最高機密!
世界は知らない。いや、知ってしまってはいけないのだ。
人智の及ばぬ“何か”が、夜の隙間から這い寄っているということを。
――それを知れば、狂うか、死ぬか、あるいは。
「対怪異国際連盟機構」
その存在は、世界中の政府機関においてさえ“都市伝説”として隠蔽されている。
怪異・神格化した災厄――あらゆる非現実が現実に浸食するこの時代において、人類が最後にすがる、希望とも狂気ともつかない組織。
組織のトップにして、伝説の「妖異狩り」の異名を持つ――幽谷カミエ。
老いてなお美貌を誇り、剣を執り、全世界の怪異事情に睨みを効かせるその姿は、まさに生ける幽鬼。
そのカミエの配下として、ミイナ・ジーゴの監視を任されているのが、橘幸太郎は元自衛隊諜報部門所属の“使い潰され組”の男である。
「僕、マジで胃に穴あきそうなんだけど……」
もはや口癖になったその言葉を吐きながらも、彼は今日も書類と監視カメラ映像を前に頭を抱える。
ミイナは見た目こそ愛嬌ある美少女だが、その中身は「知性ある宇宙性格破綻者」。だが“人間に対して友好的”という希少性ゆえに、敵対せず怪異の対応と監視と観察記録で“共存”の道を探る方針が取られていた。
そしてもうひとりの監視対象、汐見市役所生活課・海堂晴臣。
人間のはず――なのに、怪異にも動じず、常識の通じない言動と行動で次々と“事件”を解決してしまう異質な存在。
また幸太郎の机の上、ファイルの表紙には赤いスタンプで『要継続監視』の文字。
「……冗談だろ」
幸太郎は、その分厚いファイルを前に、まじまじとページをめくっていた。
それは“虹川真琴”という、汐見市でそう名乗る女性――いや、“人型をした何か”に関する極秘資料だった。
彼女は、対怪異組織によって複数の監視対象と同時に関わる存在としてリストアップされていた。
彼女の周囲では不可解な怪異の出現が頻発しているにも関わらず、彼女自身には一切の被害も影響も確認されていない。
彼女の顔写真を見ただけで、情報班のひとりが失神したという噂すらある。
これは“完全にクロ”だ。
幸太郎は息を呑んで、ページをめくっていた。
「……全部、真っ黒じゃねーか」
報告書に記されたはずの文章は、ことごとく“墨”で塗り潰されていた。ページの隅から隅まで。手がかりになるはずの写真も、映像記録も、分析図も、全て“意図的に”消されていた。
まるで、“見るべきではない”という意思すら感じさせる、異様な処理。
そして、最終ページ。
白紙の中央に、達筆な赤ペンで、こう書かれていた。
⸻
「楽しんでね♡」
⸻
「……誰の、字だよ、これ」
幸太郎は冷や汗を流しながらファイルを閉じた。
情報部の老練な分析官すら口をつぐんだこのファイル。
あのカミエでさえ「今は関わらない方がいい」とつぶやいていたのを、彼は思い出す。
そして気付く。
この赤ペンの走り書きは、ただの“警告”ではない。
これは、“挨拶”だ。
“向こう”が、こちらを見ている――と。
「……晴臣、お前、どこまで地雷踏んでんだよ……」
そうつぶやきながら、彼はそっとファイルを金庫に戻した。
* * *
静かな地下フロア。
そこは、組織の極秘資料を保管する隔離領域だった。金属の重厚な扉が二重三重にセキュリティをかけられ、内部は機密情報を守るため電波も遮断されている。
誰にも、簡単に入れるはずがない場所。
まして――
今日、誰かがここに入った記録はない。
幸太郎が、半日以上前に資料を戻してから、誰もこの部屋を訪れていない。
――それでも。
闇の中に佇む金庫の中に、彼女はいた。
白く細い指が、そっとファイルの表紙を撫でている。
どこからか流れ込む冷気が、室内に漂う静けさをさらに際立たせていた。
「ふふふっ」
聞き慣れた、どこか楽しげな女性の声。
それは“声帯を通じて鳴っている”というより、“脳に直接響いてくる”ような、不快なほどに甘い音色。
机の上に腰掛けるその女――虹川真琴は、にっこりと笑っていた。
紅の唇、整った顔立ち、清楚な雰囲気。
だが、その笑顔はどこか歪で、深淵を覗かせるような狂気を孕んでいた。
「ぜんぶ塗り潰しておいたのに。ちゃんとしまってくれて、ありがとね、少年」
誰にも気づかれず、誰にも見られず、ここに“いる”。
それは人間の知覚や認識では説明できないことだった。
彼女は確かに――“そこにいるはずがない”。
だが、いた。
いるのだ。
彼女は、こちらを見ている。
そして、笑っている。
「……“わたし”のこと、もっと調べたら、どうなっちゃうんだろうねぇ」
真琴はファイルの上にそっと顔を伏せ、頬を擦りつけながら囁いた。
その仕草は甘えるようでいて、獲物にじゃれる獣のようだった。
「……ふふっ。でもそれは晴臣くんの特権だから」
金属製の棚がきぃ……と軋んだその瞬間、照明がぱちりと明滅する。
次の瞬間、真琴の姿は――どこにもなかった。
金庫の上には、そっと置かれた紅いペンだけが残されていた。