嵐の予感!
「……まったく。あれほど言って潰れてどうするんだよ」
晴臣は、昨夜テーブル下で撃沈した真琴の体をひょいと抱え上げ、慣れた手つきでソファに寝かせタオルケットを被せる。
その顔には酔いの痕跡など微塵もなく、むしろ清々しいまでに健康そのものだった。
テーブルには空いたボトルが七本、台所には大量に。
対してカクテルグラスが三つ。
おつまみの皿はきれいに空。
「……ま、よく寝てんな」
小さく呟いた晴臣は、タンスからジャージを取り出すと着替えを終え、ドアを静かに閉めた。
早朝五時半。
空はまだ淡い藍色に染まっている。
「さて……いっちょ走るか」
彼は軽く屈伸運動をし、靴紐を確かめる。
そして、いつも通りのルート──汐見市外縁の川沿いから、住宅地、丘陵地帯を巡り、そのまま市を一周するコースへと駆け出した。
──彼のジョギングは、“ジョギング”と呼べる速度ではない。
走る。
いや、滑るように、風を切るように。
空気が裂け、景色が流れ、人の目には残像すら残らない。
それでも、道ですれ違う市民たちは普通に挨拶を交わしていた。
「あ、海堂くん! 今日は早いねぇ!」
「おはようございます。涼しいので調子がいいんですよ」
「はっはっは! 若いっていいね!」
「失礼します」
ジョギング中にもかかわらず、晴臣の口調は終始丁寧だ。
呼吸一つ乱れず、汗すらかかない。
その様子はもはや人間離れしており、しかし彼はそれを一切意識していない。
──朝日が差し、坂の上に立つと、汐見市全体が見渡せる。
「……平和だな」
風に髪を揺らし、晴臣はふと立ち止まり、静かに息を吐く。
昨日、彼の部屋で潰れた真琴。
世界にとっては“常識外の存在”であるはずの彼女が、ソファで毛布に包まっていびきをかいている──
それを当然のように受け入れながら、この街を守る一人の青年。
彼は怪異にも、人間にも、そして物理法則にも無頓着なまま、今日もまた日常を走り抜けていく。
「……さて。戻って朝飯でも作るか。たぶん、起きたら腹減ってるだろうしな、」
一言ぼやいて、再び彼は足を動かす。
一陣の風が吹き抜け、彼の姿は坂の向こうへと消えていった。
* * *
薄暗い部屋の中で、真琴は静かに目を開けた。
昨晩の記憶は──途中までしかない。
確か、晴臣と飲み比べのような流れになり、ふわりと浮くような感覚を最後に、記憶はぷつりと途切れている。
「……ん」
体を起こそうとしたが、かかっていた毛布──いや、タオルケットが滑り落ちそうになり、思わずその端を握りしめた。
やや大きめの男物で、薄手の生地。香りは柔らかく、どこか心地よい。
「……うむ」
鼻先に少し近づけ、真琴はくんと小さく匂いを嗅ぐ。
柔軟剤ではない、もっと生活の香りに近い。洗剤と、少しだけ汗と、ほんのりアルコールの香りが混じっている。
「人間はこういうのに、興奮するらしいけど…」
呟きながら、ぼうっと宙を見つめる。
「好きな人の匂い」とか「男の人の残り香」とか、俗っぽい話は何度も観察してきた。だが、自分がそういった対象に当てはまるとは、考えてもみなかった。
──と。
「……!」
玄関の鍵がガチャリと音を立てた。
真琴は反射的に体を横にし、タオルケットを頭まで被って寝たふりを決め込む。
晴臣かと思ったが──違った。
「あれいないじゃんっていうか酒くさっ!」
入ってきたのは、美しい声。
吐息のようにしゃべるのに、妙に響く少年の声──姫野ルイだった。
「はぁぁ……もう。朝からこんなに散らかして……!」
ヒールの音を鳴らしながら部屋に入ってきた彼は、文句を言いながらもテーブルに置きっぱなしの空きボトルを片付け始める。
