丸呑み煎餅!
翌朝。汐見市役所の一角、生活課。
古い蛍光灯が明滅し、空調の音がやけに耳につくこの部署には、今日も特有の「やる気のなさ」が漂っていた。
――ただし、それは晴臣だけに限った話だ。
「はぁ……また書類、増えてるし」
デスクに積み上げられた報告書と、申請書と、怪異報告書。
どれも、汐見市で起きたちょっとした“異変”について市民が提出したものだ。
道端に出現した底なし穴。
公園のブランコで口論する空中浮遊体。
語尾が“もきゅ”になる伝染病の疑い――などなど。
「生活課」の役目のひとつは、こうした“日常に紛れ込んだ異常”に対応すること。
大半は苦情対応、調査、説得、時に物理的な排除。
晴臣はそんな書類に黙々とペンを走らせていた。
「おい晴臣……お前、午前中、空いてるよな?」
ぼそりと背後から声がする。生活課の課長、くたびれた背広とコーヒー臭をまとった男、名前は誰も覚えていない。皆からは単に「課長」とだけ呼ばれている。
「課長、俺は今日は書類処理優先でお願いしてます。見てください、この“もきゅ”案件、まだ三件目ですよ?」
「いやいや、外回りも大事だぞ。市民の声を聞いてこその生活課ってやつだろ? ほら……アレもいるし」
ちら、と課長の視線が向けられた先――
応接用の古びたソファ。
そこに無遠慮に腰を下ろしていたのは、私服姿の虹川真琴だった。
「……うま」
ごく、ごくり。
彼女はなぜか煎餅を手にしていた。しかも袋から取り出すたび、丸呑みしている。
「歯で噛む」という文化がないのか、あるいはそもそも嚥下の定義が違うのか――よくわからないが、とにかく“違和感”しかない。
「それ、どこから……いや、誰の?」
「給湯室の下にあった缶。『賞味期限が平成』って書いてたけど、案外大丈夫だったよ?」
「いや、よくないし!それ課長である僕の非常食だよ!おい晴臣……お前だけじゃツッコミが足りんのよ。頼むから、あいつを外に連れてってくれ。な?」
課長が手のひらを合わせて懇願してくる。
その目は、もはや哀願というより「こっちを見るな」という絶望の色に近い。
「でも課長、真琴くん連れてくと現地の人が崇拝を始めたりするじゃないですか。あれ、近隣住民の対応が大変なんですよ」
「なら、お前が監視しながら外に連れてけ。頼むから、ソファで煎餅丸呑みする異形を“通常業務の景色”にしないでくれ……っ!」
晴臣が息をつこうとしたその瞬間、真琴がくるりと身体ごと向きを変え、にこにこと手を振ってきた。
「ね、晴臣くん。今日も一緒に行けるんでしょ?」
まるで最初からそのつもりだった、という風に。
「……はあ。わかりました。じゃあ、1時間だけ。すぐ戻ってきますからね?」
「やったー!」
晴臣が立ち上がると、真琴はごく自然に隣に並んで歩き出した。
まるで自分が“職員”であるかのように。
課長はというと、デスクの奥に身を沈めながら、何度も何度もため息をついていた。
「頼むから、今度こそ普通の市民対応で終わってくれよ。冗談じゃなく“災害指定”つきかけてんだからな……」
その声を、誰もまともに受け止めることはなかった。
外回りに出ていく晴臣と真琴。
その背中を見送りながら、課の空気はまた何事もなかったようになる。
――汐見市の生活課。それは、今日も“異常な日常”と隣り合わせの、ささやかな職場だった。