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幻の名君:李建成:15

〇兄弟の飲み会、しかし……


西暦625年、唐の武徳八年。長安ちょうあんにある李元吉りげんきつの豪邸には、兄の李建成りけんせいと弟の李世民りせいみんが揃って招かれていた。


李元吉が企画したこの飲み会は、兄弟三人の間に積もり積もったわだかまりを少しでも解こうとする願いからだった。

夕闇の中、豪邸の庭園には提灯が灯され、柔らかい光が優しく揺れている。室内は清潔で重厚な調度品に囲まれており、普段の厳しい政治の場とはまったく違う、どこか落ち着いた雰囲気に満ちていた。


三人は大きな木の円卓を囲み、酒盃しゅはいを交わしながら口数は少ないながらも互いの様子を探り合った。


「兄上、今日はこうして我が家にお招きできて光栄です」李元吉がまず口を開く。


「そうだな。こうして顔を合わせるのは久しぶりだ」李建成は少しだけ笑みを浮かべた。


「険悪な空気はやはりよくない。少しでも和らげたい」李世民も落ち着いた声で応じる。


酒が進むにつれて、三人の間にあったぎこちなさは少しずつ和らいできた。李元吉は時折冗談を交えながら場を和ませようと必死だった。


だが、突然のことだった。


李世民が軽く咳払いをしたかと思うと、次の瞬間、顔色がみるみる青ざめていった。


彼の手が自然と胸のあたりに伸び、指先が震え始める。呼吸は急激に浅く、速くなり、まるで胸の中に針が刺さっているかのような激しい痛みに襲われているかのようだった。


「兄上、大丈夫か?」李建成はすぐに身を乗り出し、弟の肩を支えた。


「苦しい……息が……うまく吸えない……」李世民の声はかすれ、汗が額に滴り落ちている。


その様子を見た李元吉の顔は青ざめ、何度も「大丈夫か?」と問いかけたが、李世民の苦しみはおさまらなかった。


床にうずくまりそうな勢いで体を折り曲げ、呼吸を整えようともがく李世民の姿に、場の空気は一気に重く張り詰めた。


「誰か薬を持ってきてくれ!」李建成が声を荒げた。


だが、あたりにはその場で応急処置ができる者はいなかった。


李世民は全身に冷や汗をかきながら、体の力がどんどん抜けていくのを感じていた。心臓がまるで締め付けられるような激痛を伴い、吐き気も催している。息を吸おうとするたびに胸が締まるように苦しくて、まるで肺が崩れ落ちるような感覚に襲われていた。


「まさか、元吉げんきつ。お前が……?」李世民はかすかに呟いた。


李世民の家臣たちがあわてて主君を外に連れ出した。医者に診せるためである。


その時、李元吉は内心の秘密を激しく揺さぶられながらも、どこか覚悟を決めた表情でじっと兄の苦しむ姿を見守っていた。


兄の李建成は、そんな弟の様子を見て激しい怒りをあらわにした。


「元吉!お前は一体何をしたのだ!」


突然の一撃が李元吉の頬を叩き、豪邸の室内に「パシン」という音が響いた。


「兄上を守るためだと言っているのです!もうこれ以上、兄上に危険が及ぶのは見過ごせなかったのです!」李元吉は必死に自分の行動を説明しようとしたが、悲しさと悔しさで声は震えていた。


その言葉を聞いた李建成の胸は締め付けられる思いだった。


兄弟の間に深い亀裂が生まれ、和やかなはずの飲み会は一瞬で終わりを告げた。


李世民はやがて苦しみの波を乗り越え、ゆっくりと椅子に戻ったが、その瞳の奥には疑念と悲しみが宿っていた。


「これ以上、家族が争うことなど望まぬ」李建成は静かに言いながらも、心の中では深い悲しみと怒りが交錯していた。


この夜、長安の豪邸で起きた出来事は、三兄弟の関係を決定的に変えてしまったのだった。



〇李建成の決断 ―武徳八年の静止―


唐の都・長安――その宮殿の奥深く、春の風がまだ冷たさを含んでいた頃のこと。


「兄上、いまが好機です」


李元吉り・げんきつが声をひそめて言った。若く血気盛んなその目は、どこか獣のように光っている。


その視線の先にいたのは、李建成り・けんせいであった。唐の太子。皇帝・李淵の長男であり、弟たちの中でも、いちばん早くから国を支えてきた人物だ。


だが今、彼の心には、静かな波がたっていた。


弟・李世民り・せいみんが、宮中から遠ざかり、自らの「天策府てんさくふ」という邸宅にこもりきりになっている。そこには、戦でならした猛者たちが詰めており、まるで小さな軍隊のようだった。


