苦労人と自由人!
キッチンに立ちながら、晴臣はふと時計を見た。
湯切りした中華麺を流水で冷やしながら、冷蔵庫から錦糸卵ときゅうり、ハムを取り出して器に盛りつけていく。
――三人前。
別に何か約束があったわけではない。ただ、経験則だった。
ミイナが来れば、彼も必ず探しに来る。
「……そろそろ来る頃だろ」
ひとりごちて、梅酢を利かせた特製ダレを小鉢に注ぎながら、冷蔵庫から氷を出して冷茶の準備も整える。
そうして出来上がった皿をテーブルに並べたところで、先に座っていたミイナが目を輝かせた。
「はるおみ、天才〜! 三人前!? 全部食べてもいい〜?」
「ダメだ」
「え〜〜〜〜……」
まるでお預けをくらった子犬のように、ミイナがしゅんと肩を落とす。
晴臣はそんな様子に微笑しつつ、そっと告げる。
「もうすぐ“彼”が来るからな。お前がきてるの、いつもバレてるだろ」
「うぅ〜……こわいぃ……」
耳をふさぎ、ぷるぷると震え始めるミイナ。
その様子を見ながら、晴臣は涼しげに茶をすすった。
――ピンポーン。
「来たな」
立ち上がった晴臣が玄関のドアを開けると、そこに立っていたのはスーツ姿の青年だった。
ダークグレーのジャケットの襟をぐいと引き直しながら、ぐったりとした目で晴臣に会釈をする。
「……ミイナ、来てませんか?」
「当たりだな。三人分、用意してある」
「予知能力でも持ってるんすか、海堂さん……」
目元を押さえながら、彼――橘幸太郎は肩をすくめた。
額に汗を浮かべてはいるが、それでも隠しきれない整った顔立ちは、まるでモデルのようだ。
それが余計に、彼の疲労を目立たせていた。
「っていうか、なんで僕が探しに回らないといけないんですか……上の指示ですか? 違いますよね? 完全に僕個人が損してません?」
「さあ……でも、君が来てくれるって信じてるよ。君も仕事お疲れ。冷やし中華あるから食べていくといい」
「はぁ、そんなんだからあんな連中に……じゃあ遠慮なく」
晴臣が靴を脱ぐ橘にスリッパを差し出すと、そのまま自然と橘は居間へ。
テーブルの上の料理を見るなり、ミイナはひらりとテーブルの下に潜り込んだ。
「わたし、いないよ……おそうじロボだよ……」
「うわ……やっぱりいた……」
橘は天を仰いだ。
そして静かに、無言でミイナのフードを引き上げる。
「サボった報告、あとでちゃんとするから。逃げるなよ?」
「うぅ……幸太郎、こわい……」
「お前が言うな」
静かに進行する追いかけっこ前夜。
晴臣はいつもの光景に、ただ静かに冷やし中華をすするのだった。
* * *
食後の時間は、どこまでも穏やかだった。
窓からは風鈴の音がかすかに届き、涼しい風が部屋を通り抜けていく。
晴臣と幸太郎はちゃぶ台を挟んで座り、茶をすすりながらゆるやかな会話を交わしていた。
「で、最近どうなんです?秘密のお仕事ってやつは」
「死ぬほど面倒です」
幸太郎は即答した。
それが冗談ではないことは、その顔に浮かぶ疲労の色が証明している。
「人類に友好的ってだけで、こいつも本質的には“あっち側”なんですよ? 調査任務中に花火大会に行ったり、カフェのプリンの食べ比べレポート提出してきたり……」
「文化理解の研究としては優秀なんじゃないか?」
「文化“堕落”です」
どこか自棄気味な幸太郎の言葉に、晴臣はふと笑ってしまう。
まるで兄妹のようにすっかり馴染んでいる二人のやりとりに、親戚のような安心感すらあった。
一方で、その当の“問題児”であるミイナはというと――。
「ふふーん……冷凍庫、こおりの王国〜」
勝手にキッチンに入り、冷凍庫を開けて中を覗き込みながら、にやにやしていた。
そして満足げにアイスバーを一本取り出し、ペリリと包装を剥いでかじりつく。
「アイスの民に感謝〜」
「お前、それ俺のだぞ……」
晴臣が苦笑しながらツッコミを入れるが、ミイナは聞こえていないふりをして、床に座り込みアイスに夢中になっていた。
――そのとき、室内に唐突に鳴り響く着信音。
幸太郎のスマートフォンが震えながら光りを放つ。
その発信元を見た瞬間、彼の顔からスッと血の気が引いた。
「……うわぁ……」
まるで死刑宣告を聞いたかのように天を仰ぎ、彼は重く、深く、心の底からのため息をつく。
「“上”ですか?」
「“上”です……」
晴臣の問いに、幸太郎は目元を押さえながら立ち上がった。
その姿は、まるで敗戦濃厚な兵士のようだった。
「ミイナ、帰るぞ」
「やだー! 今いいとこなのにー!」
「知らん。帰る」
「ヤダヤダヤダ! アイスの民は自由を愛するのー!」
「お前、あとでアイス十本分くらい説教な……」
抗議の声をあげながら、ミイナはじたばたと床を転がるが、幸太郎は慣れた手つきで彼女の腕を引っ張る。
逃げようとする彼女をずるずると引きずりながら、玄関へと向かっていった。
「じゃ、海堂さん。いつもすんません、ありがとうございました」
「いや、ご飯くらいならいつでもおいで」
「僕が女だったら惚れてますよ、ホント」
最後まで疲れた顔のまま、幸太郎はドアを閉めて去っていった。
引きずられていくミイナの「アイス食べ足りない〜〜〜〜〜」という哀しげな絶叫が、廊下にこだましていた。
そして訪れた静寂に、晴臣はふぅと小さく息を吐きながら、茶をすする。
「……さて、洗い物するか」
相変わらずの夏の夕方だった。