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汐見市生活課!  作者: ケン3
本編
56/96

花火大会の日!

「……まぁ、せっかくだし、行くか」

 

家に帰った晴臣は、冷蔵庫の麦茶を飲み干しながらそんな言葉を口にしていた。

さっきまで「休みとは何か」とか「仕事放棄では?」とか悶々としていたはずなのに、

今はすっかり“花火を見に行く流れ”に乗っている。

 

(……なんだろうな、妙に行かないといけない気がするというか)

「──って、なんで浴衣なんてあるわけないし……まあ、いつものスーツでいいか」

 

ネクタイを外し、ジャケットを手に取る。

鏡をちらりと見て、少し髪を整えてから玄関のドアを開ける。

 

「……ん?」

 

その瞬間、

ちょうどインターホンに手を伸ばそうとしていた女性と、目が合った。

 

ラフなデニムと涼しげなカットソー。長い黒髪を一つにまとめ、サンダル越しに素足を覗かせたその姿は、晴臣よりもやや年上に見える。

 

「……あら」

「……カミエさん?」

「正解。出かけるところだった?」

 

目が合った瞬間、幽谷カミエはいたずらっぽく笑った。

 

「今日、花火大会なんでしょ? だから、ちょっと近くに来たのよ」

 

彼女はそう言って、小さく手を振る。

 

「よかったら、おばさんとデートでもしない? 案内してくれると嬉しいな」

「……いや、別に構いませんけど」

「ほんと? よかった~。おばさん一人じゃちょっと寂しくてねぇ」

 

どこまで本気なのか分からない口調で、にこにこと笑うカミエ。

ほんのわずかな違和感を胸に抱きつつ、晴臣は扉を閉め、

「じゃあ行きますか」と言って先に立った。

 

背後で足音がついてくる。

その音は、軽やかで、どこか嬉しそうだった。

 

「それで振られちゃったのよ。孫に」

 

カミエはわざとらしく目元を押さえ、泣き真似を始めた。

しかし、涙など出ている様子はない。

 

晴臣は歩きつつ一瞬だけ思案顔を浮かべる。

 

「……でも香奈さん、今日アイドルのライブに行くって言ってませんでした?」

「……っ!」

 

一瞬、カミエの動きがピタリと止まる。

泣き真似をやめた彼女は、「まったく最近の若い子は」とでも言いたげにため息をつき、首をすくめた。

 

「……うん、まぁ、言ってたわよ。アレよ、“ハグしてスマイル隊”とかいうやつ? なんか全身ピンクの軍団のやつ」

「それ、たぶん“ハグスマ”ですね」

「あぁ、それそれ。あの子、朝から『行ってきます!』って嬉しそうに出てったのに……

途中で“やっぱり花火大会も行きたい”とか言って終わってすぐ帰って来るんですって。だったら最初から花火だけにしなさいよって思うけど……まぁ、若いからいいか」

 

そう言ってカミエはため息をつきながら、肩をすくめて笑った。

 

「で、あの子が戻って来るまで暇になったから。おばさん、晴臣くんを連れ回してやろうと思ったのよ~。どう? 名誉なことじゃない?」

「……俺で良いなら」

「んふふ、やさしいねぇ。じゃあ、お言葉に甘えて案内よろしく~」

 

カミエは豪快に笑いながら晴臣の腕を軽く組んできた。

 

「ま、たまには若い男の子と歩くのも悪くないわね。ナンパされないように気をつけなきゃ」

「……俺が?」

「違うわよ、おばさんのほう」

 

あっけらかんと笑うカミエに、晴臣は苦笑しながら歩き出す。

 

「それはそうと、せっかくの花火大会なんだから、ちゃんとオシャレしなさいな!」

 

そう言うと、カミエは晴臣の腕をぐいぐい引っ張って、アパートの坂を下っていく。

目指す先は、昔ながらの佇まいを残す呉服屋――「さくらや」。

 

暖簾をくぐると、どこからともなく現れた店主の老婆がふふんと笑った。

 

