おかえり!
夕暮れの汐見市は、潮の匂いと夕餉の煙が入り混じり、いつもより少しだけ騒がしかった。
波の音が遠くでざぶりと鳴り、軒先に干されたスルメがゆらゆら揺れる。
どこにでもある地方都市の、どこか非現実的な静けさ。
「それであの魚人、結局晴臣くんに押し売りしてたのかい?ぬめった海藻のネックレスとか」
「いやぁ、ああいうの気持ちがこもってるから、断れないんだ」
コツ、コツと靴音を立てて歩く。隣を歩くのは虹川真琴――誰がどう見ても美人で、年齢不詳で、なんかこう……言い表せない異質さがある。
とはいえ、今はごく普通に会話している。ただの帰宅中の男女のように。
「でもさ、人間のくせに魚人にもモテるって相変わらず変だよね?晴臣くん」
「魚人にモテるって判断基準が謎すぎ。あと“人間のくせに”って言い方も地味に失礼だから?」
「ふふ。ごめんね」
笑顔を浮かべて謝るその顔は、無邪気というより――貼り付けたものに近い。無知とも、無関心とも違う。
感情の“文法”がどこか人間とズレている。だがそれに気づいているのかいないのか、真琴は晴臣の隣を当然のように歩き続けていた。
海沿いの坂道を登りきり、古びたアパートが見えてくる。
瓦屋根の木造二階建て、外壁は少し色褪せていて、玄関の引き戸には手書きの「管理人:幽谷」の札。
ご近所トラブルもなく、静かで落ち着く場所だ。
「ねえ、今日の夕飯は?」
「一人で食べなさい。一緒に食べると味の感想が“人間ってすごい”とか“生温かくて良かった”とかで、全然食レポにならない」
「えー、ちゃんと“美味しい”って言ったよ?たぶん」
「“たぶん”じゃなくて“確信をもって”言ってくれよ」
そうして他愛のない言葉を交わしながら、晴臣はアパートの前でふと立ち止まった。
隣にいるはずの真琴の気配が――ない。
「……は?」
振り返ると、夕暮れの坂道には誰もいなかった。
ついさっきまで隣にいたはずの真琴は、まるで最初から存在しなかったかのように、影も形も見当たらない。
「……まさか」
首を傾げながら、古びた外階段を軋ませて二階へと上がる。
自分の部屋は端の一室。普段から鍵は閉めているが――
「おかえり、晴臣くん」
ドアの前に立っていたのは、やはり真琴だった。
いつの間にか先回りしていたのだろう。手をひらひらと振って、さっきと変わらない調子で笑っている。
「はやい。忍者か」
「んー……たぶん違う。でも人間の忍者も、けっこう好きだよ」
「それはどうでもいいよ……」
晴臣は小さくため息をついた。
真琴が“何者”なのかを知っている。
だが、それを気にするつもりはない。なぜなら、彼女は毎日この町にいて、誰にも危害を加えず、時々勝手に自室に居座る程度で――
それは、まあ、やや問題ではあるけど。
「今日も来る気満々だな、真琴」
「うん。だって、晴臣くんのこと、好きだし」
「……ストレートすぎると逆に怖いな」
「こわい?」
「こわくはないけど……こう、なんていうか……」
晴臣が言葉を探している間に、真琴は先にドアノブに手をかけて、自然な動作で扉を開けた。
「おじゃましまーす」
「いや、ちょっと待て!合鍵渡してないはずなんだけど!?」
「ふふ。晴臣くんが忘れてるだけかもよ?」
「いやいやいや、記憶ごと改変する前提で話すのやめてくれない!?」
アパートの階段下では管理人が掃除の手を止め二人のやり取りを聞いていたが、微笑ましく思いながら掃除を再開する。
今日も汐見市は、変わらない。
潮の匂いと、なぜか隣にいる“彼女”の気配。
そんな奇妙で、でもどこか心地よい日常が、静かに始まろうとしていた。