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汐見市生活課!  作者: ケン3
本編
42/96

プール日和!

 そこはこの世ではない、けれどこの世のすぐ隣にある場所だった。

 

 闇でもなく、光でもなく。ただ漂う“影”が、淡く脈打つように揺れている。音はなく、時間も流れていないように思えるその空間の中で、真琴は柔らかな姿勢のままゆらゆらと浮かんでいた。

 

 彼女の周囲には、宙に浮かぶ小さな“窓”がいくつもあった。

 

 それらはどれも不規則に開いた亀裂のようであり、のぞき穴のようでもあり、向こう側には様々な場面が映し出されていた。

 

 一つの窓には、昼下がりの公園でベンチに座る晴臣の姿が映っている。隣には白髪の老人がいて、二人で缶コーヒーを飲みながら、楽しげに笑い合っていた。

 

 「んふふ、おじいちゃんと仲良ししてる……可愛い……」

 

 真琴はぼそりと呟き、肩をくすぐられたように笑う。くすくす、くすくす、と。

 

 別の窓では、夜の商店街で怪異と思しき者に声をかけられる晴臣の姿。緊張感もなく、その怪異の方も妙に気安く、まるで友人のように立ち話をしている。

 

 「また妙なのに懐かれてる……そろそろ気付けばいいのにねぇ、晴臣くんも怪異から見ると妙なんだって……」

 

 口元を指先で隠しながら、真琴は楽しげに笑った。彼女の目は、まるで愛でるような、飽きることのない玩具を見つめる子供のように輝いている。

 

 ふと、別の窓が光を帯びる。

 

 そこには、怒声と共に拳を振るう晴臣の姿。凶暴な怪異の身体が吹き飛び、壁にめり込む。表情を崩さず、冷静に、けれど一切の容赦もなく怪異を叩き伏せる晴臣の姿に、真琴の笑い声が弾けた。

 

 「わあ、またやってる。ちょっとやりすぎじゃない?でも……ほんっとに、いい顔するんだから」

 

 指先を頬に当て、うっとりした様子で窓に映る晴臣を見つめる。目を細め、夢見るように呟く。

 

 「ふふ……君を見てると、退屈なんて感じる暇ないの。ね、晴臣くん。今日も私を飽きさせないでよ?」

 

 影の空間に、誰に届くこともない独り言が溶けていく。

 真琴は、浮かび続ける。

 

 この世界の裏側で、ただひとり。

 彼のすべてを、何もかもを、見逃さぬように。

 

* * *

 

 よく晴れた日だった。

 

 夏を告げるように陽光が強く照りつけ、アスファルトも鉄柵も、すべてがじりじりと焼けるように熱を帯びていた。

 

 「暑い」

 

 海堂晴臣は額の汗を拭いながら、スーツの裾を膝まで巻き上げ、無骨なモップを片手に握っていた。濡れて貼りつくシャツの襟元を指で引き、もう片方の手でモップを動かす。

 

 ――汐見市立第一小学校、屋外プール。

 

 「なんでも屋じゃねぇんだけどな……」

 

 ぼやきながらも、黙々と掃除を進めていく。

 もとはと言えば、用務員のおじさんが足をくじいてしまい、教育委員会から市役所を通じて「生活課」に依頼が来たのだ。

 

 それにしても、暑い。

 セミはうるさく、コンクリートの照り返しも強烈で、途中で水を被りながら何とか底の泥を掻き落とし、壁の苔を落とし終えた。

 

 「……よし」

 

 ホースを取りに行き、バルブを開け、水を張り始める。

 静かに、冷たく、透明な水がプールの底に広がっていく。まだくるぶしに届くかどうかというくらいの水位。

 

 晴臣は縁に腰を下ろして、少しだけ目を閉じた。

 

 ──そして。

 

 ばしゃり。

 

 水音がした。

 

 「……?」

 

 目を開けて見ると、プールの中央──水の中に、誰かが立っていた。

 

 いや、「誰か」ではない。

 

 日傘を差し、ターコイズブルーの水着を着た少女が、にっこりと笑っていた。

 

