襲来!
扉のロックが外れる。
ゆっくりと引かれた玄関の扉の向こうには、陽光を背に立つひとりの女性の姿があった。
「よォ。朝っぱらから元気だ…な?」
すっと日差しの中に歩み出たその女は、漆黒のロングコートに身を包み、腰まで伸びるシャープな髪型。鋭利な目元と整った顔立ちは、瞬間的に見る者に“只者ではない”と直感させる何かを持っていた。
そして何より衝撃的だったのは、その容姿だ。
──彼女は、少なくとも70代後半だと記録にある人物だった。
しかし、目の前に立つその女は――
多く見積もっても30代前半、むしろ20代にしか見えない若々しさと、肉体的なキレを保っていた。
「げっ」
言葉を失う姫野の肩越しに、タオルケットを肩に羽織ったままの真琴が、その姿を目にして小さく息を呑む。
カミエの目が、ふたりを一瞥する。
その瞳には驚きも困惑もなかった。ただ、観察者としての冷静さと、沈黙の圧力だけが存在していた。
「……とりあえず、中に入れてくれや。香奈のやつ、部屋におらんし」
凄味のある低音でそう言った彼女は、すでに「断る」という選択肢を封じているような雰囲気をまとっていた。
顔を引きつらせながらも、姫野はカミエに道を開けた。
彼女が一歩部屋の中に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わるような錯覚が走った。
「それで…あんたらもいるのかい、ここに」
そう言いながらカミエは靴を脱ぎ、迷いなく部屋の奥へと歩みを進めた。
「ちょ、ちょっと……!」
姫野が制止しかけたが、無視するかのようにカミエは冷蔵庫を開ける。そして中から無造作にペットボトル入りのアイスコーヒーを取り出し、コップに注ぎ始めた。
「……言っとくけど、このアパートには結界を張ってある。そんじょそこらの怪異やら怨念やら、這っても入れないようになってる。それでも平然と入り込めてるってことは、まぁあんたらは“その程度じゃない”ってことさ」
真琴と姫野が無言で顔を見合わせた。カミエの言葉は、事実を述べているだけにもかかわらず、そのまま相手の存在を飲み込み、包囲するような威圧感を纏っていた。
「はい、座って座って」
真琴と姫野をテーブルの向こう側へ手で促し、自らはソファへ腰を下ろすカミエ。コーヒーを啜る音だけが静かに響く。
「……まあ、存在そのものは前から知ってたよ。あんたらのことは。どうせ坊やに“引き寄せられた”んだろうし……暴れてないうちは放置しとく方が、組織的にも穏便だからね」
まるで世間話のような口調だが、告げている内容は軽くない。
姫野がむっとしながら口を開きかけたが、それより先にカミエの声が上書きする。
「けどね──1人の男を取り合って、朝っぱらからキャーキャーちちくり合うってのは、どうなのかねぇ?」
「……っ!」
「わたしはね、怪異でも人間でも、そのへんの分別がつかない連中がいちばん面倒だと思ってるんだよ。本能と感情だけで突っ走るやつってのは、殺すにしても話すにしても手間がかかるからさ」
真琴も姫野も、揃って目を逸らす。
言い返そうにも、なにひとつ反論の余地がなかった。
カミエはそんなふたりの様子に、ふぅ、とため息をついて背もたれに身を預けた。
「ま、あの坊やのことだ。どうせ、こっちが命懸けで想ってても、すぐさまケロッとしてるだろ?バカみたいに」
その言葉には、不思議と棘がなかった。
むしろ、ある種の達観と諦観が、にじんでいた。
「だからまあ、せめて──暴れず“面白い奴”でいてくれや。」
そう言って、カミエはふたりに向かって小さく笑った。
その笑顔には、常識も非常識も、すべて見抜いた者の余裕が滲んでいた。
そしてカミエはひとくち、アイスコーヒーを啜ると、冷たい視線で真琴を見やった。
「ついでに言っとくけどさ──」
「……?」
真琴が小首を傾げると、カミエはさも呆れたように口を開いた。
