日常!
晴臣は、軍手をはめ直しながら腰を伸ばした。
生活課に来た依頼。市営住宅の裏手、小さな空き地。草はびっしりと生い茂り、夏の陽気に照らされて青臭い匂いが立ちこめている。
「ふー……いい汗だな。ま、怪異も出ない日はこんなもんだよな」
額の汗をぬぐって、ふと鼻歌を口ずさみながら作業に戻る。
リズムは少しだけずれている。歌詞も曖昧。でもそんなことはどうでもよくて、スコップの先に絡む根をぶちぶちと断ち切るこの感じが、妙に心地よい。
日差しは強い。蝉の声も響く。
けれどその背後、ひときわ涼しげな空気を纏って、日傘をさすひとりの女性が佇んでいた。
虹川真琴。
白いワンピースに、淡い赤色の長い日傘。涼やかな風がスカートの裾を揺らし、彼女は静かに、しかし満足げに微笑んでいた。
その視線は、土まみれになって草をむしる晴臣に向けられている。
まるで──愛らしい動物の観察でもしているかのように。
(ほんとうに、こういうところが……)
真琴は口元に手を当てて小さく笑った。
(まったく飽きないのだから)
その声はもちろん、晴臣には届かない。
彼はちょうど、茎が頑丈なドクダミと格闘中だった。
「お、こいつは手強いな……いや、むしろ根が深いということは──」
どこかで覚えたらしい知識を披露しながら、晴臣は地面と格闘している。
何をしていても真面目なその姿に、真琴はひとつ小さく息を吐き、傘の柄を握り直した。
今日という日もまた、彼女にとっては特別で、かけがえのない時間だった。
ふと、視線を感じた気がして晴臣は顔を上げた。空き地の入口、柵の向こう──さっきまで誰かがいたはずの場所。
けれどそこには、誰もいなかった。
「……あれ?」
日傘も、白いワンピースもない。
風がひとすじ通り抜け、背後の木々を揺らす。
首をかしげる晴臣の背後、するりと伸びる白い腕。
その手に握られた、冷えた缶ジュースが──
「!?」
頬に触れた瞬間、思わず変な声が出た。
振り返ると、缶を持った真琴がいた。
「熱中症で倒れないでね、晴臣くん」
涼しげな声。
くすりと微笑むその顔は、どこかいたずらっぽい。
「うお……びっくりしたぁ……てか、いたなら声かけてくださいよ」
「いたけど、あなたが気づかなかったのよ? ずいぶん草と格闘してたもの」
真琴は缶を手渡すと、傘を少し傾けて晴臣の汗をぬぐうようにそっと影を落とす。
缶はよく冷えていて、手のひらにもひんやりと心地よかった。
「ありがと。……おお、ピーチ味だ」
缶を開け、一口飲む。思っていたより甘いけれど、体に染みる味だった。
「ふふっ。たまには、こういうのもいいでしょう?」
真琴はそれ以上何も言わず、傘を差したまま、ほんの少しだけ彼の隣に腰を下ろす。
土の匂い、蝉の声、ジュースの甘さ。
そこに怪異も、異常もなかった。
ただ、奇妙なほど穏やかな──汐見市の、ある夏の日だった。




