初恋の人!
リビングの戸が開いて、姫野と咲が「きゃーっ」と笑いながら現れた。姫野はドレスの裾を軽く摘んでモデル歩き、咲はその横でスマホを構え、動画を撮っている。
「ルイ先生〜、その角度最高! ちょっともう一回歩いて!」
「ふふん、当たり前じゃない。私は生まれながらのアイドル……って、げっ」
ドスッ、と姫野の動きが止まる。すぐさま咲のスマホを下げさせ、リビングの奥を指差して顔を顰めた。
「な、なんであんたがいるのよ……!」
ソファの上、湯呑みを手に静かに笑っていたのは真琴だった。
穏やかな空気を漂わせたまま、いつの間にか晴臣の隣に座っていた彼女は、軽く手を振って「やあ」とだけ言う。
その瞬間――
「……あ」
咲が、立ち尽くす。
その視線は、真琴の姿に吸い寄せられるように一点を見つめたまま動かない。
瞳孔が広がり、口がゆっくりと開いていく。
「ちょ、ちょっと咲ちゃん、目閉じて! 見ちゃダメ、見ちゃダメ!」
姫野が慌てて手を伸ばして咲の顔に被せようとするが――間に合わなかった。
「……駅前で、見た人」
ぽつりと、咲が呟いた。
「……え?」
「駅前で、見かけて……ずっと、忘れられなかった。銀色の光が、あの時……」
咲の頬がほんのり赤く染まり、うっとりと真琴を見つめる。
その視線の熱に、真琴が瞬きした。
そして、微笑んだ。
「……ふふ。はじめまして、かな?」
「……う、うん……」
「……」
「……」
沈黙。
姫野の頭がゆっくりと下がる。
「……いや、待って。なにこの展開。おかしくない? おかしいわよね!? ちょっと誰か突っ込んで!? ていうか私が突っ込むわ!!」
咲の肩を掴んでガタガタ揺らし始める姫野。
「ちょっと咲ちゃん!?やばいのよ!? 設定てんこ盛りで、裏でなんかいろいろヤバくて、ハルくん狙ってて、それでそれで……!」
「えっ、でも……すごく、きれい」
「違う! “きれい”のベクトルが違う! これは惑わされてるだけ! 幻覚よ!」
パニック状態の姫野の声をよそに、咲はほうっと息を吐いて、真琴から目を逸らさなかった。
一目惚れの相手が、今、目の前に現れた。
しかも、よりによって――あの真琴だった。
咲はまだ、動かなかった。
銀白のハイトーンヘアをわずかに揺らしながら、ぽかんとしたまま、真琴を見つめている。
完全に“落ちた”目だ。
そんな咲を見た姫野の頭から、ぷつんと何かが切れた。
「……咲ちゃん、だめだわ。君はまだ、何も知らないのよ……」
姫野がゆっくりと咲の前に立ち、片手を上げる。
くるりとその場で一回転したかと思えば、右手を高々と掲げ──
「初めてのマブダチを守るためなら、あたしは……あたしは、命を懸けるッ!!キェエエエエェ!!」
謎の掛け声とともに、姫野がゴスロリドレスの裾をばっさばっさとなびかせて、謎の戦闘ポージングを取る。
指を開いて額の横に構えた姿は、まるで古の美少女戦士。
……いや、もはや絶滅危惧種の何か。
「うわぁ……」
ソファに座る晴臣が目を逸らす。
その隣で、真琴がくすくすと微笑みながら湯呑みを手にした。そして、お茶を一口──すっと息を吐いてから、優雅に言った。
「誤解よ。私、何もしてないわ」
その声は優しく、どこまでも無邪気で、しかしなぜか逆に底知れない。
「魅了? そんな真似、してないわ。本当に」
そう言って、真琴は咲の方に顔を向ける。
「駅前で会ったのも偶然。ただ、晴臣くんを迎えに行っただけ。……その時、彼女が私を見てたのは気づいていたけど」
その視線には敵意も悪意も、色香さえもなかった。ただ、真琴らしい、不思議な透明感だけがあった。
咲の唇が微かに動く。
「……やっぱり……駅前の、あの光……」
「光? あら、それは多分夕日ね。私、“この体”は別に光る体質じゃないから」
微笑む真琴に、咲はこくこくと小さく頷く。
一方、姫野は全身に怒りと焦燥を漲らせていた。
「う、うそよ……絶対なにかしてるでしょ!? なんかその、呼吸とか、フェロモンとかいつもの魔力でっ……!」
「ほんとに、何もしてないのよ?」
さらりと返す真琴に、姫野が歯を食いしばる。
「うぐぐ……この……天然爆撃機……!」
真琴は一層やさしく笑う。
「咲さんの“初恋”を壊す気はないわ。その気持ちは大切にしてね」
「くっ……な、なんであんたが余裕なのよ!」
唇を噛む姫野に、晴臣がぽつりと漏らす。
「……ほんと、変な人多いな」
その言葉に真琴が嬉しそうに、晴臣の隣にぴたりと寄り添って、小さく囁いて、にっこりと微笑んだ。
「晴臣くんが魅力的だからさ」
* * *
咲は、箸を動かしていた。
夕食は、母の作った鶏の照り焼きと、ほうれん草の胡麻和え。そして味噌汁。実家らしい、ありふれた献立。
テレビからはバラエティ番組の笑い声。父がビールの缶を開け、母がご飯をよそっている。
けれど咲は、ひと口も食べていなかった。
「……咲?どしたの。食べないの?」
母の声に、咲ははっと顔を上げる。
「あ、ごめん。なんか……ボーッとしてた」
「昼間、疲れたの? 姫野ちゃん来てたんでしょ?」
「うん、晴臣くんと一緒に……」
咲はそこまで言って、言葉を止めた。
そのときのことは、ぼんやりと覚えている。
姫野がゴスロリ姿で現れて──やたらとテンションが高くて──それからリビングに行って──
……そのあと、誰かがいた気がする。
女の人──たぶん、すごく綺麗な人。
銀髪? 黒髪? 覚えてない。
声も、顔も──なぜか思い出せない。
けれど、確かにそこに“いた”という、妙な確信だけが胸の奥に残っている。
「……なんか、もうひとりいた気がするんだけど……」
つぶやくように言ったその声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「もうひとり?」
父が眉をひそめる。
咲は小さく頷いた。
「うん……でも、思い出せない。……なんでだろ」
ご飯の湯気がゆらゆらと立ち上る。その揺らめきの奥に、なにかがいそうな気がした。
咲は目を細めて、その先を見つめようとする。
けれど、どれだけ目を凝らしても、そこにはただの湯気しかなかった。




