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幻の名君:李建成:07

◯【太子府たいしふの人びと】


 春の風が、長安の城に吹いていた。


 太子・李建成り・けんせいは、広い執務室の窓を開け、庭の柳がなびくさまを見ていた。

 静かな午後だった。

 ふいに、そばに仕えていた魏徴ぎ・ちょうが、控えめに声をかけてくる。


「太子さま、文案の整理がすべて終わりました」


「うむ、ごくろうであった、魏徴。そなたの目配りは、いつもながら見事だ」


 魏徴は、もともと群雄・李密り・みつに仕えていた男だった。

 書に通じ、弁も立ち、何より筋を通すところが建成は気に入っていた。

 口を開けば一語一語が重く、慎み深いその物言いに、信頼をおくようになっていた。


「建成さま。朝廷には、理と徳が必要です。剣と槍だけでは、人の心は従いませぬ」


「……それは父上(唐の高祖・李淵)にも申してみたい言葉だな」


 二人は静かに笑った。


 太子府には、他にも才ある者が多く集っていた。


 たとえば、紀若曽き・じゃくそう

 魏徴と同じく、建成を助ける知恵者の一人だった。

 物静かな男であったが、内には燃えるような忠義を秘めていた。

 いつも魏徴と語り合い、まつりごとの方針を考えていた。


「魏どの。わたしは、太子さまがこの国を導くべきと信じておりまする」


 紀若曽は、そう語ったあと、ふと笑った。

 その笑みはさみしくも、誇らしげでもあった。

 玄武門の変で命を落とすことになる彼のことを、建成は生涯忘れなかった。


 また、馬周ば・しゅうという若者もいた。

 まだ年若く、時に礼を欠くこともあったが、筆の力はたいしたものだった。

 まっすぐで、あまりにまっすぐで、逆に時に周囲をひやひやさせた。


「太子さま。民の声を聞くには、まず道に出て歩いてみることが一番ですぞ」


 馬周のそんなひとことに、建成は目を細めた。

 だが、彼は長くは太子府にとどまらなかった。

 のちに李世民に仕え、唐の政治を支える大臣となっていく。


 文官だけではない。将のなかにも、建成を支える者がいた。

 そのひとりが楊文幹よう・ぶんかんという武将だった。

 勇猛で、戦では先陣を切って突撃するような人だった。


「兄上(建成)は、優しすぎる。もっと、強くならねばなりませぬぞ!」


 そう言って笑う彼を、建成は少し困ったように見ていた。


「腕っぷしの強さもいいが、私は民を守る強さが欲しいのだ。それは、優しさとは相克しないと思うぞ。」


 もうひとり、静かに太子府を支えた文臣がいた。

 陳叔達ちん・しゅくだつ

 派手さはなかったが、堅実な務めをこなし、建成の政治文書を黙々と整えていた。

 のちに李世民が皇帝となったあとも、彼は生き残り、時代のうねりを見届けることになる。


 こうして、太子・李建成のそばには、文にも武にも優れた人びとがいた。

 彼らはそれぞれのやり方で、若き皇太子を支えようとしていた。


 だが、この静かで確かな絆は、やがて大きな嵐にのまれていく。



◯【李建成と長安の都】


 6世紀から7世紀にかけて、中国の大地は大きく変わっていた。

 ずいという国ができ、そしてやがてとうが建国される。


 この時代、長安ちょうあんはとても大切な都だった。

 広くて美しい城壁に囲まれ、多くの人びとが集まる場所。

 隋の時代には長安が都であり、唐になってもその役割は変わらなかった。


 長安は、政治の中心であるだけでなく、文化や商売も盛んなところだった。

 馬車の音、商人の呼び声、役人たちの話し声が町に響きわたる。

 しかし、都が大きくなると、その管理はとてもむずかしくなる。


 そんな中、李建成り・けんせいは長安の統治をまかされた。

 彼は唐の初代皇帝・李淵り・えんの長男で、皇太子として都の整備を進めていたのだ。


 李建成はただ威張るだけの王子ではなかった。

 長安の町を歩き、人々の暮らしを見て回るのが好きだった。

 道に穴があれば直し、井戸が汚れていれば掃除させた。

