幻の名君:李建成:03
〇江都の皇帝
煬帝の玉座が置かれたのは、江都という南の都でした。
――けれど、そこには風の噂しか届いてこない。
北では民が苦しみ、反乱が燃え広がっているというのに。
「またか。どこどこの村で、農民どもが兵を上げたそうだ」
部屋の中で報告を受けながら、煬帝はゆっくりと葡萄酒の入った金の盃を揺らした。
背もたれの高い玉座は、真っ赤な緞帳に囲まれ、香の匂いが甘く鼻に残る。
「くだらぬな。たかが百姓のわめき声に、帝たるこのわたしが耳を傾けるとでも?」
煬帝のまなざしは遠く、都の外にある**新しく造らせた離宮**を思い浮かべていた。
まるで湖に浮かぶ楼閣のような、白く光る御殿。
江南の細やかな細工が施された欄干に、花の香りが流れる庭園。
そして何より、洛陽から引いた大運河の水のきらめき――。
「次は船でどこへ行こうか。杭州もいい、呉もよいな……」
皇帝の夢は、都の外を漂ってばかりだった。
けれど、現実の国のすがたは、すこしずつ崩れかけていたのである。
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そのころ、黄河のほとりに住む民たちは、
お腹をすかせ、腰を曲げ、鍬をふるっていた。
「年貢がまた上がったとよ。こんどは一日中、運河の土を運べってさ」
「うちの子は兵に取られた。もう三月も帰らぬ……」
人々の顔に笑顔はなく、声には力がなかった。
国のためと信じてきた労苦も、いまや虚しく、
「だったらもう、戦ってでも生き抜いてやる」と立ち上がる者があちこちで現れた。
山東でも、河東でも、河北でも――。
その中には、昔から地元で力を持っていた豪族たちもいて、
家の兵や民を集め、「この地をわがものに」と旗を立てた。
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反乱の報が江都に届くたび、煬帝はあわてて将軍を呼びつけ、軍を出す。
しかしそのたびに、敗北の知らせが帰ってきた。
「どうなっておる! 帝の命が届かぬとは、国が……国が朽ちたというのか!」
玉座で煬帝は怒鳴ったが、もうその声が国中に届くことはなかった。
人々の心から、「隋の皇帝は偉い」という思いが消えかけていたのだ。
――都に残るのは、金の皿と、うつくしい宮殿と、
風にたゆたう水の音ばかり。
国を憂う民の声は、
その水音に、かき消されていった。
〇「父の旗、兄の剣」
空はまだ夜の色を残していたが、太原の城門に近い屋敷では、すでに火が灯っていた。
李建成は甲を身に着けながら、父の言葉を思い返していた。
――「挙兵する。煬帝の世は、もはや末だ」
父・李淵は、隋の高級官僚であり、太原を治める総管でもあった。
だが今、その地位を捨ててでも立ち上がるという。
相手は、天下の皇帝。
それでも、建成の心は、不思議と静かだった。
「兄上、いよいよですね」
弟の李世民が、火の光の中で剣を握って言った。
ふだんは落ち着いた弟も、この時ばかりは目に熱を宿していた。
「……そうだな。世を立て直す、それが父上のおこころだ。ならば、われらも戦おう」
建成は、父にそっくりな眉をわずかにあげて、弟にうなずいた。
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太原の城門が開くとき、李家の旗が風に大きくひるがえった。
朱い布に金の刺繍。その真ん中には、大きく「李」の字。
「父上は、ただ国を壊すために戦うのではない。煬帝の失政を正し、世に秩序をもたらすためだ」
建成は、馬上にてそう語った。
その言葉に、家臣たちが目を見開き、兵たちは声を上げた。
「李将軍に続けーっ!」
こうして617年、太原から李家の軍が進軍をはじめた。
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道中、李建成は父のかわりに軍の指揮をとった。
黄河を越えるときも、反乱を起こした地方の豪族と向き合うときも、建成はいつも堂々としていた。
「降るも自由、戦うも自由だ。だが我らは民のために立った。正しい道を信じよ」