 「やぁ晴臣くん。今日もお疲れ様、頑張ってるねぇ、ほんとえらい」

 

 虹川真琴だった。

 

 つい今しがたまで誰もいなかったプールの中心に、まるで“そこが定位置”であるかのような佇まいで立っている。足元の水面は彼女の動きにまったく影響されておらず、波紋すら広がらない。

 

 そして何より異様なのは――彼女の手にある、それなりに大きな白い日傘だった。

 

 晴臣はモップを置いて眉をひそめた。

 

 「……どこから入ったんですか。ていうか、それ持ったままプール入ってくる人、初めて見ました」

 

 真琴は笑ったまま、肩をすくめる。

 

 「晴臣くんがあんまり暑そうだから、応援に来てあげたの。ほら、見てこの日傘。結構高級なんだよ? 紫外線、ゼロって奴」

 「日傘って、プールでさすもんじゃないですよ」

 「は? さすけど?」

 

 どこか開き直ったように返す真琴。その口調はいつもより少しふざけている。

 しかしどこかしら、目の奥だけは涼しげで、影が揺れていた。

 

 晴臣はため息をつくと、再びプールサイドに腰を下ろす。

 

 「せっかく掃除したのに、濡れちゃうでしょ」

 「え、じゃあ……晴臣が、私のこと拭いてくれる?」

 「帰ってください」

 「ええー」

 

 真琴はわざとらしく悲鳴のように声を上げ、傘の先でくるくると水面を撫でた。

 その動作すらも水に影響を与えないのが、彼女の“異質さ”をより際立たせる。

 

 それでも。

 

 この平和なプールの中で、日傘を差す水着姿の少女は、どこか絵になるような、不思議な風景の一部のようでもあった。

 

「…それで、どう? これ、けっこう気合い入れたんだけど」

 

 言いながら、真琴は軽く身体をひねって見せた。

 

 ターコイズブルーの水着は、晴臣の好みを“ある程度リサーチした”うえで選ばれたらしい。胸元は控えめに見えて絶妙に強調されており、肩や太もものラインも眩しい。日傘をくるりと回しながら、さりげなく胸元を強調して見せつけてくるあたり、あざとさというより“本気”だ。

 

 晴臣は一瞬、虚を突かれたように動きを止めた。

 

 「……えっと……あの……」

 

 目が泳いでいる。視線は明らかに水着の方に向かいそうで、しかし必死に逸らしている。

 傍目には、目の前の水着姿の美女を直視できない中学生男子のような反応だ。

 

 真琴はそれが可笑しくて、なおさら前屈みになって胸元を揺らしてくる。

 

 「ねぇねぇ、ちゃんと見てる? 晴臣くんのために選んだんだよ〜?」

 「……見てません……」

 「嘘つけ〜〜」

 

 真琴がにじり寄ろうとしたその瞬間、晴臣は勢いよく立ち上がった。そして少し俯いたまま、ぽつりと言った。

 

 「……でも……その……すごく、綺麗だと思いますよ」

 

 不意に飛び出した言葉だった。

 正直で、気取っていなくて、だからこそ照れ隠しもできなかった。

 耳が少し赤く、声もどこか上擦っている。

 

 その言葉に、真琴の笑みが一瞬止まった。

 

 「……へ?」

 

 彼女はほんの僅か、肩をすくめるように震えた。

 からかうつもりだったのに、からかわれてしまったような。

 あまりにも率直で、まっすぐで、想定外すぎて。

 

 「え、あ、そっか……えへ……じゃ、じゃあ、ちょっと寒くなってきたから……これ、着よっかな……」

 

 急にそわそわと視線を泳がせた真琴は、どこからともなく──本当に“どこからともなく”──ふわりと白いロングパーカーを取り出し、水着の上から羽織った。

 

 その様子は、まるで焦った人間がカーテンの影に隠れようとするような、小さな照れの逃避。

 

 「……ばか」

 

 ぼそっと呟いた言葉は、誰にも聞こえないような小ささで、けれど確かに響いていた。

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