幻の名君:李建成:02
〇『運河をほった男 ―隋の煬帝・楊広―』
静かな朝だった。
604年、長く中国を治めた皇帝・楊堅が、ひっそりとこの世を去りました。
人びとは、強くてまじめだった彼のことを「文帝」とよび、国じゅうがその死を悲しんだといいます。
そして、後をついで皇帝になったのは――その子、楊広という男でした。
「父上が築いたこの国を、もっともっと大きくしてみせるぞ」
玉座にすわった楊広は、そう言って高らかに笑いました。
これが、のちに煬帝とよばれる皇帝です。
◆
煬帝は、とても頭がよく、知恵も勇気もある人でした。
しかし、なにごとにも「急ぎすぎる」性格でもありました。
人の話を聞くよりも、自分の考えを押し通すことのほうが多かったのです。
そして605年、彼は大きな計画をはじめました。
「南の食べ物を、北の都へすばやく運ぶにはどうすればよいか」
その答えが、「運河をつくること」だったのです。
◆
「地図を持て! 測量隊を集めよ! 民に知らせろ!」
煬帝の声が、宮殿中にとどろきました。
こうして、長い長い水の道――大運河の工事が始まったのです。
洛陽から、開封を通り、遠く杭州までつづく巨大な運河。
この水の道が完成すれば、お米や野菜、絹や塩を、船で一気に運べるようになります。
「これが完成すれば、民の暮らしも、国の富も、みな豊かになるぞ!」
煬帝の目は、未来の光を見ているようでした。
◆
けれど――
現実は、そうかんたんなものではありませんでした。
運河をほるためには、何十万という人夫=重い荷を運び、土をほる労働者が必要でした。
彼らは、まいにち朝から晩まで、汗まみれになって働きます。
けが人も病人もふえ、食べ物も足りません。
「これでは……まるで戦よりつらい……」
人びとのあいだに、しだいに不満と怒りがたまっていきました。
それでも、煬帝は工事を止めませんでした。
国のため、未来のため、と信じていたのです。
「いまは苦しくとも、いつか感謝される日が来る。そうであろう?」
玉座にすわる皇帝の言葉を、誰も止めることはできませんでした。
◆
こうして作られた大運河は、のちの中国に大きな影響をあたえることになります。
物流、農業、都市の発展――すべては、この「水の道」から生まれたのです。
けれど、民の心は――
このころ、すこしずつ、皇帝から離れはじめていました。
〇『北の国、高句麗へ ―煬帝と三たびの遠征―』
――風が冷たい、冬の朝。
「高句麗が我が国にひざまずかぬと申すか……?」
玉座の上、煬帝の目がかすかに光った。
朝鮮半島の大国・高句麗は、昔からたくましい戦士をたくさん育ててきた国である。
その王・嬰陽王は、煬帝からの使いにこう言った。
「隋の命に従うつもりは、ありません」
……これは、はっきりとした拒絶であった。
◆
「これは、無礼である。戦を起こして、我が隋の力を示さねばならぬ!」
煬帝は、ただちに大軍の準備を命じた。
兵士の数、なんと百万人にのぼったという。
船や馬、武器や防具、食料の手配――すべてにおいて、民の力が必要だった。
「都のまわりだけで足りぬ。村からも人夫を出せ。食糧も出せ」
役人の声が、町や村に響きわたった。
農民たちは不安を胸に、重い荷を運び、水をくみ、馬をひいた。
だれもが言葉には出さぬが、顔にはつかれと怒りがにじんでいた。
◆
そして、610年――
ついに、高句麗遠征が始まった。
「勝って帰るぞー!」
「天子さまの名にかけて!」
兵士たちは大声をあげ、広い野を進んだ。
けれどその先にあったのは――きびしい自然と、つよい敵であった。
高句麗の兵たちは、山にかこまれた土地をいかして、じょうずに隠れ、すばやくうごき、隋の軍を何度も打ちやぶった。
「水が足りない!」
「食べものがない!」
「寒くて動けない!」
大軍を動かすにも、食料が足りない。
疲れた兵士たちは、戦う気力をなくし、つぎつぎに倒れていった。
612年、613年、614年……
三度の遠征は、すべて失敗に終わった。
煬帝の怒りの声だけが、むなしく空に消えていった。
◆
そのころ――
民の暮らしは、すでに限界にきていた。
大運河の工事、立派すぎる宮殿づくり、そしてこの大遠征。
米は高くなり、田畑はあれ、若い男たちはみな戦へ。
「こんな暮らし、もう耐えられない!」
ついに、反乱がはじまる。
各地で農民たちが武器をとり、役所をおそい、税の帳簿を焼きすてた。
その中でも、もっとも知られているのが――楊玄感という将軍の乱である。
613年、彼は軍を率いて、揚州で旗をあげた。
「今の隋は、すでに民の国ではない。ならば、われらが正すのみ!」
だがこの反乱は、じきに鎮圧される。
楊玄感はつかまり、打ち首となった。
……けれども、火は消えなかった。
その一揆は、まるで山火事のように、次から次へと国中にひろがっていく。
煬帝の築いた大帝国・隋は――
このとき、音もなく、ゆっくりと崩れはじめていた。
〇『貴族の子、李建成』
――そのころ、隋の都・洛陽は、まだ光を失っていなかった。
だがその光のうらでは、静かに、時代の大きなうねりが近づいていた。
◆
西暦613年――
隋の第2代皇帝・煬帝の治める時代、大業9年。
ある名門の一家が、洛陽に入った。
「李淵様のご一行、お通りである!」
立派な官服に身を包み、やわらかな黒馬に乗ったひとりの男――
彼の名は、李淵。
代々つづく名家・李氏の当主であり、隋でも高い地位にある文武の大官である。
「父上、ここが洛陽なのですね……」
後ろからそっと声をかけたのは、まだ若い青年――李建成。
李淵の長男である彼は、すでに学問と武芸に優れ、都でも注目されていた。
家に代々伝わる礼法と知恵を学び、しずしずと振る舞う姿は、まさに貴族のかがみといわれていた。
「うむ。ここでの務めは重いが――それがおまえの学ぶべき“道”でもある」
父の言葉に、李建成はふかくうなずいた。
この年、彼もまた官途――つまり役人としての道を歩みはじめる。
◆
「建成様は、まだ若いというのに……よくぞここまで」
「父君の血をひくだけのことはある」
洛陽の役所では、そんな声がひそひそとささやかれた。
書を読み、政を学び、人の上に立つふるまいを身につける。
だが彼の目は、どこか遠くを見つめていた。
――この国は、本当にゆるがぬものだろうか?
煬帝の政治は、すでに民の心から離れはじめていた。
各地では反乱が相つぎ、民は苦しんでいた。
そして李建成自身、その時代の風の変わり目を、肌で感じていた。
「兄者……おれたち、本当に役人になるだけでいいのかな」
ある日、弟の李世民がぽつりとつぶやいた。
やがて、彼ら兄弟の運命は、まったく別の場所へと向かっていく――
だがそれは、まだ先の話である。
この時、李建成はただ、まっすぐに父の背を見つめながら、都の石畳を歩いていた。
それが、のちの唐という新たな王朝の幕開けにつながる一歩とも知らずに――