眠れる少女!
形あるはずのない建物の中、ソファの上で真琴は片手を頬に当て、くすくすと笑った。
「ねえ、晴臣くん」
「……うん?」
「この街にはね、あなたに会いたがってる存在が、たっくさんいるの」
その声はまるで、猫が獲物を眺めるような愉悦に満ちていた。
楽しげで、どこか不穏で、それでいて――少し、拗ねている。
「選別なんてできないくらいよ? ほら、あなたって“ちょっとズレてる”から」
「悪口?」
「褒めてるよぉ」と言いながら、真琴はすっと手を差し出す。
指先がふわりと光の粒に包まれる。
「次の場所……手、握って?」
晴臣は言われるがまま、何の迷いもなく――ノータイムで、彼女の手を握った。
しっかりと。まるで訓練されたレスキュー隊員のように。
真琴が一瞬、絶句する。
「……ねえ。もうちょっと考えるとかさ、警戒するとかさ。あったでしょ?」
「え、真琴くんだし」
「ほんと君ってそういうとこあるよねぇ……」
呆れたように肩をすくめる真琴だったが、手を振りほどくことはしない。
むしろ、しっかりと握り返した。
次の瞬間――空間がひらく。
視界が水面のように揺らぎ、色と輪郭が裏返る。
気がつくと、そこは薄暗い部屋だった。
古い西洋風の天井。カーテンは閉ざされているが、紫色の光がどこからか差していた。
静謐な空気に包まれたその場所の中心には、ひとつのベッド。
そして、その上に置かれた――車椅子。
そこには、ひとりの少女がいた。
まだ年端もいかないような小柄な身体。
白いナイトドレスを着て、長い髪を肩に垂らし、膝に毛布をかけて……
まるで眠るように、目を閉じていた。
真琴が少しだけ声を落として言う。
「この子が、あなたに“会いたがってた存在”のひとり。名前は…ユメでいっか」
静寂が満ちる部屋の中。
ユメと呼ばれた少女は、ただ眠っていた。
まるで世界そのものが、彼女の安眠を守るために音を潜めているかのように。
真琴は、晴臣の背中を軽く押す。
「さ、行って。会いたがってたんだもの」
「え、俺が? いや、起こしたら悪いんじゃ……」
「いいから、ほら」
不思議な力でもかかっているかのように、真琴の押す手は強く、けれど優しく、背中を促す。
晴臣は苦笑いを浮かべながらも、ゆっくりと眠る少女へと歩を進めた。
そして――
ユメが、ぴくりと指先を動かす。
その細い腕が、夢うつつのままゆっくりと持ち上がり、晴臣の胸元に触れ、引き寄せるように抱き寄せた。
「え?」
晴臣が戸惑う間もなく、ユメの小さな手が、優しく、優しく――彼の頭を撫でる。
まるで幼子をあやす母のように。
あるいは、永劫の眠りから訪問者を歓迎する“始まりの存在”のように。
その瞬間、空間にほんのかすかに震えが走る。
夢の街全体が、呼吸したようにさえ感じられた。
「……ハルオミ……」
声は、確かに少女の口からは発されていない。
だが、確かに聞こえた。心の奥底に直接届くように。
そしてその直後――
「ず、ずるいんだけど!? なんでユメが先に甘やかしてるの!?」
真琴がジタバタと抗議するように叫んだ。
「私、手握ったの!なのにこの対応なに!?」
晴臣が撫でられたまま苦笑いを浮かべる。
「いや、なんか……俺もわかんないけど……なつかしい感じ?」
「なにそれさらにずるい!ちょっと代わってよ、私も撫でられたいんだけど!? ユメちゃーん!ずるいよー!」
叫びながら、真琴がふにゃっとした顔でユメの膝に顔をすり寄せようとする。
「……夢の街ってよくわかんないなぁ……」
晴臣の心の声をよそに、静かに撫でる手は止まらない。
ユメに優しく撫でられている晴臣の後ろに、ふと気配が現れた。まるでその存在が元からそこにいたかのように、ごく自然に。
「……あら? お客さん?」
柔らかく、少し鼻にかかったような声。
晴臣が振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
白を基調とした、たっぷりとしたドレス。
ふわりとした癖毛の長い髪。
年齢不詳の落ち着いた微笑みと、ほんの少し上目遣いの視線。
彼女の眼差しは、真琴ではなく――晴臣に向いていた。
「まあまあ……ふふっ」
彼女は晴臣に近づくと、優しく微笑みながら言う。
「わたくしは、ユメのお世話をしていますの。でもお名前は……まだ教えてあげないわ、海堂晴臣くん」
そう囁くと、彼女の指先が――
ユメに抱かれたままの晴臣の背中を、すぅっとなぞる。
ぞわり。
真琴が跳ね起きた。
「なぞるな!人の男の背中をなぞるな!!」
「あら……これはこれは、いたの?マコちゃん」
女性は変わらず微笑みながら、指先を止めることなく言う。
「相変わらずお行儀が悪いわ。そんな口調で男性の前に立つなんて……ふふ、だから彼に手を握られたぐらいで浮かれちゃうのよ?」
「脳みそピンク色のくせに!この桃色感染源!」
真琴が跳びかかるように立ち上がり、女性と向かい合う。
「私の晴臣にさわんなっての!こちとら汐見市からの正規ルートで来てんのよ!?名乗りもせずに男に触れるとか淫乱のそれ!」
「まあまあ……あなたに比べたら、わたくしの方が“まだ”節度があると思うのだけれど?」
「なっっ……!?こ、この、語尾が柔らかいだけの理性ゼロ女!!」
「……ふふ。怒り方もかわいいわ。まるで、嫉妬してるみたいに見えるもの」
「し、してないし! してないもん! これは怒りの感情だし! めっちゃ正当な怒りだから!」
「はいはい、マコちゃんは素直じゃないのよねぇ……ふふっ」
目を細めて笑う女性と、唇を尖らせて肩を震わせる真琴。
その間で、晴臣はまだユメに撫でられたまま、何もできずにいた。
「……すげぇ場違いなところに来た気がする」
そう、どこか遠い目でつぶやいた晴臣を慰めるかの様に、ユメは変わらず頭を撫でていた。