「陛下に進言し、李世民を召し出してはどうでしょう?」

李元吉は囁く。「天策府を離れれば、次兄の護衛は手薄になります。しかるのちに――排除するのです」


この計画は、李建成の腹心たち――魏徴ぎ・ちょうや、紀若曽き・じゃくそうらによって練られたものだった。


彼らの願いはただ一つ。


「太子さまをお守りすること」


だが、それが弟を殺すことで叶うというならば……建成の顔には、苦い影が落ちた。


「兄上、世民せいみん兄者を生かしておけば、いつか必ず、こちらが討たれます」


元吉の声には、真剣な怒りがこもっていた。すでに兄弟たちは、仲良く笑いあえる関係ではなくなっていたのだ。


だが――


「元吉、それ以上は言うな」


建成はゆっくりと首を横に振った。


「……弟を殺してまで守る『平和』など、母上が喜ぶと思うか?」


ふたりの母、竇氏とうしは、李淵の妃のひとりであり、三兄弟を愛して育てた女性だった。その母が、兄弟同士で血を流し合うことを望むはずがない。


「李世民には、多くの部下がついておる。もし奴を殺せば、やつらが黙ってはおるまい。都で戦になれば、民も巻き添えになる……」


建成の声には怒りも悲しみもない。ただ、深く静かな、決意だけがあった。


「ならば、我らは手をこまねいて見ていろと……!」


元吉が机を叩く音が、冷たい空気を打った。


部屋の隅にいた魏徴が、そっと前に出た。


「太子さま……お言葉ではございますが、弟君を警戒せねばなりません。あの方がこのまま黙って引き下がるとは思えませぬ」


その言葉に、建成の眉がかすかに動く。


たしかに、李世民はただ者ではない。幾度も戦に勝ち、国の英雄ともたたえられている。その人望、その力――とても危険だ。


それでも。


「わたしは、弟を裏切る兄にはなりたくない」


その一言に、誰もが黙った。


魏徴も、紀若曽も、そして元吉でさえ、その言葉の重さに気圧された。


建成は立ち上がり、窓の外を見た。春の空には薄雲がかかり、どこか不安な色をしていた。


「たとえこの身が滅びようとも、正しき道を選びたい。それが、父上から太子の位を預かる者の務めだと、わたしは思っている」


ふと、彼は笑った。どこか、あきらめにも似た微笑だった。


その夜、李元吉は一人、剣を手に座していた。


計画は中止された。李世民を誘い出す罠も、兵を動かす命令も、すべて取りやめとなった。


李建成の命によって――。


その決断が、後に何を招くのか、まだ誰も知らない。


だがこの時、兄は弟を、あえて生かしたのだった。


それが、やがて訪れる「玄武門の変」へとつながっていくことも知らずに――。



〇【風は東より】


 春まだ浅い長安の朝。

 皇太子・李建成り・けんせいは、ひとり書斎の窓辺に立っていた。雲が流れ、風が吹き、どこか落ち着かぬ日だった。


 そこへ、控えていた魏徴ぎ・ちょうが静かに声をかけた。


「太子様、文幹ぶんかんの件……聞きおよびにございますか」


「……ああ。聞いた」


 李建成はそっと目を伏せた。


「まさか、あの文幹が。私に何の相談もなく、兵を挙げるとはな」


 魏徴はうつむいた。


「文幹殿の心中、私には痛いほどわかります。しかし……軽率でございました。唐軍の手にかかるのも時間の問題でしょう」


 「太子様のお身を案じ、先んじて世民せいみん殿の勢力をそぐつもりだったと聞きます」


 建成は苦笑した。


「忠義が過ぎれば、裏切りと見なされる。なんとも皮肉なことよ……」


 そのとき、奥の間から紀若曽き・じゃくそうが駆けて来た。


「太子様! 文幹殿、すでに叛旗を翻しました。兵数はおよそ五千。すでに洛陽を出たとのこと!」


「洛陽か……!」


 李建成は立ち上がった。


「父上──高祖陛下のもとへ急ぎ上奏を。私は関わりない、と明らかにせねばならぬ」


 魏徴と紀若曽がうなずく。


「ごもっともです。しかし……」


 魏徴は一瞬、言葉を濁した。


「世民殿が、この機をどう動かすか。ご注意くださいませ」


 李建成の目が細められた。


「……私には、ただ見守ることしかできぬのか」


 *


 そのころ──


 洛陽の城外に、ひときわ高く旗が翻っていた。旗には「為李建成太子、討奸立正(奸を討ち、正を立てんがため太子に従う)」とあった。


 楊文幹。

 皇太子直属の官・率更令そっこうれい。武勇にすぐれ、太子の身辺を預かってきた男である。


「李建成様は、民を思い、兄弟を思う。だが、それゆえに争いを避け、身を引いておられる。ならば、この私が──」


 文幹の声は高く、兵たちの胸を打った。


「世民殿は武を誇り、兵を握る。だが民は……正しき者を望んでいる! それが誰か、わかっておろう!」


 軍は進んだ。


 だが、唐軍の動きは速かった。朝廷の命を受けた討伐軍がただちに出陣し、楊文幹の軍を各地で迎え撃った。


「ぐっ……!」


 文幹は矢を受け、馬上にぐらりと傾いた。兵の数は半減、味方の離反もあった。


 それでも文幹は、なお叫び続けた。


「名君たる李建成様を──皇帝に!」


 やがて彼は、捕らえられた。


 高祖・李淵の命により、文幹は斬首されたという。


 その最期の言葉も、やはり太子を讃えるものだった。


 *


 そして、再び東宮──


 建成は静かに目を閉じていた。


 庭には春の花が揺れていたが、彼の心に届くことはなかった。


「文幹……」


 低くつぶやいたその声は、誰にも届かないほど弱かった。


 紀若曽がそっと言った。


「太子様、あの方は、お心のままに生き、お心のままに……果てました。誇るべき忠義の士にございます」


 「それが、国を乱すことになってもか……?」


 建成の声には苦味があった。


「兄弟で争いたくはなかった。ただ、それだけなのに……」


 魏徴が一歩前に出た。


「太子様、忠義とは、ときに独り歩きいたします。ですが、文幹殿の死を無駄にはなさいませぬよう……」


「わかっておる」


 建成はうなずいた。


「……これでまた一人、私のそばから去ったか」


 空を見上げると、雲はどこまでも高く、白かった。

 李建成は思った。


 ──これは、始まりなのだ。終わりではない。

 このままでは、何も守れぬ。


 その目に、初めて炎がともった。

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