「デートに誘おうと思って来たのにさぁ、肝心の人間がいないって何それ。バカじゃない?」
グラスを流しに運び、スポンジに洗剤をつけて、くるくると泡立てる。
その手つきは、あまりに慣れていて──
「なんで私が世話焼いてんのよ。家政婦かっての……」
ぶつぶつと文句を言いながら、それでも手は止まらない。
皿を洗い、布巾で水気を拭き取り、テーブルの輪ジミを拭く。
ソファに寝転ぶ真琴は、タオルケットの隙間からわずかにその様子を覗いていた。
ルイは確かに怒っている。口調も表情も、いつもより鋭い。
──けれどその動きのひとつひとつには、どこか「慣れ」と「優しさ」が滲んでいた。
(ふうん……やっぱり、ちょっとズルい)
真琴は目を閉じ、布の奥で小さく鼻で笑った。
姫野ルイは、ただの対抗心で晴臣に近づいているわけじゃない。
そのくらい、同じ“怪異”である自分にはすぐに分かる。
(……ま、寝たふりくらいは、してあげるわ)
そんな余裕ぶった思考を浮かべながら、真琴は一切動かず、まるで天女のように、無垢な寝顔を装い続けるのだった。
しかし。
「……ふぅ。完了っと」
キッチンを磨き終えた姫野ルイは、エプロン代わりに使っていた自分の上着を脱ぎながら、ソファの前に歩いてきた。
「もー……何で私がここまでしなきゃいけないのよ……ほんと……」
文句を言いながらも、掃除と片付けで少し汗ばんだ顔には、どこか満足そうな達成感が浮かんでいる。
慣れた手つきで姫野はソファに腰を下ろそうと──
「……ん?」
膨らんでいた。
ソファに置かれたタオルケットの一部が、どう見ても人型に盛り上がっている。
くるまるように、丸く。しかも妙に温かそうな気配すらある。
「……ハルくん?」
一瞬、そう思って口に出しかけた姫野だったが──
(いや、ないわ)
晴臣がタオルケットでソファに寝るような男ではない。
必ずきっちりベッドに向かうし、寝室のドアだけは閉める几帳面さがある。
「ちょ、ちょっと……?」
不穏な何かを察知した姫野は、つま先立ちで寝室へと足を運ぶ。
ドアをそっと開けると──当然、ベッドは整ったまま。誰もいない。
「……じゃあ、じゃああれ誰!?」
青ざめながらリビングに戻ってきた姫野は、ソファの前に立ち尽くす。
そして、恐る恐る。本当に恐る恐る、指先でタオルケットの端を摘む。
「い、いや、なに? え、幽霊?まさか怪異? え、でもこのアパート、あのババアが結界張ってるし……」
ぶつぶつと不安を口にしながら、少しずつ、ゆっくり、慎重に──
タオルケットを、めくる。
──その瞬間。
「おはよう」
ぱっと現れたのは、満面の笑顔。
目を見開き、口角をにゅるりと持ち上げた──虹川真琴だった。
「ぎゃあああああああああああああ!!」
姫野の絶叫が、朝の静かな部屋に響き渡る。
手に持っていたタオルケットを放り投げ、尻もちをついた彼は、その場にばったりと倒れ込んだ。
「あら、そんなに驚くことかしら?」
タオルケットの中から体を起こしながら、真琴はどこか楽しげに笑っていた。
彼女の金色の目は、まるで計画通りだとでも言いたげに細められている。
「ふふ……朝からいい声、ありがとう。目が覚めたわ」
そう言ってタオルケットを肩にかけ、まるで勝者のようにソファに腰かける真琴。
その足元では、顔面蒼白の姫野ルイがうめき声をあげていた。
「て、てめぇなんで、ここに!ハルくんの部屋で、しかもソファで寝てんだよ!」
「昨日ね……ちょっと飲みすぎちゃって。ほら、彼があんまり楽しそうに呑むから、つい付き合っちゃって」
