幻の名君:李建成:09
〇『魏公の末路 ― 李建成と李密』
唐の都、長安の冬は、冷たい風がよく吹く。
「殿下、李密が捕まりました」
侍従の声に、李建成は静かに筆を置いた。書きかけの巻物が、朱の墨を含んで光っている。
「……そうか。やはり、こうなる運命だったのだな」
兄弟や群雄が入り乱れるこの時代において、「魏公」とまで名乗り、民の支持を得た男――李密。その名は、かつて中原に鳴り響いていた。
──だが、その輝きも、今はもう、過去のもの。
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少し前のことだった。李建成のもとに、ひそかな報せが届いていた。
「李密が、再び洛陽へ向けて動いているようです」
「ほう……唐に降ったはずの男が?」
そのとき、李建成の目は、ふっと細くなった。
かつて隋を敵に回し、王世充とも争った李密は、己の軍勢を失い、唐に降伏した。だが、唐の廷臣たちは、彼を快く迎えなかった。李建成も、それを見ていた。
「才はあるが、忠義に欠ける」
それが李建成の見立てだった。
──案の定、李密は不満を抱き、再び洛陽に向けて逃亡を試みたのだ。
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「追手は出したのか?」
「すでに……殿下の策通り、関所は封じてあります」
「ご苦労だった。だが、李密の事だから、関所のない場所を通るだろう。いかにもヤツの通りそうな場所に兵士を配置せよ。」
その夜、李建成は筆をとった。李密の名前を巻物に書きつけ、しばし見つめる。
「おまえも……志はあった。ただ、時に恵まれなかったのだな」
翌朝、李密は捕らえられた。かつては数万の兵を従えた男も、今は手鎖をかけられ、兵に囲まれて、寒風の中に立ち尽くしていた。
「これが、私の終わりか……」
彼はつぶやいた。長安の空は、どこまでも白く冷たい。
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そして、処刑の日。
李建成は静かに、窓の外を見ていた。
「李密……おまえの才は惜しい。だが、天下とは、志だけでは動かせぬのだ」
文を綴る指が、ふと止まる。
「お前は配下に恵まれた。だか、配下に頼らず、なんでも自分でやろうとした。部下を信じきれなかった事が王たりえなかった理由だ。」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ風に消えていった。
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そして春が来る。
唐の都には、また新しい命が芽吹いていた。だが、魏公・李密の名が語られることは、もうなかった。
ただ、李建成の巻物の片隅に、小さくその名が残されているだけである。
〇『母の願い ― 李建成のちかい』
宮中の一角――花が咲き乱れる庭に、竇皇后は静かに腰をかけていた。
日差しがやわらかく降りそそぐ午後のことだった。
「建成、こちらへ来なさい」
その声に呼ばれ、李建成は歩を進める。母の表情は、どこか沈んでいる。
ただの用事ではないと、すぐに察した。
「母上、何かございましたか?」
「……建成。元吉とはよく笑い合っておるのに、どうして世民とはあんなに冷たいの」
李建成は少しだけ目を伏せた。
李元吉は四男だが、性格は単純で明るい。からかい半分の悪戯も多いが、どこか憎めない。
だが李世民は違う。若くして数々の戦に勝ち、将軍としての名をあげていた。軍を率いる日々で、宮中にはなかなか戻らない。
「……世民は遠征が続いておりますゆえ、顔を合わせることも少なく、心の距離も生まれてしまったのでしょう」
そう答えると、竇皇后はゆっくり首を横に振った。
「建成、兄弟で争ってはなりませんよ。あなたは長男。みなの上に立つ者。
たとえ弟が出過ぎたことをしても、怒りにまかせて事を荒立ててはならぬのです」
李建成はしばらく黙ったまま、風に揺れる花を見つめた。
母の目が揺れている。言葉の奥に、深い不安を感じた。
「母上……」
彼は一歩、膝を折って進み、手を取り、しっかりと見つめた。
「ご安心ください。私は、弟・世民を害したりはいたしません。
彼は私の大切な弟……父上が残された宝です。争いは、起こさせません」
その言葉に、竇皇后の目からぽろりと涙がこぼれた。
「……お前はやさしい子だよ。どうか、いつまでも、そうでいておくれ」
李建成はそっと、母の手を両手で包んだ。
春の風が、庭の花を揺らしていた。
そしてその風は、まだ遠く戦場にいる李世民にも、いつか届くのだろうか――
〇『戦う力を示すとき ― 李建成の決意』
春の陽ざしが柔らかく差し込む宮殿の一室で、李建成は家臣たちと真剣な話し合いをしていた。
紀若曽や陳叔達、将軍の楊文幹、そして馬周もその場にいた。みんなの顔は固く、気持ちは重く沈んでいる。
「李世民殿のことを、どう考えているのか…」
紀若曽がそっと口を開いた。
「彼は軍事の才能がずば抜けている。正面から戦えば、こちらは負けてしまうかもしれません。」
李建成は少し顔を曇らせながらも、ゆっくりと答えた。
「そうだな。しかし、母上の竇皇后との約束がある。私は李世民を傷つけることはできないのだ。」
話し合いは静かな緊張感に包まれていた。そんな時、謀臣の魏徴が重々しい足音を立てて部屋に入ってきた。
「建成殿。」魏徴は深く一礼し、真剣な声で言った。
「弟の李世民を討つべきです。そうでなければ、やがてあなたの命運は尽きます。」
部屋の空気が一気に冷たくなった。
李建成はその言葉に驚きながらも、静かに返した。
「魏徴よ、母上との約束は重い。私はそれを破れぬ。」
魏徴は少しだけ息をついて、さらに話を続けた。
「建成殿、あなたは政治の才に長けています。しかし、世の中は力によっても動きます。弟は軍事に優れています。いざ戦えば、勝てるとは限りません。」
その言葉に楊文幹が拳を握り、苦しそうに言った。
「弟の勢いは止められぬ。だが、どうにかして戦える力を示さねば、家中は乱れます。」
馬周は少し考え込み、慎重に言葉を選んだ。
「建成殿、政治の才は確かにあなたにあります。しかし、戦いの場では弟君の方が強いのです。このままではあなたの立場が危うくなるでしょう。」
陳叔達も黙ってはいなかった。
「皆が言うように、争いは避けたい。しかし力を持たなければ、守りたいものも守れません。」
部屋の中は緊張が高まったままだった。皆の視線が一斉に李建成へ向けられる。
李建成は目を閉じ、深く息をついた。やがて目を開けると、静かな決意の光が宿っていた。
「よかろう。私は戦える力を示してみせる。母上との約束は守る。だが、このまま弟に甘んじることはできぬ。建成として、強さも示していこう。」
その言葉を聞いて、家臣たちは少しずつ表情を変え、希望を見出したように頷いた。魏徴も黙って頷き、言葉を控えた。
この日、李建成はただ政治に長けた長男ではなく、戦う力を持つ者として、自らの存在を示す決心を固めたのだった。