ようこそ影へ!
その日の仕事を終え、夕焼けに染まる帰り道を晴臣が歩いていると、路地の影から見慣れた誰かがにゅっと現れた。
「やぁ晴臣くん」
ニヤニヤとした笑みを浮かべ、両手を後ろに回して歩いてくるのは――虹川真琴。
「しばらく会えなくて寂しかったでしょう?」
唇の端を上げ、いたずらっぽく覗き込んでくる彼女に晴臣は目を瞬かせ、素直に首を傾げる。
「……あれ?でも真琴くん、昨日は白髪のおばあさんで、図書館ではスーツの男の人で、畑のときは傘さしてた綺麗なお姉さんでしたよね?」
無垢な目で言いながら、晴臣は指を折って数えだす。
「あと……夜の自販機のとき、小さい子どもでしたよね? あれ、分かりましたよ。ちょっと不自然に浮いてましたし」
真琴の笑みが固まる。
風が通り過ぎる路地裏。いつもは不定期に輝く毛先が赤くなり、真琴の髪が揺れる。そして空気の色がわずかに重くなる。
「……あのさ、もしかしてずっと見てたの、分かってた?」
「ええ。なんか最近、視界の端に真琴くんっぽい人がいるなぁって思ってました。だってどの姿も、真琴さんっぽくて」
そう言って微笑む晴臣を、真琴は見つめる。
彼の無自覚な一言は、時に怪異すら打ちのめす。
このときの彼女の顔には、もはや「ニヤニヤ」などという軽い語では言い表せない崩れそうな笑みが浮かんでいた。
「……そっか。うん。やっぱり晴臣くんは、すごいなぁ」
にこ、と柔らかく笑いながら、真琴は一歩だけ晴臣に近づいた。
彼女の中で、何かが確実にズンッと深く沈んでいく音がした。
――ズンッ!!
地面が裂け、空気が砕ける音。
晴臣と真琴の前に、紅蓮の炎を纏ったパワードスーツが現れる。
着地の衝撃だけで周囲の窓ガラスが割れ、地面のタイルが爆ぜた。
スーツの胸部には、不吉なまでに禍々しい紋章が浮かび、両肩のブースターが脈打つように熱を発していた。
「――殺す」
合成音声の奥に、冷たい感情が乗っている。
そしてそれは、明確に真琴に向けられていた。
晴臣が言葉を失う横で、真琴がゆっくりと目を細める。
だが、その表情に怯えはなく――微笑すら浮かんでいた。
「また来たの?本当にしつこいね」
パワードスーツが噴射音をあげて突撃する。
空気を断ち切り、日差しすら揺らす凄まじい加速。
だが、真琴は軽やかに、まるで舞うように身を翻し、それを避ける。
跳ねる炎すら一切触れず、晴臣の前に優雅に立つ。
そして、笑みを絶やさぬまま、晴臣の方にだけ目を向けて――
「ねぇ、今日のご飯、楽しみにしてたんだけど……また今度ね」
指先でそっと晴臣の胸元を撫でる様に押すようにして距離を取り、次の瞬間――殺意を込めて真琴に蹴りを穿ったパワードスーツは、真琴と共に影の中へと飲まれ、消えた。
まるで、そこにはじめからいなかったかのように。
晴臣だけが、その場にぽつんと取り残されていた。
「…とりあえず道路管理課に連絡するか」
* * *
――ここは、影の奥底。
時間の流れさえもあいまいな、光も熱も届かぬ異次元の空間。
色はなく、匂いもない。ただ、圧だけが充満していた。
真紅の炎を纏ったスーツが一閃する。
吐き出される高熱。振るわれる金属の腕。
火の奔流が空間を焼き、断続的に爆発音が響いた。
「いい加減、くたばれっ!!」
その声と共に――ブースターの火力が増す。
空間ごと押し潰さんばかりの膝蹴りが、真琴の胸元を狙って突き上げられる。
続いて、拳――その裏に隠されたエネルギーの杭が唸りを上げる。
しかし。
「ふふっ。だめだよ、それじゃ当たらない」
真琴は、ただ笑っている。
頬に触れかけた火花を、顔を横に傾けて避ける。
寸前で回避された蹴りが虚空を裂く音が響く。
彼女の足元には一切の焦げ跡も残らない。
