幻の名君:李建成:06
〇621年――李世民、軍を率いて反乱軍を討伐する
唐の歴史の中で、とても大事な一年がやってきました。
この年、李世民、のちに「太宗」と呼ばれる弟が、自ら軍を指揮して大きな戦いに挑みました。
李世民は、その時まだ若いけれど、とても頭の切れる軍のリーダーでした。彼は、ただ力を振るうだけでなく、よく考え、計画を立てて戦うことができました。
その年の戦いの相手は、唐の大敵ともいえる王世充や李密といった反乱軍でした。
これらの軍勢は、かつて隋の時代から自分たちの領地を守ろうとした強い武将たちで、唐の支配に逆らっていたのです。
しかし、李世民はそれらの敵軍を次々に打ち破りました。
彼の軍はよく訓練され、兵士たちは強い意志を持って戦いました。何より、李世民の冷静な判断と勇気が、味方の士気を高めたのです。
この戦いによって、唐の領土は大きく広がり、国はどんどん強くなりました。
長安の都も、この頃にはようやく平和の兆しが見え始めました。
兄である李建成は、政治の面で都をしっかり支え、弟の李世民が戦場で勝てるように陰ながら支え続けました。
とくに、李建成が大きな力を注いだのが、補給の仕事でした。
戦場で兵士たちが元気に戦い続けるためには、食べ物や武器、矢や馬の鞍、薬まで、たくさんの物資が必要です。
それらを長安から戦場まで安全に、しかも早く届けることは、とても難しい仕事でした。
そこで李建成は、補給物資の運搬に川を活用することにしました。
長安の近くを流れる黄河や渭水といった川を使って、大きな船で米や肉、干し肉、乾燥した野菜などを積み込み、戦場近くの港まで運んだのです。
陸路を使うよりもはるかに早く、しかも多くの物資を運べました。
さらに、補給のための道は兵士が守り、敵の襲撃を防ぐようにしました。
こうした工夫があって、李世民の軍は食料や武器に困ることなく、力強く戦い続けられました。
李建成は、戦いの最前線ではなくとも、こうした「影の仕事」で弟を支え、唐の勝利に大きく貢献したのです。
この年の戦いは、唐の歴史を大きく変えるきっかけとなりました。
〇【李建成、鄭観音を迎う】
春の風が、長安の城にやわらかく吹いていた。
花の香りが宮殿の廊下をすべり、青い空のしたで太子・李建成は、そっと胸の前で両手を重ねる。
「——観音さま……いや、鄭どのと、今日から夫婦になるのだな」
そう呟いた声は、ほんのり震えていた。
その日、太子府にはたくさんの人びとが集まり、金のふちどりをされた衣をまとった役人たちが、あわただしく立ち働いていた。
みな、皇太子の婚礼という大きな節目に立ち会うためである。
鄭観音――それは彼女の本名ではない。けれど、皆がそう呼んで親しみをこめるニックネームでした。。
父は鄭元璹、隋の時代から知られた名士で、唐の建国ののちには真っ先に皇室に仕えることを選んだ人物です。
鄭の家は、関中と呼ばれる土地のなかでも、李家と肩をならべるほどの名門でした。
観音さまの着物は、薄い桃色。
きらきらと光る飾り布が長く引かれており、彼女が歩くたびに、春の朝日をうけてまるで霞のようにゆれていました。
その姿を見て、李建成は思わず息をのんのです。
「……ようこそ、太子府へ。これより先、あなたと共に歩む道が、穏やかでありますように」
そう言った建成の声は、いつもより少しだけ低かった。けれど、心からの願いがこもっていました。
観音は、にこりと笑って答えました。
「はい。わたくしも、太子さまの傍にいられること、心より嬉しゅうございます」
そのとき吹いた風が、ふたりの間をそっと通りすぎます。
やさしく、やわらかく、春の香りを運びながら——。
この日をさかいに、李建成は正式に妻を迎え、太子としての務めを一歩ずつ歩み始めたのです。
だが、この時はまだ知らなかったのだ。
数年後に、自らの運命が大きく揺れることになるとは。
けれども——だからこそ、この結婚の朝は、静かで、やさしく、美しかったのです。
◯【魏徴、李建成にまみえる】
その年、長安には、いつもよりも早く春の雨が降り始めていました。
しっとりと濡れた石畳の上を、音もなく水が流れていきます。
街路の柳は萌え、城の高殿の甍には霧が降りていました。
太子・李建成は、そんな雨音のなか、静かに書巻を閉じました。
傍らの几帳のむこうから、太子府の官吏が歩み出ました。
「太子さま……先日、唐に降伏した者より、文が届いておりまする。名は魏徴と申す者にございます」
「魏徴……ふむ」
建成は筆を置き、侍従の差し出す封を受け取りました。
墨痕のはっきりとした筆致。無駄のない構成と、押しつけがましさのない礼節。
一目読んでわかる。これは、ただの降人ではありません。
魏徴という男は、もともと李密のもとに仕えていました。
李密は隋の末に各地で民が立ち上がった「群雄」の一人です。
彼のひきいる瓦崗軍は、かつて関中を揺るがす勢いがありました。
——だが、その勢いは長くは続かなかったのです。
李密の軍はやがて瓦解し、彼は唐に降伏しました。。
魏徴もまた、仕える主を失い、自らの道を探していたのです。
そんな折でした。魏徴は、李密の旧知をたどって唐の都・長安へと入り、
皇太子・李建成に仕える道を選んだのです。
数日後、雨の止んだ午後。
魏徴は太子府の正門をくぐりました。
深緑の羅を重ねた直衣に身を包み、背筋をのばして歩くその姿は、軍人というより文人のそれでした。
やや面長の顔立ち、端正ではあるが、むしろ強く印象に残るのはそのまなざし。
墨のように濃い瞳の奥に、激しい理想と、世の理を見据える鋭さがありました。
「はじめまして、魏徴でございます。もとは李密公に仕えておりましたが……今は唐の治世の一助となることを願い、この身を捧げる所存にございます」
魏徴は、深々と頭を垂れました。
「うむ……その志、あっぱれである」
李建成は、魏徴の顔をじっと見つめた。
敵の軍にあって智謀をふるった男です。だがその目に、今は誠が見えます。
建成は静かにうなずきました。
「世はすでに唐のもとに集まりつつある。だがそれゆえ、ただ武に頼るだけではこの国は立たぬ。言葉と理をもって、政を導く者こそが、これからは要となる」
「はっ……微力ながら、太子さまのご志を支えとうございます」
「よい。そなたには記室参軍として、太子府の記録・文案を預けよう。また、そなたの考えを、折々聞かせてくれ」
そのとき、魏徴は確かに感じました。
——この人の下でなら、志を曲げることなく働けるかもしれない、と。
太子建成は、文を愛し、礼を重んじ、驕らぬ人物でした。
戦場の勇だけでなく、民の声に耳をかたむける冷静さがあったのです。
やがて魏徴は、太子府の奥にある静かな執務室へと案内されました。
そこには、書架に並ぶ書物と、墨の香、紙をすべらせる筆の音がありました。
あらたな仕官先にしては、なんとも静かすぎる始まりでした。
だが、この小さな部屋で、魏徴は数年にわたり、太子・李建成に数々の進言を重ねていきます。
それは、やがて歴史の大きな渦に巻きこまれる、運命の始まりでもあったのです。