おかえり!
闇が晴れ、二人はまた別の空間に降り立った。どこか静かで、先ほどの喧騒が嘘のような場所。
「……ふぅ、やっとリカバリー完了」
真琴は晴臣の手を放し、こめかみを押さえながら深くため息をついた。
「……ねえ晴臣。今のことは、見なかったことにして。忘れて。お願い」
「うーん……」
晴臣は顎に手を当てて考えるふりをしたあと、さらりと答える。
「名前、聞いちゃったから無理かな」
「ッ……!」
真琴はぷるぷると肩を震わせ、ぎりっと歯を噛みしめる。
「……はぁ。晴臣くんって本当に……! 人たらし! 怪異たらし!」
「え?何その二つ名。称号? 実績解除?」
「褒めてないから!!」
真琴がぷいっとそっぽを向いたその瞬間――
どこか、遥か遠くの空間から、聞き覚えのある歓喜の絶叫が響いてきた。
「やったああああああああああああああああああ!!!!!!!!!晴臣たそに名前を覚えられたああああああああああ!!!!!!!!このに生まれてよかったあああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
「……」
「……」
「…いや、なんで聞こえてんの?」
「干渉しないのが一番。っていうか、あれに“晴臣”って言葉を使わせるの禁止ね。今すぐ法律で」
「法整備より先に、精神衛生のケアが必要な気がするよ……」
「それはつまり晴臣くんも含めて、って意味?」
「違う違う、俺はまともな方」
「その“まともな方”があんな奴の推しなの、ほんと勘弁して」
真琴は小さく息をつき、晴臣の方をちらりと見た。
「……ま、いっか。とりあえず顔合わせしとくべきなのは“ユメ”だけだし。あとは……思ったより時間使っちゃったし、これくらいにしとこっか」
「え? もう帰るの?」
「そういう顔しないの。別にここでバカンスしてたわけじゃないんだから」
真琴は肩をすくめつつ、スカートの裾をひるがえして一歩前に出る。そして少しだけ振り返って、いたずらっぽく微笑んだ。
「――十分でしょ? “ユメ”に会えて、名前呼ばれて、頭撫でられて。あれ、もしかして今日いちばん幸せだったんじゃない?」
「……うん、まあ。そうかも」
晴臣が少し照れくさそうに頭をかくと、真琴は「くくっ」と小さく笑って、右手を差し出した。
「じゃ、帰るよ。今度は触手に邪魔されないように、ちゃんと“わたしと”手を繋いで」
「それはさっきも言われたけど……考える時間くれないんだよな」
「考えても結論変わらないんだから、ノータイムでいいじゃん」
「ぐうの音も出ない」
再び手を握り合い、ふたりの姿は光の粒に包まれて消えていった。
* * *
――ぱちり、と。
まぶたがゆっくりと開く。
「……ん?」
寝ていた、という意識はない。にもかかわらず、“目を覚ました”という実感があった。
天井の蛍光灯の白い光。書類の積まれたデスク。薄ぼんやりとした室内の空気。
汐見市役所・生活課――見慣れた職場の風景がそこにある。
「……戻ってきた?」
ぽつりとつぶやいた瞬間、晴臣は頭の上に触れる何かに気付いた。
誰かに――優しく、丁寧に、撫でられているような感触。
びくりと体を跳ねさせ、思わず身を起こす。
「わっ!?」
だがそこには誰もいない。
代わりに、膝の上に滑り落ちたビニール袋があった。
中身は例の枕。
そしてその袋の表面には、小さな付箋が一枚、ぺたりと貼られている。
《またね 晴臣くん》
淡いピンク色のインクで、どこか楽しげな、癖のある文字。
――真琴の字だった。
「……どこからが夢だったんだか」
晴臣は少しだけ眉をひそめて、しかしふっと力が抜けたように笑った。
袋に入った枕をそっと抱え、椅子にもたれて空を見上げる。
「またね、か」
* * *
どこか遠く、深い海の底のような声。ふわふわとした、温度のない言葉。)
「……ここは、ね……ぜんぶ、夢のなか……」
「わたしの、夢でもあって……あなたたちの、夢でもあるの……」
「ほんとうのことも……ほんとうじゃないことも……ぜんぶ、溶けあって……とけて、とけて……ゆめみたいに……」
小さな吐息。まどろみの中、言葉の端がすこしずつ溶けていく。
「がんばってね……ハルオミ……」
「……起きていても……眠っていても……あなたのことは、ちゃんと……見てるよ……」
そして再び、静かに、ユメは眠りの中へと沈んでいく。




