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幻の名君:李建成:01

〇【李建成り・けんせいのうまれた日】――長安の春のこと


今から千四百年以上もむかし。

中国の都・長安ちょうあんでは、春の風がやわらかく町を通りぬけ、木々のつぼみがふくらみはじめていました。


その年、西暦にして五八九年――

中国をおさめていた国の名は「ずい」といい、国のトップは楊堅ようけんという名の皇帝こうていでした。

そのころ、あるりっぱな家に男の子がうまれました。


男の子の名前は、李建成り・けんせいといいます。

この子のお父さんは、李淵り・えんという将軍しょうぐんで、戦がとても強く、人々にも信頼されている人でした。

李淵はこのとき、まだ一人の部下にすぎませんでしたが、のちに国をたてて皇帝となります。それが「とう」という国のはじまりでした。


建成の母は、竇氏とうしという女性で、北周ほくしゅうという昔の国の名家めいか――つまり、とてもりっぱな家の出身でした。

やさしくて、きちんとしていて、建成のことをとても大切に育てました。


李建成は、李家の長男としてうまれました。

のちにたいせつな家をついでゆく子として、たくさんの期待をあつめました。


やがて建成には、弟たちもうまれます。

とくに有名なのは、李世民り・せいみんという弟で、この人はのちに「太宗たいそう」という皇帝になります。

ほかにも、李玄覇り・げんば李元吉り・げんきつという弟がいて、四人の兄弟はともに育ち、そして――のちに、思いがけない争いにまきこまれていくのです。


でも、このときの李家には、まだ争いの気配はありません。

将軍の屋敷には春の光がふりそそぎ、あたらしい命の誕生をよろこぶ笑い声が聞こえていました。


李建成が、のちにどんな運命をたどるのか――

それはまだ、誰も知りません。



〇『再びひとつの国へ ―589年・隋の統一―』


むかしむかし、中国という大きな国では、「北の国」と「南の国」とが、長いあいだ分かれてくらしていました。

この時代は「南北朝なんぼくちょう」とよばれ、あちらこちらでいくさが続いていたのです。


北では「北周ほくしゅう」という国があり、そこから出た楊堅ようけんという人が、ついには皇帝となって、新しい国「ずい」をつくりました。


楊堅はただのいくさ上手ではありませんでした。

人をよく見て、力ある者を使いこなし、じっとチャンスを待つことのできる人でした。


「この国を、もう一度ひとつにまとめたい。人々が安心してくらせる国に――」


そう願っていた楊堅は、ついに589年、南の「ちん」という国を攻め、見事に打ち破ります。


そのとき、楊堅の年はすでに五十をすぎていましたが、彼の目は遠くを見つめていました。

「戦のない世の中へ……それこそが、わしの本当の戦ぞ」


この年、中国はおよそ三百年ぶりに、北も南もすべてひとつの国になったのです。

これを「隋の統一ずいのとういつ」といいます。


人々は、「やっと戦が終わった」「これで田んぼをたがやせる」と、安心して畑に出たり、商いをしたりするようになりました。


もちろん、すべてがすぐにうまくいくわけではありません。

けれども、この楊堅という男の一歩が、のちの「とう」というもっと大きな国の土台にもなっていくのです。


歴史の大きなうねりのなかで、小さな希望が生まれた年――それが589年でした。



〇『国をととのえるということ ―隋の文帝・楊堅のはたらき―』


589年、長くつづいた戦の時代が終わり、ずいという国が中国全土をまとめました。

そのとき皇帝になったのが、楊堅ようけんという名の男です。


「戦は終わった。だが、ほんとうの仕事はこれからだぞ」


玉座にすわった楊堅は、うつくしい大興城だいこうじょうの空を見あげて、そっとつぶやきました。


この都・大興城は、のちの「長安ちょうあん」とよばれる大都市になります。

広い通りに立ち並ぶ役所や住まい、東西の門を結ぶ道をゆく人びとのにぎわい……

楊堅は、そんな未来の姿をすでに思い描いていたのかもしれません。



それからの楊堅は、まるで昼も夜も休まずに働いているようでした。

国のしくみをひとつひとつ見なおし、「これではいけぬ」「ここは直す」と、あちこちに命じます。


まず、役人をえらぶ方法を変えました。

それまでの九品中正法きゅうひんちゅうせいほうという仕組みでは、有力な家の子しか高い位につけませんでした。

「本当に頭のよい者、国のために働ける者を選びたい」

そう考えた楊堅は、試験によって人を選ぶ新しい方法=科挙かきょを準備させました。


さらに、税金のしくみもかえ、むだなく、重すぎず、きちんと国にお金が入るようにしました。

各地の役人の仕事ぶりにも目を光らせ、「民を苦しめる者は、たとえ親族でも許さぬ」と、つねに厳しくのぞみます。



けれども、楊堅がただ厳しいだけの人だったわけではありません。

ある日、年老いた農夫が訴えにやってきます。

「ことしは天気が悪く、まったく米がとれませぬ……どうか、少しお助けを……」


そのとき、楊堅は黙ってうなずき、にっこりと笑ってこう言いました。


「苦しきときこそ、国がそばにおらねばならぬ。民あってのみかどじゃ」



このようにして、楊堅は590年代のあいだに、隋の土台をしっかりと築いていったのです。

国をまとめるとは、武力でおさえるだけではなく、人の心に耳をすまし、未来の道をえらぶこと――

彼の働きは、のちに続く「とう」という大きな時代にも、大きな影響をのこしました。


ひとつの国をつくるには、多くの知恵と、長い時間がかかります。

その始まりに立った男、楊堅。

彼の名は、今も中国の歴史にしっかりと刻まれています。

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