監視中!
少し離れた電柱の影、あるいは見通しのよい監視車両の中。
市の生活課の職員では立ち入れないエリアから、二人の存在がじっと現場を見守っていた。
「わぁぁお、ひっぱってるぅ。人、ひっぱってるぅ……」
ミイナは車内のモニターに映る晴臣の姿を見ながら、のんびりとした声を漏らす。
「げろげろ~、うふふ、そっくりぃ。はるおみやっぱりすごぉ~い」
外見こそ人間の女性に擬態しているが、その思考回路は完全に“そっち側”。
ミイナはまるでヒーロー番組を見ているかのようなテンションで、晴臣の人間離れした行動を心底楽しんでいた。
「……お前、楽しそうだな」
隣で、幸太郎が渋い顔をして溜め息をつく。
彼の手元には、データ端末。
画面には、
【観察対象:海堂晴臣】
【分類:通常人類(暫定)】
【危険度:再判定中】
の文字が点滅していた。
「……一般市民なら一発で発狂してる。あんな口の中見たら、普通なら吐くか走って逃げるか、その場で死ぬかの三択だ」
晴臣が怪異の口に手を突っ込み、真顔で人間を引っ張り出す様子を見ながら、幸太郎は頭をかきむしる。
「どうしていつも平然としてるんだよ……。もう三件目だぞ、“人を口に格納する系”……全部引っ張り出してる……」
「はるおみはぁ、かっこいい……。あ、またいったぁ。“はいズルズルーっと”ってぇ……」
ミイナは頬に手を当てて恍惚と見つめている。
「異常存在との遭遇回数、再計算……昨日会った時も精神汚染兆候なし、拒絶反応なし、記憶混濁なし……」
幸太郎は端末を操作しながら、ブツブツと呟く。
「逆にお前のほうが人間ぽいんだよ、ミイナ。笑って怪異のマネしてるだけだからな……」
「ふへへ……おぇぇ~」
「やんなくていい」
「えぇぇ~……げろげろ~……」
「……もうだめだこの監視チーム」
現場では、晴臣が「よいしょっと」と粘液まみれの人間を肩に抱えて運び出していた。
その横で、唇を真一文字に引き結び、硬直したままの真琴の姿も映っている。
幸太郎は、端末に「異常存在レベル:計測不能」とメモを追加した。
モニターには、顎を脱臼させられ、粘液を垂らしながら静かにフェードアウトしていく“人喰い怪異”の姿が映っていた。
その巨体はまるで羞恥に駆られたように体を丸め、ズルズルと霧の中へと消えていく。
「……逃げた、なぁ……」
幸太郎が端末の送信ボタンを押す。
画面に「資料送信完了」と表示され、データが飛んでいった。
「……口に手を突っ込む人間に恥ずかしがって消える怪異ってなんだよ。こっちも吐きそう」
幸太郎が胃を押さえながら呻いていると、ミイナがぽんっと手を打った。
「あのねぇ、幸太郎……わたしもやってみたらぁ、はるおみに……おんなじこと、されるぅ?」
その“やってみる”というのが、明らかに怪異の真似――口をガバァと開けて、人を丸呑みするような真似――だと悟った瞬間、幸太郎は勢いよく振り向いた。
「やめろ!!」
「えぇぇぇ~~~?」
「お前がそれやったらな、多分二度とご飯食べられなくなるからな!!」
「ごはん……?」
「そう!晴臣に料理作ってもらえなくなるぞ! “なんかネバネバした金属が口から出てた人”の胃袋に入れるものなんか、誰も作らねぇよ!僕が全力で止めるからな!」
「……じゃあ、やめるぅ~……おくち、がばー……しない……」
「今しようとしたよな!? やめろって言ったそばから準備すんな!!」
ミイナは口をぱくぱくさせながら名残惜しそうに口を閉じ、膝を抱えて「げろげろー……」と小声で繰り返す。
幸太郎は心底疲れた顔で頭を抱え、端末の隅に「模倣行動による事件発生の恐れあり」とメモを追加した。
* * *
夏の夕暮れ。温泉の湯けむりがまだ残る古びた旅館には、二人分の麦茶と扇風機の風が、ほうと緩やかに流れていた。
「……はあ……あっつい……」
