汐見市へようこそ!
ハーメルンの方で「ケン3ヴァルデン」という名前でやってます。
そちら完結済みですがちょこちょこ続き?間話?を書いてるので是非よろしくお願いします。
朝の潮風が町を撫でる。
蝉の声に混じって、カモメの鳴き声が遠く響く。
潮の匂いと揚げたてのコロッケの匂いが混じる商店街を抜けると、海へ続く坂道。
その中腹にあるベンチで、婆さんがのんびり日傘を差していた。
「やあ、おばあちゃん。今日も来てるんだ?」
「あら海堂さん!まあまあ、冷たい麦茶持ってきたのよ。ほら、ひと口飲んでいきなさい」
「いやぁ助かります。エアコン修理で汗だくでしたよ」
俺、海堂晴臣はそう言って白いハンカチで首元をぬぐい、コップを受け取る。冷えた麦茶は、夏の朝のご褒美だった。
「町内会の人たち、あんたのこと気に入ってるのよ。頼りになるし、変なことにも動じないし」
「はは、変なことって……たとえば?」
「昨日の夜中に、港で魚の頭した人とすれ違ったって、雅子さんが言ってたわよ。あんた、見なかった?」
「……あー、なんか変な臭いするなーとは思ったんですよね。そいつが原因でしたか」
「まあ、そういうのに慣れてる若い人がいてくれると、私たちも安心できるわ」
「ありがとうございます。でも、変なものは変なものとして、変にしときたいですね。普通って、いいもんですし」
そう言って立ち上がると、婆さんは手を振って見送ってくれた。
坂を下れば、白い鳥居と海の見える防波堤。
汐見市――潮の風が通り抜ける、古くて小さな海の町。
人口は約3万。都市部から遠く離れ、電車は一時間に一本。
けれどここには、何とも言えない“居心地の良さ”がある。
のんびりしていて、のどかで、ちょっと不思議で――
だから俺は、この町が嫌いじゃない。
* * *
「よっ晴臣くん、また市民にモテてるのかい?」
帰り道、生活課の課長にそう言われた。
「ご近所のおばあちゃんたちです。課長の娘さんの話題も出ましたよ。来月七五三らしいですね」
「おうよ。その時は写真撮ってくれな。お前の方がセンスある」
生活課――
市役所の片隅にある、小さな部署。
正式には「生活支援総合対策室」。実態は、迷い猫の捜索から神棚の修復、畑の猪対策、祠の供物補充まで、何でも屋だ。
「怪異」なんて言葉はあやふやだがそれに類する依頼も多い。
それを、俺たちは当たり前の顔して処理する。
「ところで晴臣。今日の午後、川沿いの民家から電話あったろ?」
「解決済みです。換気扇に巣をつくってたの駆除しておきました」
「またお前は……素手か?」
「換気扇外す為に持ってたドライバーですよ。最初は」
課長は腹を抱えて笑い、他の職員たちは「またか」と肩をすくめた。
だが、そんな俺を責める人間はいない。
むしろ――「晴臣さんが来てくれてよかった」と、市民の誰もが言ってくれる。
それが、この町の“普通”だ。
* * *
仕事を終え、生活課の雑多な机と冷めたコーヒーに別れを告げ、外に出る。
夏の夕暮れ、空は群青と朱の間を行き来している。
住宅街を抜け、アパートのある郊外へ歩く。
俺の住んでいる木造アパートは、少し町の中心から外れた、海と山の隙間にある静かなエリアだ。
街灯の灯りはオレンジ色に滲み、電柱が長く影を引く。
影――
その「影」は、いつもより少し長く、歪だった。
「……よっ」
聞き慣れた声が、電柱の裏からした。
ウルフカットの髪に、黒いワンピース。
目元はどこか涼しげで、けれど奥に深い深い夜を湛えている。
人間の姿をしているが、明らかに人間ではない“それ”。
「どこから出てきたんだよ……」
「電柱の影の中。ほら、ちょっとした近道」
「……普通そういうこと言わないぞ」
「うん。晴臣くんが“普通”って思ってるもの、ほとんど“普通”じゃないよ」
彼女、虹川真琴はまるで月明かりのような笑みを浮かべて、俺の横に並んで歩き出す。
何もないように見えて、どこかに異常が混ざっている。
静かな町の、静かな夜の、その隙間に。
汐見市の夜は、まだ終わらない。