休日デート!
朝の光が斜めに差し込む土曜のアパート前。風は涼しく、セミの鳴き声が遠くで揺れていた。
晴臣はシャツの袖をまくりながら、箒で落ち葉を掃き集めていた。その隣には、控えめなボブヘアの女性――幽谷香奈が、掃除用具をぎこちなく持ちつつ、少し離れた位置で草むしりをしていた。
「……あの、晴臣さん」
少しして、香奈が控えめに声をかけた。
「はい?」
「今日は……真琴さん、一緒じゃないんですか?」
晴臣は手を止めて、ああ、と軽く頷いた。
「今日は家を大掃除してるらしいんです。部屋の“奥の奥まで”ってやけに気合い入ってました」
「おくの……おく……?」
香奈は想像してしまったのか、ほのかに青ざめたように眉を寄せる。
「……えっと、それって……あの、たとえば……物理的に、じゃなくて……比喩、ですよね?」
晴臣は少し考えてから、「どうでしょうね」と笑って首を傾げる。
「真琴さんって、たまに“押し入れの裏にポータルがあるタイプの人”なので……まあ、大掃除って言ってもいろいろあるんじゃないでしょうか」
「……やっぱり“比喩”じゃないんですね……」
香奈はそっと、草むしりしていた手を止めて小さくため息をつく。けれど、それは呆れよりも、どこか穏やかな安堵を含んだものだった。
「でも……あの人がいないと、ちょっと静かですね」
「たまには、こういう日も悪くないですよ」
晴臣はそう言って、アパートの軒下にたまった落ち葉を一気に掃き集める。
静かで、けれど少しだけ奇妙な日常。それはこの町では、ごく当たり前の朝だった。
落ち葉を集めたゴミ袋を縛っていると、涼しい風が吹いてきた。汗を拭うほどでもない、心地よい陽気だった。
「なんか、今日はずいぶん涼しいですね」
「はい、朝方は少し肌寒いくらいでした……あの、こういう日は、布団干すとふかふかになりますね」
「おお、それいいですね。僕も干そうかな……あ、それと香奈さん」
晴臣はゴミ袋の結び目を確認しながら、ぽつりと口にした。
「いつも掃除手伝ってもらってるし、どこかご飯でも行きません? 昼、近いですし」
香奈は、「あ、はい」と反射的に頷いた。
ちょうどそのとき、風で舞った葉っぱが顔に当たり、彼女はそれを手で払いながら、少し遅れて言葉を噛み締めた。
……あれ?
――ご飯……?
――行きません?
――私と……?
「…………」
数歩、箒を持ったまま動いてから、香奈の動きがふっと止まる。
(えっ……今……今私、誘われ……ました……?)
晴臣は気づかず、軒下に掛けたほうきの柄を軽く叩いてホコリを落としている。
(え、え、え……えぇぇぇ!?)
彼女の中で、さっきまでの“普通の会話”が、まるで別の意味を帯びて再生されていく。
あまりにも自然で日常の延長すぎて、最初は誘いだとすら気づかなかった。
「…………」
動揺しすぎて、何か言いそうになった口が開きかけて、閉じた。
(ど、どどどうしよう……!!)
横を見ると、晴臣はすでに歩き出していた。
彼女は慌てて小走りでその後を追う。
「か、海堂さん……お店は……決まってますか……?」
「姫野のカフェ、また来てって言ってたんですよ。なのでついでにどうかなと」
晴臣は笑いながら軽くそう付け加えた。
香奈はぽかんと口を開けたまま硬直する。
「……えっ?」
(ま、まさか、これって……)
彼女の思考は一瞬で高速回転を始める。
――同年代の男女がおしゃれなカフェ?
――これは、デートなのでは?
――いや、でも「ちょうどいいから」みたいなこと言ってた……
――でも“出かけません?”って、これ普通にデートの誘いの言い回しじゃ……
――でもでも、彼、そういう意図全然なさそうな顔してるし……!
脳内で「デート」と「違う」を天秤にかけながら、香奈は自分の胸元を押さえる。
「わ、わかりました。着替えてきます……」
声がわずかに裏返った。
そんな香奈に、晴臣は「はい、じゃあ俺もシャワー浴びてきますね」と何の気なしに手を振って、自室へ戻っていった。
――一方そのころ、香奈の脳内では“これはデートなのか否か”という問いが、約500ループほど繰り返されていた。
* * *
坂の上、白い壁と青い窓枠が印象的な建物の扉をくぐると、途端に明るい喧騒とコーヒーの香りが迎えてくれた。
「いらっしゃいませーっ!」
店内に響く店員たちの声は、どれもこれも元気いっぱい。制服に身を包んだ男女のスタッフが笑顔でテーブルを回り、ドリンクを運び、子どもにアイスを手渡し、時には常連と軽口を交わしている。どこを見ても和やかで、心地よい熱気に包まれていた。
その中心にいるのが、姫野ルイだ。
「すみません! A席にパンケーキ、B席にロイヤルミルク、C席はお冷追加、お願いしまーす!」
厨房からフロアへ、まるで風のように駆け回りながら指示を飛ばし、自らもトレーを持って笑顔で客席へ向かっていく。長いまつげの奥の瞳はキラキラと輝き、立ち止まる暇など微塵もない。
「おまたせしましたぁ〜♡ こちら、ご注文のキャラメル・ショコラ・オ・レで〜す♪」
若いカップルのテーブルに片膝をついてグラスを置くと、彼はにっこりと微笑む。その仕草に、彼氏は若干照れながらもお礼を言い、彼女のほうはあからさまに「可愛い……」と口にしていた。
相変わらず、男女問わず人気だった。
厨房から顔を出した年配のコックが「店長!もうちょっとスピード落としていいんだぞ〜」と苦笑しながら言っても、姫野は「やですっ! お客様が待ってるのでっ!」とぴょんっと跳ねるように返すだけ。
客は絶えず、テーブルは回転し、笑顔とコーヒーが途切れることはなかった。
まるでそこだけ、喧騒と日常の境界線がほどけたような、幸せの泡に包まれた空間。
姫野の魔法が、今日も街を癒している。
「いらっしゃ――……」
その瞬間だった。店内に響き渡るはずだった店員たちの元気な声が、一瞬だけ音を失う。
姫野ルイはトレーを持ったまま、入口に立つ二人組の男女を見て動きを止めた。
視線は男性ではなく、隣に立つ女性の方へ。そして再び男性へ戻る。
「……は? なに? お前バカなの?」
それは普段の「カワイイ姫野ルイ」の声ではなかった。低く、硬く、完全に男のものとわかる口調で、言葉が店内に投げつけられた。
女性−香奈が思わず一歩後ずさる中、男性-晴臣はいつもと変わらない様子で首を傾げた。
「え? だって……この前、“また来て”って言ってただろ?」
その言葉に、姫野の表情がますます引きつる。
周囲の店員たちも「えっ」「あ、姫野さんが……」とざわつき始め、厨房の奥からも心配そうにコックが顔を覗かせる。
姫野の眉がぴくぴくと震える中、香奈は(あっ……)と察していた。
これは、やってしまったのだ――たぶん、とんでもなく。




