プール日和!
そこはこの世ではない、けれどこの世のすぐ隣にある場所だった。
闇でもなく、光でもなく。ただ漂う“影”が、淡く脈打つように揺れている。音はなく、時間も流れていないように思えるその空間の中で、真琴は柔らかな姿勢のままゆらゆらと浮かんでいた。
彼女の周囲には、宙に浮かぶ小さな“窓”がいくつもあった。
それらはどれも不規則に開いた亀裂のようであり、のぞき穴のようでもあり、向こう側には様々な場面が映し出されていた。
一つの窓には、昼下がりの公園でベンチに座る晴臣の姿が映っている。隣には白髪の老人がいて、二人で缶コーヒーを飲みながら、楽しげに笑い合っていた。
「んふふ、おじいちゃんと仲良ししてる……可愛い……」
真琴はぼそりと呟き、肩をくすぐられたように笑う。くすくす、くすくす、と。
別の窓では、夜の商店街で怪異と思しき者に声をかけられる晴臣の姿。緊張感もなく、その怪異の方も妙に気安く、まるで友人のように立ち話をしている。
「また妙なのに懐かれてる……そろそろ気付けばいいのにねぇ、晴臣くんも怪異から見ると妙なんだって……」
口元を指先で隠しながら、真琴は楽しげに笑った。彼女の目は、まるで愛でるような、飽きることのない玩具を見つめる子供のように輝いている。
ふと、別の窓が光を帯びる。
そこには、怒声と共に拳を振るう晴臣の姿。凶暴な怪異の身体が吹き飛び、壁にめり込む。表情を崩さず、冷静に、けれど一切の容赦もなく怪異を叩き伏せる晴臣の姿に、真琴の笑い声が弾けた。
「わあ、またやってる。ちょっとやりすぎじゃない?でも……ほんっとに、いい顔するんだから」
指先を頬に当て、うっとりした様子で窓に映る晴臣を見つめる。目を細め、夢見るように呟く。
「ふふ……君を見てると、退屈なんて感じる暇ないの。ね、晴臣くん。今日も私を飽きさせないでよ?」
影の空間に、誰に届くこともない独り言が溶けていく。
真琴は、浮かび続ける。
この世界の裏側で、ただひとり。
彼のすべてを、何もかもを、見逃さぬように。
* * *
よく晴れた日だった。
夏を告げるように陽光が強く照りつけ、アスファルトも鉄柵も、すべてがじりじりと焼けるように熱を帯びていた。
「暑い」
海堂晴臣は額の汗を拭いながら、スーツの裾を膝まで巻き上げ、無骨なモップを片手に握っていた。濡れて貼りつくシャツの襟元を指で引き、もう片方の手でモップを動かす。
――汐見市立第一小学校、屋外プール。
「なんでも屋じゃねぇんだけどな……」
ぼやきながらも、黙々と掃除を進めていく。
もとはと言えば、用務員のおじさんが足をくじいてしまい、教育委員会から市役所を通じて「生活課」に依頼が来たのだ。
それにしても、暑い。
セミはうるさく、コンクリートの照り返しも強烈で、途中で水を被りながら何とか底の泥を掻き落とし、壁の苔を落とし終えた。
「……よし」
ホースを取りに行き、バルブを開け、水を張り始める。
静かに、冷たく、透明な水がプールの底に広がっていく。まだくるぶしに届くかどうかというくらいの水位。
晴臣は縁に腰を下ろして、少しだけ目を閉じた。
──そして。
ばしゃり。
水音がした。
「……?」
目を開けて見ると、プールの中央──水の中に、誰かが立っていた。
いや、「誰か」ではない。
日傘を差し、ターコイズブルーの水着を着た少女が、にっこりと笑っていた。
「やぁ晴臣くん。今日もお疲れ様、頑張ってるねぇ、ほんとえらい」
虹川真琴だった。
つい今しがたまで誰もいなかったプールの中心に、まるで“そこが定位置”であるかのような佇まいで立っている。足元の水面は彼女の動きにまったく影響されておらず、波紋すら広がらない。
そして何より異様なのは――彼女の手にある、それなりに大きな白い日傘だった。
晴臣はモップを置いて眉をひそめた。
「……どこから入ったんですか。ていうか、それ持ったままプール入ってくる人、初めて見ました」
真琴は笑ったまま、肩をすくめる。
「晴臣くんがあんまり暑そうだから、応援に来てあげたの。ほら、見てこの日傘。結構高級なんだよ? 紫外線、ゼロって奴」
「日傘って、プールでさすもんじゃないですよ」
「は? さすけど?」
どこか開き直ったように返す真琴。その口調はいつもより少しふざけている。
しかしどこかしら、目の奥だけは涼しげで、影が揺れていた。
晴臣はため息をつくと、再びプールサイドに腰を下ろす。
「せっかく掃除したのに、濡れちゃうでしょ」
「え、じゃあ……晴臣が、私のこと拭いてくれる?」
「帰ってください」
「ええー」
真琴はわざとらしく悲鳴のように声を上げ、傘の先でくるくると水面を撫でた。
その動作すらも水に影響を与えないのが、彼女の“異質さ”をより際立たせる。
それでも。
この平和なプールの中で、日傘を差す水着姿の少女は、どこか絵になるような、不思議な風景の一部のようでもあった。
「…それで、どう? これ、けっこう気合い入れたんだけど」
言いながら、真琴は軽く身体をひねって見せた。
ターコイズブルーの水着は、晴臣の好みを“ある程度リサーチした”うえで選ばれたらしい。胸元は控えめに見えて絶妙に強調されており、肩や太もものラインも眩しい。日傘をくるりと回しながら、さりげなく胸元を強調して見せつけてくるあたり、あざとさというより“本気”だ。
晴臣は一瞬、虚を突かれたように動きを止めた。
「……えっと……あの……」
目が泳いでいる。視線は明らかに水着の方に向かいそうで、しかし必死に逸らしている。
傍目には、目の前の水着姿の美女を直視できない中学生男子のような反応だ。
真琴はそれが可笑しくて、なおさら前屈みになって胸元を揺らしてくる。
「ねぇねぇ、ちゃんと見てる? 晴臣くんのために選んだんだよ〜?」
「……見てません……」
「嘘つけ〜〜」
真琴がにじり寄ろうとしたその瞬間、晴臣は勢いよく立ち上がった。そして少し俯いたまま、ぽつりと言った。
「……でも……その……すごく、綺麗だと思いますよ」
不意に飛び出した言葉だった。
正直で、気取っていなくて、だからこそ照れ隠しもできなかった。
耳が少し赤く、声もどこか上擦っている。
その言葉に、真琴の笑みが一瞬止まった。
「……へ?」
彼女はほんの僅か、肩をすくめるように震えた。
からかうつもりだったのに、からかわれてしまったような。
あまりにも率直で、まっすぐで、想定外すぎて。
「え、あ、そっか……えへ……じゃ、じゃあ、ちょっと寒くなってきたから……これ、着よっかな……」
急にそわそわと視線を泳がせた真琴は、どこからともなく──本当に“どこからともなく”──ふわりと白いロングパーカーを取り出し、水着の上から羽織った。
その様子は、まるで焦った人間がカーテンの影に隠れようとするような、小さな照れの逃避。
「……ばか」
ぼそっと呟いた言葉は、誰にも聞こえないような小ささで、けれど確かに響いていた。