タオルケットの隙間から覗く肩が、あざとく揺れる。
真琴はわざと無防備に肌をさらしながら、まるで何かを“見せつけるように”囁いた。
「……でも、朝にはちゃんと起きてたのよ? ほら、晴臣くんと一緒に、ね」
「ッ……」
姫野の顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「え、お前まさか、まさか……!? う、うそだろ、お前、あいつと――」
「ふふ。朝チュン……ってやつ?」
「言うなああああああああっ!!」
もはや悲鳴に近い怒声を上げ、姫野はクッションを勢いよく掴んでぶん投げる。
それをひらりとかわす真琴は、まるで恋の勝利者のような満足げな顔だ。
「違っ……違うからな!?アイツ、寝るとき絶対寝室行くし!お前だってどうせ潰れてただけだろ!!床とかで転がってたのを、アイツが親切心で運んだだけで――!」
「……そう思いたいのね」
「そうだよっ!!」
キレ気味の姫野のこめかみに、青筋がくっきり浮かぶ。
「ていうか、なんで俺が朝イチでこんな修羅場みたいな目に遭わなきゃいけないんだよ!」
「嫉妬?」
「してねーし!!」
真琴の細い指が唇に添えられ、小首を傾げる仕草が妙に艶っぽく見えた。
その態度に、姫野は感情を抑えきれず、机をバンと叩いた。
「じゃあ、なんでそんなに動揺してるのかしら?」
「動揺なんてしてねぇ!!」
「ふぅん。じゃあ彼と一緒のタオルケットにくるまって眠る私の姿なんて、別に気にならないってことね?」
「そのタオルケットよこせコラァ!!ひん剥いて外に放り出してやる!!」
姫野は真琴の足元に飛びかかろうとしたが、真琴はするりと体を丸め、タオルケットをひるがえしながら回避する。
「ほらほら、そんなに焦っちゃって……やっぱり“そういう”意味で意識しちゃってるんじゃない?」
「お前のその腐った能面フェイスで言われると腹立つんだよッ!!」
「まぁ、私は“能面”じゃなくて、“理性的な女性”って自己紹介してるつもりなんだけど」
「ちげぇわ! その半笑いの顔面の話だよ!! しかも口元だけ笑ってんのが一番ムカつくんだよ!」
姫野の声は怒りと羞恥で震えていた。
真琴が何も言わずに髪をかき上げると、その首筋にはうっすらと――赤い痕。
「なっ……!? お、お前、それっ……!!」
「……あら、見えちゃった?」
真琴は艶然と目を細めながら、無駄に意味深な沈黙を作り出す。
「 ハルくんがつけるわけない!? 絶対偶然何かで擦っただけだろッ!!」
「ふふふ……でもそれを気にするあたり、やっぱり気になってるのね」
「気になってねぇよバアアアアアアアカ!!」
姫野が自分の前髪をわしっと掻きむしったそのとき――。
ピンポーン。
唐突に鳴ったチャイムが、二人のヒートアップをあっさり中断させた。
「……誰だ、朝っぱらから」
「晴臣くんじゃないかしら? 私のこと、忘れられないみたいだし」
「まだ煽んのかてめぇ!!!」
姫野が最後の怒鳴り声をあげたその瞬間、インターホンから聞こえてきたのは――。
『……おーい、香奈のやつ居ねぇから鍵開けてくれんかい、晴臣。それと騒がしいぞ』
まさかの声。
深みのある女性の声、それでいて口調は乱暴。どこか武人然とした気配を漂わせるそれは、
二人がよく知る人物――幽谷カミエのものだった。
「……嘘でしょ」
「よりによってこのタイミングで……!!」
動揺のあまり、一瞬だけ真琴と姫野の目が合う。
その表情には、確かに共通の敵への“仲間意識”が芽生えていた。
けれど次の瞬間にはまた、お互いそっぽを向いて小さく舌打ちしていた。




