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幻の名君:李建成:05

〇619年 李密り・みつとの戦い――李建成り・けんせいが示した知恵と心づかい


唐の都、長安ちょうあん。ここでは皇太子こうたいしとなった李建成り・けんせいが毎日忙しく国のことを考えていました。父である李淵り・えんはすでに皇帝となり、新しい国「とう」を築きあげようとしています。しかし、その道のりは決して簡単ではありませんでした。


618年の建国からわずか数年。まだ国の力は十分に強くなく、周りにはいくつもの勢力が争い合っていました。中でも大きな問題となったのが、河南かなん地方を支配していた反隋はんずいの有力な軍事指導者、李密り・みつです。


李密は兵を率い、その軍にはたくさんの優秀な将軍たちがいました。中でも特に知られているのが、頭のいいな軍師ぐんし徐世績じょ・せいせき怪力かいりきで戦術に優れた秦叔宝しん・しゅくほう、そして豪快で人気のある程咬金てい・こうきんです。


この三人の将軍は、それぞれが強い力と多くの兵をまとめていました。李密の軍は非常に強く、唐の軍と何度も激しい戦いを繰り返していました。


戦いは長く続き、多くの兵士たちが疲れ果てていました。食べ物や武器も不足し、みんなの心は次第に疲弊ひへいしていきます。


そんな苦しい状況の中で、李建成は考えました。


「ただ力だけで戦っていても、勝つのは難しい。敵の将軍たちの心を動かせれば、戦いを早く終わらせられるかもしれない。」


そこで李建成は密かに使者ししゃを送りました。彼は敵の将軍たちにこう伝えさせました。


「あなたがたの武勇は多くの人に知られており、私たちも敬意を持っています。しかし、戦いが続けば、民は苦しみます。これ以上の争いはやめて、共に新しい国を作り、民のために力を合わせませんか?」


この言葉は、戦に疲れた徐世績や秦叔宝、程咬金たちの心に届きました。強い敵と長く戦い続けることの苦労や、民の生活のことも考え始めていたからです。


やがて李密の軍が敗れた後、これらの将軍たちは唐の李世民り・せいみんのもとに戻り、唐の軍に加わる決断をしました。


李建成の優れた判断と心づかいが、単なる武力ではなく、人の信頼と絆を生み出したのです。


この出来事は、李建成にとって大きな学びとなりました。


「戦いに勝つためには、ただ力を使うだけでなく、人の心を理解し、大切にすることが必要なんだ。」


彼はこうして、これからも国の未来を守るために、知恵とやさしさを持って政治や戦いに臨むことを誓いました。



〇619年、関中の戦い――李建成の知恵が唐の勝利を呼ぶ


暑い夏の終わりから秋にかけて、関中かんちゅう、今の陝西省せんせいしょう周辺の広大な土地で大きな戦いが繰り広げられていました。


この地をめぐって激しく争っていたのは、王世充おう・せいちゅうという隋の豪族出身で勢力を持つ武将と、もう一人の有力な軍事指導者、李密り・みつでした。李密は河南地方を支配し、強力な軍隊を率いていました。


とう皇太子こうたいしである李建成り・けんせいは、長安ちょうあんにいてこの戦いの行方を注意深く見守っていました。李密と王世充は、いずれも唐にとって強敵です。直接戦って勝つことはもちろん重要ですが、できれば自軍の兵を無駄に失わず、相手同士を戦わせて力を削ぎたいと考えました。


そこで李建成は、ある大胆な作戦を立てました。


李密りみつ軍は、とても強い。このままだと、李密が天下を取るだろう。できれば、王世充おうせいじゅうに勝ってほしい。李密軍の心を乱すことができれば、戦いは有利になるはずだ」


彼はまず、李密にそっくりな影武者かげむしゃを探し出し、その男に李密のふりをさせることを命じました。影武者は甲冑かっちゅうをまとい、まるで本物の李密のように振る舞いました。


