もいない。

世界のすべてが静止した中で、ただ二人だけが動いている。

 

「ねえ、晴臣くん」

 

と、真琴がふいに声を潜めた。

 

「この世界が全部、偽物だったらどうしまする?」

 

そう言って、彼女は足元の水を見つめる。

海面に映るのは、止まった空と、真琴の影、そして晴臣。

 

「みんな止まってる。動けるのは、あなたと、わたしだけ。まるで、夢みたいでしょう?」

 

晴臣は、真剣な様子の真琴について少し考え込んでから言った。

 

「……夢でも、現実でも、綺麗な人と遊べるなら、いいんじゃないですか?」

 

真琴は吹き出した。

夜の海で、止まった世界で。

波は静かに揺れ、二人の時間だけが確かに進んでいた。

 

「――きゃっ」

 

わざとらしく軽く叫んで、真琴は仰向けに海へ倒れ込んだ。

水音がやわらかく響き、浴衣の袖が波に染まる。

黒髪が夜の海に溶けるように広がって、まるで深淵に沈む人魚のようだった。

 

「大丈夫か?」

 

晴臣が慌てて身をかがめると、真琴はその手をつかんで、ぐいと引いた。

油断していた晴臣は体勢を崩し、そのまま真琴の隣に浅瀬へ倒れ込んだ。

 

「うわっ、ちょっ……」

「ふふ。びっくりした?」

 

晴臣の腕と肩が水に濡れ、浴衣越しに冷たい海水が染み込んでくる。

けれど、その感覚すらも遠くに感じられるほど、視界に映る空は美しかった。

 

止まったままの大輪の花火。

光の軌跡を空に焼きつけたまま、動かないその輝きが、永遠のように頭上で煌めいている。

 

ふと隣を見ると、真琴も空を見上げていた。

 

「綺麗ね……」

 

彼女の声は、波と静寂のあいだをすり抜けて晴臣の耳に届く。

 

「海も冷たくて夜風も涼しくて、でも楽しい」

 

真琴はそう言って、ゆっくりと目を細めた。

まつげの先が濡れて、頬には海水と見分けのつかない水滴が伝う。

 

その笑みは、いつもの気まぐれで人をからかう顔ではなかった。

――子供のような、ひと夏の夢に身を委ねる少女の笑顔だった。

 

晴臣は言葉を返さず、ただ静かにその横顔を見ていた。

 

海は静かだった。

空は光で満ちていた。

 

そして世界は――この一瞬だけ、確かに、止まっていた。

 

「ねえ、そろそろ終わりにしよっか?」

 

海水に濡れたまま、空を仰ぎながら真琴がぽつりと言った。

その声はどこか余韻を残すようで、でもそのすぐ後にはいつもの調子で、

「……最後に、抱きしめて?」

と、いたずらっぽく笑った。

 

晴臣は一瞬だけ真琴を見て、それから――本当に何のためらいもなく、すっ、と腕を差し出した。

 

「はい、どうぞ」

「えっ」

 

声を上げる暇もなく、真琴の体はひょいと持ち上げられる。

両腕の中、晴臣の胸に抱えられたその体勢――完全なるお姫様抱っこ。

 

「ちょ……な、何を……!」

「いや、濡れたままだと風邪ひくし、浅瀬は歩きにくいので」

 

まったく悪びれもせず、真顔で説明しながらスタスタと海から上がる晴臣。

 

真琴は一瞬ぽかんとし、そのあと急激に顔が赤く染まっていく。

 

「そ、そういう意味じゃ……っ、まったくもう……っ」

 

呆れとも照れともつかない声で唇を尖らせるが、怒ったようで怒っていない。

むしろ――

 

「……まあ、いいか」

 

真琴はふっと力を抜き、晴臣の肩にそっと頭を預けた。

その体から伝わる温もりと鼓動が、濡れた浴衣の冷たさを和らげてくれる。

 

止まっていた世界の中で、自分だけが生きていて、たったひとりとつながっている感覚。

真琴は晴臣の胸元に顔を埋めるようにして、そっと目を閉じた。

 

――今だけは、このままでいいかな?

 

どこまでもいたずらな神様のように笑っていた彼女の頬に、ほんの少しだけ、本当の幸福がにじんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