 役人たちには「民のために働くのだ」と厳しく言い聞かせた。


「都は、ただ豪華であるだけでは意味がない。

 そこに住む人たちが安全で、安心して暮らせなければならぬ」


 李建成の言葉は、役人たちの胸に響いた。

 だから、彼の時代の長安は少しずつ暮らしやすくなっていった。


 一方で、長安とは別に、洛陽らくようという都も重要だった。

 洛陽は古くから歴史の中心地であり、政治の拠点でもあった。

 隋の最後の皇帝は洛陽を大切にし、唐の時代にも洛陽は「副都」として栄えた。


 長安と洛陽は、まるで兄弟のように並び立っていた。

 長安は新しい力の象徴、政治と文化の中心。

 洛陽は歴史と伝統を重んじる古い都だった。


 しかし、二つの都を同時に大切にすることは、時にむずかしいことだった。

 李建成は長安をしっかりまとめつつ、洛陽とのバランスも考えていた。


「都が二つあるのは、国の力を分けることになる。

 だが、それぞれの良さを生かしていくこともできるはずだ」


 そんな思いで、李建成は都の政治にあたった。


 やがて唐は長安を中心に発展し、東西の交易や文化の交流が盛んになる。

 この大都会を守り、育てたのは、ほかならぬ李建成のような若い指導者たちだったのだ。



◯【虎牢の戦いと王世充の最期――李建成の奇策】


 622年、唐の天下はまだ安定していませんでした。

 洛陽らくようという都は、敵の王世充おう・せいじゅうに包囲され、唐の将軍・李世民り・せいみんによって厳しく攻められていました。王世充はまさに絶体絶命の窮地きゅうちに追い込まれていたのです。


 しかし、王世充はあきらめませんでした。

 北の方で強い勢力を持っていた夏国かこく竇建徳とう・けんとくに援軍を頼みました。竇建徳は大きな軍を率いて洛陽へ向かいました。


 一方、李世民は洛陽の包囲を続けながら、虎牢関ころうかんという大切な関所で竇建徳とう・けんとくの軍を迎え撃つ準備をしていました。虎牢関は険しい山や川に囲まれた、守りにとても適した場所でした。


 この時、李世民にひとつの大きな秘策がありました。

 それは李建成り・けんせいからの「奇策きさく」の提案です。


 李建成の奇策はこうでした。


 まず、李世民はわずか3,500人ほどの兵を連れて虎牢関に入ります。普通なら10万以上の大軍に勝つのは難しいはずです。

 しかし、虎牢関は地形が険しく、少ない兵でも多くの敵を防ぐことができる自然の要塞ようさいでした。


 李世民は竇建徳とう・けんとくの大軍と正面からぶつかるのを避け、虎牢関でじっと待ち続けることにしました。

 数ヶ月にわたるこの「持久戦じきゅうせん」で、竇建徳の兵たちは遠くからの戦いに疲れ、食べ物も足りなくなり、だんだん気力を失っていきました。

 兵士たちは家に帰りたいと思い始め、軍の中には不満も広がっていました。


 次に、李世民は心理戦しんりせんも仕掛けました。


 少数の兵を何度も戦いに出し、小さな争いを繰り返して、敵に「唐の兵は少ない」と思わせました。

 さらに洛陽の包囲を続けながらも、あえて馬をゆったり放牧ほうぼくしたりうたげを開きました。まるで「私たちは余裕がある」と見せかけたのです。


 これによって、竇建徳は唐軍が本気で戦う気がないと勘違いし、攻めあぐねてしまいました。


 そして、とうとう竇建徳は兵の士気が限界に達し、大軍で一気に攻めてきました。

 そのとき、李世民は冷静に待ち構えました。


 竇建徳の軍は疲れて隊列たいれつが乱れていました。

 李世民は精鋭せいえいの兵を率いて、敵の中心を突き崩し、一気に勝負を決めたのです。


 竇建徳は捕らえられ、王世充にとっての最大の助けも失われました。


 こうして虎牢の戦いは、王世充の滅亡を決定づける大きな勝利となりました。


 李建成は遠くからこの戦いを見守りながら、国の未来を強く願いました。

 「まだ道は険しいが、必ずや平和な世をつくろう」


 その決意は固く、彼の心に深く刻まれたのです。

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