次に、影武者が戦場で討たれたと大きな声で噂を流しました。


「李密が殺された!」


この情報は瞬く間に李密軍の兵士たちの耳に入りました。


「主君が死んだ……」


そう信じ込んだ兵士たちは動揺を隠せません。戦う気力を失い、混乱が広がりました。中には戦意喪失して逃げ出す者も出てきました。


李密自身は実際には無事でしたが、軍はすでに崩れかけていました。王世充の軍はこのチャンスを逃さず、一気に攻勢を強めていきます。


結果として、李密の軍は大敗北を喫し、その勢力は大きく衰えてしまいました。


このとき、唐軍は自分たちの兵を大きく失うことなく、ライバル同士を戦わせる事によって敵の力を弱めることに成功しました。


李建成のこの策略は、単なる武力ではない「頭脳戦」の勝利でもあったのです。


長安の都で静かに戦況を見つめていた李建成は、ただ戦いに身を投じるだけでなく、冷静な判断と機転を使って唐の未来をしっかり守っていきました。


彼のこうした努力が、やがて唐を大きな国へと成長させる土台となったのです。



〇620年――李建成と唐軍、王世充・李密の地方勢力に挑む


唐ができてから二年目の620年、まだまだ平和とは言えない時代が続いていました。


長安ちょうあん、今の陝西省せんせいしょうのあたりは、唐の都としてとても重要な場所です。しかし、王世充おう・せいちゅう李密り・みつといった強い地方の武将たちが周囲に勢力を張り、唐の支配をおびやかしていました。


皇太子の李建成り・けんせいは長安にいて、この状況をとても心配していました。


「長安は唐の中心。ここを守らなければ、国の未来はない」


李建成は自分が直接戦うことは少なかったものの、兵の補給や戦略の立案をしっかり行い、軍を支えました。兵士たちが食べる食料や武器が十分に届くように整え、戦いを長引かせることなく効率的に進めるためです。


戦場での食糧――兵士の命を支えた食事


当時の戦場では、兵士たちがいつでもおいしいごちそうを食べられるわけではありません。遠くの戦地にまで食糧を運ぶのは大変で、保存がきくものが中心でした。


主な食糧は、「ほしいい」や「乾燥させた穀物こくもつ」、そして「塩漬けの肉」でした。干し飯は、ご飯を薄く伸ばして乾燥させたもので、水やお湯で戻して食べます。とても軽くて持ち運びやすいので、長い行軍にもぴったりでした。


また、塩漬けの肉は長く保存できて、たんぱく質もしっかりとれました。


李建成は、こうした食糧が戦場の兵士に確実に届くように、補給の計画をていねいに立てていました。兵士たちが空腹で倒れることがないよう、食糧の管理は何よりも大切だったのです。


武器――戦いの道具たち


兵士たちが使う武器は様々ありました。


まず多かったのは「刀」や「けん」です。これは近くで戦うための武器で、刀は切る力が強く、剣は突くのに向いています。


遠くから敵を攻撃するには、「弓矢ゆみや」が欠かせません。弓を引き絞って矢を放つと、敵に大きなダメージを与えられました。


また、「やり」や「げき」という長い棒の先に刃物がついた武器も使われました。槍は敵の突進を止めたり、集団での戦いにとても役立ちました。


こうした武器を、兵士たちは身につけて戦いに臨みました。李建成は武器の補給もきちんと管理し、兵が戦いやすい環境を整えました。


唐軍は王世充や李密の軍勢と戦い続け、少しずつ彼らの力を削っていきました。特に長安のまわりをしっかり押さえることに全力を注ぎました。ここが安全であれば、唐の国は安定し、次の一歩を踏み出せるからです。


何度も戦いが起き、兵士たちは疲れていきました。しかし李建成の支えがあったからこそ、唐軍はくじけずに戦い続けられました。


「敵の勢力を削ること。それがこの戦いの目的だ」


長安の空には、まだまだ戦の煙が立ち上っていました。


けれど、李建成の冷静な指揮と計画によって、唐は少しずつ強くなり、地方のライバルたちに対抗し続けていたのです。

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