彼の言葉に、心を動かされた者たちは少なくなかった。
やがて李家の軍は、雪玉を転がすように大きくふくれあがっていった。
弟・世民は各地の戦で功をあげた。
そして、兄の建成は、軍を一つにまとめる柱となった。
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そのころ、皇帝・煬帝は……
なんと、江都(こうと/いまの揚州)にて、舟遊びにうつつをぬかしていたという。
「都が……からっぽ?」
建成は、耳を疑った。
だが、それは事実だった。
洛陽も長安も、皇帝がいないのなら、守るべき主を失っていたのだ。
「兄上、このまま長安へ!」
弟の世民が叫んだ。
「急ぐぞ。都をとらえて、民に安らぎを!」
その声に、建成はうなずき、馬腹をけった。
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長安は、思いのほかあっけなく手に入った。
兵の抵抗もなく、城門は開かれた。
民たちは、はじめこそおびえていたが、建成の軍が礼を守り、略奪をせず、秩序を重んじると知ると――
やがて道ばたに出て、花や食べ物をもってきた。
「ありがたや……」
「李将軍万歳!」
その声を受けながら、建成は思った。
(この戦いは、ただ勝つためのものではない。天下を守るためのものなのだ)
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のちに父・李淵は、煬帝の孫・楊侑を皇帝にたて、表向きは隋のまま政をおさめる形をとった。
だが、それは仮の姿。
天下の心は、すでに李氏に集まりつつあった。
そして――
この一年後、李建成の父・李淵は「唐」という新しい国をたて、天下は大きく動くこととなる。
だが、それはまた別の物語である。
〇「唐のはじまり、太子の朝」
春の風が、長安の宮殿をゆるやかに吹きぬけていった。
あたたかい陽ざしが、石畳をきらりと照らす。
宮中には、かすかな緊張と、大きなよろこびの空気がただよっていた。
その日、父・李淵が、正式に「皇帝」となったのだ。
「国の名は――唐とする」
その声は、まるで新しい時代のはじまりを告げる雷鳴のようだった。
隋の世が終わり、李家が天下を治めることになったのだ。
そして同じ日、李建成もまた、大きな名をあたえられた。
――皇太子。
すなわち、父に次ぐ者。
いつか皇帝となる、国の「後つぎ」である。
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建成は、玉座の前でそっと頭をさげた。
うれしさと、責任の重さが、胸のなかで入りまじっていた。
「兄上、おめでとうございます」
弟の李世民が、すぐとなりで頭をさげる。
彼もまた、新しい地位をあたえられていた。
――秦王。
軍の柱として、戦の指揮をとる大役である。
世民の顔には、自信と情熱が浮かんでいた。
建成は、やさしくうなずいた。
「ありがとう。……これからは、そなたが外を守り、私が内を治めるのだな」
「はい。兄上となら、唐の世はきっと良くなります」
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それからというもの、建成は毎日、朝早く起きて政務にあたった。
文官たちと相談し、民の声を聞き、税や法律をととのえる。
戦う者ではないが、国の骨組みを支える、大事な役目だった。
宮中の者たちは、そんな建成の姿を見て、こう言った。
「太子殿下は、実にまじめで、おやさしい方じゃ」
建成は決して威張らず、誰にでも耳をかたむけた。
どんなに小さな声も聞きのがさず、国がよくなる道をさぐりつづけた。
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だが一方で、弟・世民は各地の反乱をしずめ、軍を率いて活躍していた。
彼の名は、兵たちのあいだで語り草となり、やがて都にも広まっていった。
(世民もがんばっている。私も、負けてはいられぬ)
建成は心の中でそっとつぶやき、筆をとった。
国をつくるのに、剣だけでは足りぬ。
政もまた、大きな力なのだ。