黒髪をまだ湿らせたまま、香奈はバスタオルを肩にかけて縁側に腰を下ろしていた。肌は湯上がりでほんのり桜色に染まり、浴衣の襟をぐっと掴んであおぐ様は、年齢よりも少し幼く見える。
隣では祖母――幽谷カミエが、キンキンに冷えた麦茶をぐいと飲み干しながら、目を細めて孫の横顔を見ていた。
「ふふ。最近、海堂の坊やとはうまくやってるかい?」
「……な、なに突然」
香奈は少し顔を赤らめて俯いた。麦茶の入ったグラスの水滴が、ぽたりと膝に落ちる。
「いやね、香奈ったら顔に出るのよ。わたしほどになると、恋の匂いは湯上がりの肌からだって読み取れるの」
「……恋とか、ないよ。晴臣さんは……その、いい人ですけど、なんというかうるさくないし静かで、居心地よくて……」
「それ、十中八九惚れてるって言うんだよ?」
「違います……!」
慌てて首を振る香奈に、カミエはにやにやと笑いながら麦茶のお代わりを注いでやる。香奈はそれを無言で受け取って口にするが、さっきよりも少し、飲み方がぎこちない。
「……でも、あの子。周りの“普通”には好かれない。ああいう者には、怪異も、人も、まともに関わっちゃいけないって顔をするのが常なのさ」
「晴臣さんは、そんなこと……」
「だから心配してんだよ。あんたの方が本気になって、でもあの子はただの“優しい男”って可能性だってある。変なことになって、また部屋に閉じこもるようになったら、婆ちゃん悲しいのよ」
香奈はその言葉に反応を示さず、ただ静かにグラスの底を見つめていた。扇風機の風がふわりと浴衣の裾を揺らす。
「たしかに、晴臣さんは、たまに“怖い”ですけど……でも、わたし……あの人がわたしにも、変わらず話してくれるのが……嬉しいです」
祖母はふうと息をつき、肩をすくめてから香奈の頭を軽く撫でた。
「……なら、まぁ、よし。香奈がそのまま笑っていられるなら、それで充分さ。ま、何かあったら、婆さんの拳で全部ぶっ飛ばすから安心おし」
「おばあちゃんは過保護すぎます」
「孫がかわいいのに、理由がいるかい」
二人の間に、また静かな夕暮れの風が通る。扇風機の音と、虫の声だけが、ゆったりとした時を刻んでいた。
祖母がひとつ大きなあくびをすると、香奈はぽつりと、ぽつりと、照れくさそうに口を開いた。
「それに晴臣さんのこと、たぶん“好き”っていうより……ずっと見てたいっていうか」
「……ほう?」
カミエが興味深そうに視線を寄越すと、香奈は少し俯いて、それでも頬をほのかに染めながら、グラスを両手で持って言葉を続けた。
「だって、真琴さん、すっごく綺麗だし……姫野さんはあんな見た目なのに男でドロドロしてて可愛いし……ミイナさんはずっと晴臣さんのこと見てて、電波の癖に乙女で……幸太郎さんもイケメンで、あの距離感で振り回されてて……」
そこで、香奈はふへっと、抑えきれずに笑ってしまった。
「それを真顔で受け流してる晴臣さんを見るの、なんか、すごく面白いんです……。あの人、変な人たちに囲まれてるのにずっと普通の顔してて……へへ……ふふふっ……」
その笑いはどこかオタクじみた空気をまとっていて、祖母は思わず目を細めた。
「……おまえ、まさか“推しカプ”を眺めるみたいなノリで、坊やを見てるのかい?」
「うっ……い、いえ……そんなことは……ないです……」
香奈は視線を泳がせながら否定するが、耳の先まで赤い。
「まぁいいさ。おまえがそれで毎日楽しそうにしてるなら……婆さん、もう何も言うまい。推し活、尊いねぇ」
「や、やめてください……!」
香奈はもじもじとしながらも、どこか満ち足りたように笑っていた。
扇風機の風がまた動き出す頃、カミエの脇に置かれたスマホが――場違いなほど硬質な電子音を立てて震えた。
香奈はその音に小さく肩を跳ねさせるが、すぐに「あ、どうぞ」と小さく頷く。
カミエは手元のグラスを置き、スマホを持ち上げると、内容を確認し――ふっ、と微かに鼻で笑った。
「……あの坊や、相変わらずだねぇ」