重いパンチの連打を、まるで踊るように滑るように――避ける。
「ざけんな!!」
怒声とともに、スーツの背部から多重炎噴射ユニットが展開される。
一面を焼き尽くす拡散火炎放射が放たれた。
だが、視界が炎に覆われたその瞬間。
真琴の姿は――消えていた。
首元に、ひやりとした指先の感触。
スーツが振り返るより先に、甘やかな声が背後から囁く。
「そんなに怒らないで。私は貴方こと、嫌いじゃないのに」
その指先はすぐに離れ、また距離が開いた。
振り返ると、真琴は空間の“逆さ”に立っていた。重力すら意味をなさないこの異界で、彼女だけが自然体で、優雅だった。
異空間の焦げた空気に、鋭い舌打ちが混じった。
「……チッ、今日はこれまでにしてやる」
次の瞬間、重厚なパワードスーツの外殻がまるで燃え尽きるかのように空気に溶けていった。内部から現れたのは、見慣れた店の制服姿の少女――ではなく男の姫野ルイだった。
ただし、普段の接客スマイルは一切ない。
スカートの裾や髪の毛の先からは小さく火の粉が弾け、こめかみから垂れる汗は蒸気のように消えて揺れていた。
額には怒りの血管が浮き、ただでさえ小柄な体から重たい殺気が発されている。
その様子を目の前で見つめながら、真琴は逆さのまま自らの顎に指を添え、首をかしげた。
「ねえ。前から気になってたんだけど――」
真琴は笑っている。
その笑みは、陽気なものではなく、底知れぬ知性と悪戯を孕んだものだった。
「どうしていつも、そんなむさ苦しい機械スーツで来るの?本当の姿で戦うのは、嫌い?」
問うたその声は柔らかくも、まるで“理解しきっている者”の響きを含んでいた。
「……っ、うるせ!!」
姫野の肩がピクリと跳ねた。
「こっちはなあ、てめぇなんかに素の姿なんか見せたくねーんだよ!っていうか、てめぇと対話するたびにIQが下がる気がするんだよ! 脳みそ腐る!」
真琴は口元を手で隠してくすくす笑った。
「でもさ――そのスーツ、あの人に見せるためなんでしょう?」
姫野はビクリと反応する。
「…………べ、別に? 晴臣が……その、ロボットとかメカとか好きだって言ってたから……てめぇに関係ねぇだろ!」
言いながら顔を赤くしつつ、髪の火の粉を払いながら視線を逸らす。
制服の胸ポケットから煙が出ているのも気にせず、彼女は続けた。
「どーせてめぇは、“私は宇宙の邪神で全知全能だから機械なんて不要ですぅ〜”とか思ってんでしょ!反吐が出る!」
「ん〜、そんなことは言ってないけど?ただ、あの人の視線が私に向いてるのを奪いたいだけじゃないの?」
「ッッ!! ぶち殺す!!」
再び炎が巻き起こる。
だが、再び戦闘になる前に、空間の重力が歪み始める。
異界の闘技場のようなこの場も、そろそろ終わりの時を迎えていた。
ルイは唇を噛み、火花を散らす制服の裾をバシッと払うと、負け惜しみのように叫んだ。
「ばーか! あーほ! 胸とケツがデカいだけの脳みそプリン邪神!!」
真琴はその場で、ゆるく首を傾げて目を瞬かせる。
「ふふ、言葉のボキャブラリーがどんどん退化してる……かわいいね」
「黙れ!! また“森の時”みたく――ぜんっぶ燃やしてやるからな!!」
怒りに任せたように足元から火の粉が立ち上り、ルイの体を包み込む。
空間に小さく「ボンッ」という破裂音が響いたかと思うと、彼女の姿はもうどこにもなかった。
残されたのは、チリチリと音を立てて宙を漂う残火だけだった。
それを見届けながら、真琴は顎に手を当て、思索するポーズを取る。
「うん……やっぱり、IQは下がってるみたい」
くすくすと微笑んだその目は、どこまでも愉快そうで――同時に、何もかも理解している者の目だった。