花火大会の日!
「……まぁ、せっかくだし、行くか」
家に帰った晴臣は、冷蔵庫の麦茶を飲み干しながらそんな言葉を口にしていた。
さっきまで「休みとは何か」とか「仕事放棄では?」とか悶々としていたはずなのに、
今はすっかり“花火を見に行く流れ”に乗っている。
(……なんだろうな、妙に行かないといけない気がするというか)
「──って、なんで浴衣なんてあるわけないし……まあ、いつものスーツでいいか」
ネクタイを外し、ジャケットを手に取る。
鏡をちらりと見て、少し髪を整えてから玄関のドアを開ける。
「……ん?」
その瞬間、
ちょうどインターホンに手を伸ばそうとしていた女性と、目が合った。
ラフなデニムと涼しげなカットソー。長い黒髪を一つにまとめ、サンダル越しに素足を覗かせたその姿は、晴臣よりもやや年上に見える。
「……あら」
「……カミエさん?」
「正解。出かけるところだった?」
目が合った瞬間、幽谷カミエはいたずらっぽく笑った。
「今日、花火大会なんでしょ? だから、ちょっと近くに来たのよ」
彼女はそう言って、小さく手を振る。
「よかったら、おばさんとデートでもしない? 案内してくれると嬉しいな」
「……いや、別に構いませんけど」
「ほんと? よかった~。おばさん一人じゃちょっと寂しくてねぇ」
どこまで本気なのか分からない口調で、にこにこと笑うカミエ。
ほんのわずかな違和感を胸に抱きつつ、晴臣は扉を閉め、
「じゃあ行きますか」と言って先に立った。
背後で足音がついてくる。
その音は、軽やかで、どこか嬉しそうだった。
「それで振られちゃったのよ。孫に」
カミエはわざとらしく目元を押さえ、泣き真似を始めた。
しかし、涙など出ている様子はない。
晴臣は歩きつつ一瞬だけ思案顔を浮かべる。
「……でも香奈さん、今日アイドルのライブに行くって言ってませんでした?」
「……っ!」
一瞬、カミエの動きがピタリと止まる。
泣き真似をやめた彼女は、「まったく最近の若い子は」とでも言いたげにため息をつき、首をすくめた。
「……うん、まぁ、言ってたわよ。アレよ、“ハグしてスマイル隊”とかいうやつ? なんか全身ピンクの軍団のやつ」
「それ、たぶん“ハグスマ”ですね」
「あぁ、それそれ。あの子、朝から『行ってきます!』って嬉しそうに出てったのに……
途中で“やっぱり花火大会も行きたい”とか言って終わってすぐ帰って来るんですって。だったら最初から花火だけにしなさいよって思うけど……まぁ、若いからいいか」
そう言ってカミエはため息をつきながら、肩をすくめて笑った。
「で、あの子が戻って来るまで暇になったから。おばさん、晴臣くんを連れ回してやろうと思ったのよ~。どう? 名誉なことじゃない?」
「……俺で良いなら」
「んふふ、やさしいねぇ。じゃあ、お言葉に甘えて案内よろしく~」
カミエは豪快に笑いながら晴臣の腕を軽く組んできた。
「ま、たまには若い男の子と歩くのも悪くないわね。ナンパされないように気をつけなきゃ」
「……俺が?」
「違うわよ、おばさんのほう」
あっけらかんと笑うカミエに、晴臣は苦笑しながら歩き出す。
「それはそうと、せっかくの花火大会なんだから、ちゃんとオシャレしなさいな!」
そう言うと、カミエは晴臣の腕をぐいぐい引っ張って、アパートの坂を下っていく。
目指す先は、昔ながらの佇まいを残す呉服屋――「さくらや」。
暖簾をくぐると、どこからともなく現れた店主の老婆がふふんと笑った。
「おやおや……お迎えが来たのかと思ったら、カミエじゃないか。相変わらず若い男が似合うババアだねぇ」
