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幻の名君:李建成:09

〇『魏公の末路 ― 李建成と李密』


唐の都、長安の冬は、冷たい風がよく吹く。


「殿下、李密り・みつが捕まりました」


侍従の声に、李建成り・けんせいは静かに筆を置いた。書きかけの巻物が、朱の墨を含んで光っている。


「……そうか。やはり、こうなる運命だったのだな」


兄弟や群雄が入り乱れるこの時代において、「魏公ぎこう」とまで名乗り、民の支持を得た男――李密。その名は、かつて中原に鳴り響いていた。


──だが、その輝きも、今はもう、過去のもの。


**


少し前のことだった。李建成のもとに、ひそかな報せが届いていた。


「李密が、再び洛陽らくようへ向けて動いているようです」


「ほう……唐に降ったはずの男が?」


そのとき、李建成の目は、ふっと細くなった。


かつて隋を敵に回し、王世充おう・せいじゅうとも争った李密は、己の軍勢を失い、唐に降伏した。だが、唐の廷臣たちは、彼を快く迎えなかった。李建成も、それを見ていた。


「才はあるが、忠義に欠ける」


それが李建成の見立てだった。


──案の定、李密は不満を抱き、再び洛陽に向けて逃亡を試みたのだ。


**


「追手は出したのか?」


「すでに……殿下の策通り、関所は封じてあります」


「ご苦労だった。だが、李密の事だから、関所のない場所を通るだろう。いかにもヤツの通りそうな場所に兵士を配置せよ。」


その夜、李建成は筆をとった。李密の名前を巻物に書きつけ、しばし見つめる。


「おまえも……志はあった。ただ、時に恵まれなかったのだな」


翌朝、李密は捕らえられた。かつては数万の兵を従えた男も、今は手鎖をかけられ、兵に囲まれて、寒風の中に立ち尽くしていた。


「これが、私の終わりか……」


彼はつぶやいた。長安の空は、どこまでも白く冷たい。


**


そして、処刑の日。


李建成は静かに、窓の外を見ていた。


「李密……おまえの才は惜しい。だが、天下とは、志だけでは動かせぬのだ」


文を綴る指が、ふと止まる。


「お前は配下に恵まれた。だか、配下に頼らず、なんでも自分でやろうとした。部下を信じきれなかった事が王たりえなかった理由だ。」


その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ風に消えていった。


**


そして春が来る。


唐の都には、また新しい命が芽吹いていた。だが、魏公・李密の名が語られることは、もうなかった。


ただ、李建成の巻物の片隅に、小さくその名が残されているだけである。



〇『母の願い ― 李建成のちかい』


宮中の一角――花が咲き乱れる庭に、竇皇后とうこうごうは静かに腰をかけていた。

日差しがやわらかく降りそそぐ午後のことだった。


「建成、こちらへ来なさい」


その声に呼ばれ、李建成り・けんせいは歩を進める。母の表情は、どこか沈んでいる。

ただの用事ではないと、すぐに察した。


「母上、何かございましたか?」


「……建成。元吉とはよく笑い合っておるのに、どうして世民とはあんなに冷たいの」


李建成は少しだけ目を伏せた。


李元吉り・げんきつは四男だが、性格は単純で明るい。からかい半分の悪戯も多いが、どこか憎めない。

だが李世民り・せいみんは違う。若くして数々の戦に勝ち、将軍としての名をあげていた。軍を率いる日々で、宮中にはなかなか戻らない。


「……世民は遠征が続いておりますゆえ、顔を合わせることも少なく、心の距離も生まれてしまったのでしょう」


そう答えると、竇皇后はゆっくり首を横に振った。


「建成、兄弟で争ってはなりませんよ。あなたは長男。みなの上に立つ者。

たとえ弟が出過ぎたことをしても、怒りにまかせて事を荒立ててはならぬのです」


李建成はしばらく黙ったまま、風に揺れる花を見つめた。

母の目が揺れている。言葉の奥に、深い不安を感じた。


「母上……」


彼は一歩、膝を折って進み、手を取り、しっかりと見つめた。


「ご安心ください。私は、弟・世民を害したりはいたしません。

彼は私の大切な弟……父上が残された宝です。争いは、起こさせません」


その言葉に、竇皇后の目からぽろりと涙がこぼれた。


「……お前はやさしい子だよ。どうか、いつまでも、そうでいておくれ」


李建成はそっと、母の手を両手で包んだ。

春の風が、庭の花を揺らしていた。


そしてその風は、まだ遠く戦場にいる李世民にも、いつか届くのだろうか――



〇『戦う力を示すとき ― 李建成の決意』


春の陽ざしが柔らかく差し込む宮殿の一室で、李建成り・けんせいは家臣たちと真剣な話し合いをしていた。

紀若曽き・じゃくそう陳叔達ちん・しゅくだつ、将軍の楊文幹よう・ぶんかん、そして馬周ば・しゅうもその場にいた。みんなの顔は固く、気持ちは重く沈んでいる。


李世民り・せいみん殿のことを、どう考えているのか…」

紀若曽がそっと口を開いた。

「彼は軍事の才能がずば抜けている。正面から戦えば、こちらは負けてしまうかもしれません。」


李建成は少し顔を曇らせながらも、ゆっくりと答えた。

「そうだな。しかし、母上の竇皇后とうこうごうとの約束がある。私は李世民を傷つけることはできないのだ。」


話し合いは静かな緊張感に包まれていた。そんな時、謀臣の魏徴ぎ・ちょうが重々しい足音を立てて部屋に入ってきた。


「建成殿。」魏徴は深く一礼し、真剣な声で言った。

「弟の李世民を討つべきです。そうでなければ、やがてあなたの命運は尽きます。」


部屋の空気が一気に冷たくなった。

李建成はその言葉に驚きながらも、静かに返した。

「魏徴よ、母上との約束は重い。私はそれを破れぬ。」


魏徴は少しだけ息をついて、さらに話を続けた。

「建成殿、あなたは政治の才に長けています。しかし、世の中は力によっても動きます。弟は軍事に優れています。いざ戦えば、勝てるとは限りません。」


その言葉に楊文幹が拳を握り、苦しそうに言った。

「弟の勢いは止められぬ。だが、どうにかして戦える力を示さねば、家中は乱れます。」


馬周は少し考え込み、慎重に言葉を選んだ。

「建成殿、政治の才は確かにあなたにあります。しかし、戦いの場では弟君の方が強いのです。このままではあなたの立場が危うくなるでしょう。」


陳叔達も黙ってはいなかった。

「皆が言うように、争いは避けたい。しかし力を持たなければ、守りたいものも守れません。」


部屋の中は緊張が高まったままだった。皆の視線が一斉に李建成へ向けられる。


李建成は目を閉じ、深く息をついた。やがて目を開けると、静かな決意の光が宿っていた。


「よかろう。私は戦える力を示してみせる。母上との約束は守る。だが、このまま弟に甘んじることはできぬ。建成として、強さも示していこう。」


その言葉を聞いて、家臣たちは少しずつ表情を変え、希望を見出したように頷いた。魏徴も黙って頷き、言葉を控えた。


この日、李建成はただ政治に長けた長男ではなく、戦う力を持つ者として、自らの存在を示す決心を固めたのだった。

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