「おやおや……お迎えが来たのかと思ったら、カミエじゃないか。相変わらず若い男が似合うババアだねぇ」

「褒め言葉と受け取っておくわ。あんたも相変わらず生きてるわね、さとさん」

「失礼だねぇ。こっちはまだ自力で立ってるんだよ。で、その子が今日の獲物かい?」

「獲物って言い方やめなさいってば」

 

カミエがニヤニヤしながら晴臣を指さすと、さと婆さんは晴臣をぐるりと一周してから手を叩いた。

 

「ほほーう……これは逸材だね。顔立ちもいいけど、背が高くて肩ががっしりしてる。黒の細縞か、紺の麻か……いや、いっそ白もありだねぇ。ちょっと待ってな」

 

奥に引っ込んだかと思うと、すぐに数枚の浴衣を抱えて戻ってくる。

 

「ほら、これ。あたしの目に狂いはないよ。ぜったい似合う」

「いいわねいいわね、着せましょう!」

 

カミエは鼻息を荒くしながら浴衣を手に取り、晴臣の肩をぽんぽんと叩く。

 

「さ、脱ぎなさい」

「はい」

 

晴臣はいつものスーツの上着を脱ぎ、ベルトに手をかけながら何の躊躇いもなく着替え始めた。

 

「ちょっ……ちょっと! ここで脱ぐの!?」

「? カミエさんが脱げって言ったので……」

「いやそうだけどそうじゃなくて!? ちゃんと奥の更衣室が――」

 

さと婆さんは大爆笑している。

 

「あっはっはっはっ!!いいねぇこの子! 脱ぐのに一切の恥じらいがない!」

 

「何がいいのよっ! ちょっと布! 何でもいいから布!」

「布布、はいよ、反物!」

 

カミエがバタバタと反物で晴臣を囲いながら、やや顔を赤くしているのを、晴臣は不思議そうに見つめていた。

 

「……何かしましたか?」

「してるわよッ!!!」

 

カミエは晴臣を更衣室に押し込み、ため息をついてさと婆の隣に座る。

 

「――はあ……まったく、最近の若いのは……いや……」

 

呟いたカミエは、自分の言葉にふと立ち止まった。

「最近の若いのは」なんて、いかにもの常套句だ。でも、目の前の青年――海堂晴臣に限っては、そういう問題ではない。

 

(いや、やっぱり坊やがおかしいのよ)

 

着替えの最中だというのに、まるで温泉か何かに来たかのような落ち着きぶり。

そもそも、あれだけスタイルの良い男が全く無自覚に脱いで、堂々と立っているのが問題だ。

 

カミエは反物で即席の仕切りを作りながら、わずかに赤くなった頬を隠そうと咳払いをひとつ。

 

「まったく、もう……」

 

すると、隣のさと婆さんがポツリと呟く。

 

「ほんと、あんたも相変わらず恋多い女だねぇ。

今度は年下の、しかもトンチンカンな色男とは……好みも広くなったもんだ」

 

カミエはびくりと肩を震わせた。

 

「ち、違うわよ!? あの子はただの香奈の友達で、ついでに付き合ってもらってるだけで……」

「ふーん? でも浴衣着せて花火大会に連れてくんだろ?」

「そ、それは……その、たまたま……! 香奈が……そう、香奈がいなくて!」

「へぇ~。それで、香奈ちゃんの代わりに、あんな子に浴衣着せてデート? ふーん……」

 

さと婆さんはニヤニヤ笑いながら、よく見知ったカミエの肩をぽんと叩いた。

 

「恋してるねぇ、カミエちゃん」

「恋してない!」

 

瞬間、カミエの声が裏返った。

晴臣の着替える気配が落ち着いたのを感じて、思わず仕切りからそっと目をやると、浴衣を着た晴臣が、きっちり帯まで結び終えて、涼しげな顔でこちらを振り返った。

 

「終わりました。どうでしょうか、似合ってますか?」

「……ええ。すごく、似合ってるわよ」

 

思わず本音が漏れた。

 

その姿はまるで、昭和の銀幕から抜け出してきたような美しさだった。

だが、何よりもその顔には――「褒められた意味を理解していない」――という無邪気さが漂っていた。

 

(……罪作りな男だわ……)

 

カミエは苦笑しながら、もう一度自分の頬をぺちんと叩いた。

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