「褒め言葉と受け取っておくわ。あんたも相変わらず生きてるわね、さとさん」
「失礼だねぇ。こっちはまだ自力で立ってるんだよ。で、その子が今日の獲物かい?」
「獲物って言い方やめなさいってば」
カミエがニヤニヤしながら晴臣を指さすと、さと婆さんは晴臣をぐるりと一周してから手を叩いた。
「ほほーう……これは逸材だね。顔立ちもいいけど、背が高くて肩ががっしりしてる。黒の細縞か、紺の麻か……いや、いっそ白もありだねぇ。ちょっと待ってな」
奥に引っ込んだかと思うと、すぐに数枚の浴衣を抱えて戻ってくる。
「ほら、これ。あたしの目に狂いはないよ。ぜったい似合う」
「いいわねいいわね、着せましょう!」
カミエは鼻息を荒くしながら浴衣を手に取り、晴臣の肩をぽんぽんと叩く。
「さ、脱ぎなさい」
「はい」
晴臣はいつものスーツの上着を脱ぎ、ベルトに手をかけながら何の躊躇いもなく着替え始めた。
「ちょっ……ちょっと! ここで脱ぐの!?」
「? カミエさんが脱げって言ったので……」
「いやそうだけどそうじゃなくて!? ちゃんと奥の更衣室が――」
さと婆さんは大爆笑している。
「あっはっはっはっ!!いいねぇこの子! 脱ぐのに一切の恥じらいがない!」
「何がいいのよっ! ちょっと布! 何でもいいから布!」
「布布、はいよ、反物!」
カミエがバタバタと反物で晴臣を囲いながら、やや顔を赤くしているのを、晴臣は不思議そうに見つめていた。
「……何かしましたか?」
「してるわよッ!!!」
カミエは晴臣を更衣室に押し込み、ため息をついてさと婆の隣に座る。
「――はあ……まったく、最近の若いのは……いや……」
呟いたカミエは、自分の言葉にふと立ち止まった。
「最近の若いのは」なんて、いかにもの常套句だ。でも、目の前の青年――海堂晴臣に限っては、そういう問題ではない。
(いや、やっぱり坊やがおかしいのよ)
着替えの最中だというのに、まるで温泉か何かに来たかのような落ち着きぶり。
そもそも、あれだけスタイルの良い男が全く無自覚に脱いで、堂々と立っているのが問題だ。
カミエは反物で即席の仕切りを作りながら、わずかに赤くなった頬を隠そうと咳払いをひとつ。
「まったく、もう……」
すると、隣のさと婆さんがポツリと呟く。
「ほんと、あんたも相変わらず恋多い女だねぇ。
今度は年下の、しかもトンチンカンな色男とは……好みも広くなったもんだ」
カミエはびくりと肩を震わせた。
「ち、違うわよ!? あの子はただの香奈の友達で、ついでに付き合ってもらってるだけで……」
「ふーん? でも浴衣着せて花火大会に連れてくんだろ?」
「そ、それは……その、たまたま……! 香奈が……そう、香奈がいなくて!」
「へぇ~。それで、香奈ちゃんの代わりに、あんな子に浴衣着せてデート? ふーん……」
さと婆さんはニヤニヤ笑いながら、よく見知ったカミエの肩をぽんと叩いた。
「恋してるねぇ、カミエちゃん」
「恋してない!」
瞬間、カミエの声が裏返った。
晴臣の着替える気配が落ち着いたのを感じて、思わず仕切りからそっと目をやると、浴衣を着た晴臣が、きっちり帯まで結び終えて、涼しげな顔でこちらを振り返った。
「終わりました。どうでしょうか、似合ってますか?」
「……ええ。すごく、似合ってるわよ」
思わず本音が漏れた。
その姿はまるで、昭和の銀幕から抜け出してきたような美しさだった。
だが、何よりもその顔には――「褒められた意味を理解していない」――という無邪気さが漂っていた。
(……罪作りな男だわ……)
カミエは苦笑しながら、もう一度自分の頬をぺちんと叩いた。




