隣人!
部屋のドアを開けると、いつもの空気が晴臣を迎え入れた。
だが、何かが違う。いや、誰かがいない。
(……真琴がいないの、珍しいな)
真琴――いつも勝手に上がり込み、ソファを占拠している「同居人」。彼女の気配がないというだけで、部屋が妙に広く、静かに感じられる。
なんとなく物足りなさを覚えながらも、晴臣はシオマートの袋から買った品をひとつひとつ取り出して冷蔵庫や棚にしまっていく。ラベルの貼られた味付きの豆腐、セール中だったペットボトル飲料、課長からくすねた真琴がハマっている煎餅。思い返せば、姫野に抱きつかれた時に多少中身が潰れた気もする。
「……ん?」
晴臣は小さな違和感を感じる。
真琴が煎餅にハマっている事を話した記憶はとくに……ふと、ポケットの中に残っていた感触に気づき、取り出した。
ピンク色の包み紙。中央にはリボン模様と、手書き風の字体で「HIMENO blend♡」とある。
姫野からもらった飴だ。
誰かに見られていたらちょっと恥ずかしいパッケージだが、味は確かに保証付き。何度か貰っているが、香りも甘さも絶妙で、まるで店の思い出を楽しむことを前提に作られたようだった。
包みを破り、舌の上に乗せると、柔らかな紅茶の風味が口内に広がる。
ちょうどそのときだった。
「……お?」
窓の外から、低く唸るようなバイクのエンジン音が聞こえてきた。
短く吹かされるアクセル音が響く。どうやら、敷地内から出て行った様子だ。
(あれは……カミエさんのバイクか)
先ほど「温泉に行く」と言っていた彼女と香奈。
あの溺愛っぷりだ、温泉好きな香奈が温泉でのぼせないか心配してか、それか単純に孫可愛さに付いていくのだろう。
そんなことを思いながら、飴をコロコロと舌の上で転がす。
部屋の静けさと、外のざわめき。
(……平和だな)
そう呑気にだらける晴臣の耳にチャイムの音が鳴り響く。
ピンポーン――。
ドアチャイムの音に、晴臣は思わず首を傾げた。
この時間に来客とは珍しい。真琴が勝手に入ってくるのはいつものことだし、姫野は帰っていったはず――。
不思議に思いながらドアを開けると、そこに立っていたのは彼の隣人だった。
「あっつーい……しぬぅ……」
第一声からして、やはりまともではない。
ワンピースのフードをずり下げ、だるそうに口を開けた少女――ミイナは、額に汗を浮かべながら、くったりと微笑んだ。
そして返事も待たず、ひらりとすり抜けるように室内へ侵入。
「ちょ、おい……!」
言葉を遮るように、彼女はリビングへ一直線。
まるで猫のような身軽さでソファを飛び越え、テーブルの上に上半身を投げ出す。
「はるおみの部屋、すずしぃ〜……てんごく……」
「……お前、鍵開いてなかったらどうするつもりだったんだよ」
「チャイム鳴らしたもん……セーフ……」
そう言って、潰れたタコのような体勢のまま、うとうとし始めた。
彼女はとにかくマイペースだ。外見は年下の女子学生にも見えるが、年齢も職業も何をしているかも一切謎。
ただ、隣に住んでいて、たまにこうして突然押しかけてくる。
「……で、昼飯は?」
「スイカバー……おいしかった……でもお腹すいたぁ〜……」
「それは昼飯って言わない」
呆れながらも、晴臣は冷蔵庫を確認する。
彼女が来たときに限って、なぜか材料が揃っているのも妙な話だが――考えるだけ無駄だと、自分に言い聞かせる。
「冷やし中華でいいか?」
「はるおみ、しゅき……けっこんしよ……」
テーブルに顔を押しつけたまま、溶けたソフトクリームのような口調でそんなことを言うミイナ。
晴臣は苦笑しながら湯を沸かし始める。
――晴臣は知らない。
この少女が「人間」ではないことも。
このアパートで暮らす理由も。
彼自身に妙な興味を抱いて、日々の観察を続けていることも――。
ただの“変わった隣人”。
でも、それがどこか心地いい。そう思う自分に、晴臣は少しだけ笑みをこぼした。