「うちの若い工作員の脳みそ、勝手に弄くって記憶を飛ばすの、やめてくれる?しかも金庫に入って資料読み漁るとか、あんたのせいで監視部隊が3人ぶっ倒れたわ」
「えぇ~?だって幸太郎少年が私のこと調べてたし、他のも言葉の矛盾を辿って解析したら、ちょっとだけ改竄が必要だっただけで……」
真琴はいたずらっぽく笑いながら頬に指を添える。しかしその顔には、無邪気さの奥に確かな悪意と理不尽が潜んでいる。
カミエが肩をすくめた瞬間、横からガタンと音がした。
「──ああもう!!」
勢いよく立ち上がったのは姫野だった。
細身の体に宿る異形の力が、空気を軽く震わせる。
「喧嘩売ってんのかババア!?」
鋭く睨みつける姫野のこめかみに、再び青筋が浮かぶ。
可愛らしく整った顔からは想像できない怒気が滲んでいた。
カミエは一瞬、姫野を見たまま黙り込んだ。
その表情は変わらない。むしろ──どこか笑っていた。
「……あー、はいはい。“ババア”ね。」
彼女はソファに座ったまま、ゆっくりと脚を組み替える。
「それ、ちょっと笑えるんだけど……まあ、いいわ。好きに言いなさいな。でもね、姫野ルイ。あんたの本当の名前、今ここで言ってもいいんだよ?」
「ッ……!」
姫野の表情が一瞬で凍りつく。
「“ここで”名乗れない事忘れてないだろうね?」
カミエの声は静かだった。
静かだからこそ、部屋全体に冷たい釘を打ち込むように響いた。
「……どうする?まだ“ババア”って呼ぶ?」
姫野は唇を噛みしめ、やがてゆっくりと椅子に座り直した。
その様子を見届けてから、カミエはようやく目を細めて笑った。
「ま、言っとくけどあたし、あんたたちみたいなの相手にするのは嫌いじゃないのよ。本気で潰すほど暇じゃないだけ。それくらい察してくれりゃ、助かるわ」
そして、真琴に向き直る。
「だから、そこの邪神──。あたしの組織の設備、今後は勝手に開けるな。あと人の脳みそを調整するのは申請を通せ。」
「申請すればいいんだぁ?」
「通ると思うなよ」
一言で切り捨てられた。
そして玄関の扉がガチャリと開き、汗をうっすらにじませた海堂晴臣が入ってくる。
「ただいまっと。あれ、なんか空気……重くない?」
部屋の奥から感じる、妙な緊張感と沈黙。
靴を脱ぎながら顔を上げた晴臣は、視線を感じてリビングを見やる。
そして──目が合った。
「おう、色男じゃねぇか!」
「……えっ?」
唐突に飛び込んできた、異常に明るい声。
ソファに座っていた女性──幽谷カミエが、さっきまでの冷ややかな雰囲気からは想像もできない勢いで立ち上がった。
「ジョギング帰りか?いいじゃないの若い男、汗が清々しい!」
「えっ、あ、はい……あれ? 幽谷さん? って、なんでここに……」
混乱する晴臣の背中に、バンバン!と容赦のない平手が叩き込まれる。
「まさかとは思ったけど、ほんとに女を連れ込んでたとはなぁ~!やるじゃないか色男!若いもんはこうでなくちゃ!」
「え、ちょ、違っ──!」
「でもうちの香奈が泣くのは見たくないからな!アハハハハ!」
豪快に笑い飛ばすカミエ。
その横で、顔を真っ赤にした姫野が眉をピクつかせて立ち上がる。
「連れ込まれてねぇだろがッ!!このバ」
「いやん」
「ぐげっ!?」
肘で姫野の鳩尾を突き、真琴が頬に手を当てて体をくねらせる。
三人のやり取りを眺めつつ、晴臣は戸惑いながらポカンと立ち尽くす。
「……え? なんで俺が悪いみたいな空気になってるんですか……?」
その問いに答える者はいなかった。
ただカミエが、笑いを噛み殺しながら彼の肩を抱き寄せ頭をガシガシしながらこう言った。
「ま、今朝は騒がしかったけど許してやんよ。モテる男の宿命だ」
「ほんとに違うんですよ……?」
そんな晴臣の声もむなしく、リビングの空気は朝から宴会のように騒がしくなっていくのだった。




