浮気夫が王妃に手を出して失脚したので、領主として第二の人生を始めます
「もう十分です、サルヴァトール。私が『いいえ』と言ったのをお聞きになりませんでしたか?」
セリア・ファルケンベルクは、いつものように冷静に言い放った。
鏡台に向かい、光沢のある栗色の髪を優雅に結い上げながら、鏡越しに夫の表情を見つめていた。
サルヴァトール・デゥヴェルニー子爵は、部屋の中央に立ち、苛立った様子で彼女を見下ろしていた。彼は、最近流行りの緋色の上衣に身を包み、襟元には高価な銀の留め具が光っている。
「なんて頑なな女だ。星見の舞踏会は今季最大の社交イベントだぞ。君が出席しなければ、私の評判はどうなる?」
「お一人で行けばよろしいではありませんか」セリアは淡々と言い、真珠のヘアピンを一本髪に挿した。
「私は農場の灌漑問題を解決しなければなりません。長引く日照りで農民たちが困っているのです」
「またその話か」サルヴァトールは鼻で笑った。
「伯爵令嬢ともあろう者が、泥臭い農民のことなど気にするな。そのような業務は領地管理官に一任すればいい」
セリアは静かに深呼吸した。三年前、彼女が二十歳のときに結婚したこの男と、どうしてこんなに分かり合えないのだろう。
「サルヴァトール、あなたはこのファルケンベルク家に婿入りしたとき、この領地を私と共に治めることを誓いましたね」
彼女は椅子から立ち上がり、彼と向き合った。彼女の身長は平均より低かったが、その姿勢には威厳があった。
「私は毎晩、貴族社会で君の家の名を広め、有力者との繋がりを築いているのだ」
「社交場でシャンパンを飲み干すことが『領地を治める』ことだとは思いません」
セリアは冷静に言い放った。
「あなたがどこで何をしているか、私にはよく分かっています」
サルヴァトールの顔が一瞬引きつった。彼の浮気話は、すでに使用人たちの間でも囁かれていた。何人もの婦人たちと関係を持ち、そのたびに家の財産を湯水のように使っていることは、セリアも薄々気づいていた。
「つまらない噂を信じるのか」
しかしサルヴァトールの目は彼女を見ることができなかった。
「噂ではありません。先週、セリーヌ伯爵夫人が私を訪ねてきました。あなたが彼女に贈った宝石の代金が未払いだと言っていました」
サルヴァトールは言葉に詰まった。そして彼の顔は怒りで赤くなった。
「何が言いたい」
「わかりませんか」
セリアは窓辺に歩み寄り、干ばつに苦しむ領地を見渡した。
「この領地は私の生まれ育った場所です。私の父も祖父もこの地を守ってきました。私にはそれを続ける義務があります」
サルヴァトールは苛立たしげに部屋を行ったり来たりした。
「何を言い出すんだ。君の家格が私の家よりも低い。なのに私はこの結婚に同意し、君の家名を受け入れた。もっと感謝すべきだろう」
セリアは振り返らなかった。この議論は何度も繰り返されてきた。サルヴァトールの家はかつては名門だったが、彼の父の浪費により没落していた。彼がセリアとの結婚に同意したのは、セリアの家の財産を当てにしてのことだった。
「私は感謝しています。でも、あなたが私に約束したことを果たしていないのも事実です」
サルヴァトールはさらに不機嫌になり、ドアに向かった。
「もういい、好きにしろ」
ドアが大きな音を立てて閉まると、セリアは安堵のため息をついた。彼女はデスクに向かい、領地の帳簿と灌漑計画の図面を広げた。今夜は長い夜になりそうだった。
★
翌朝、セリアが執務室で働いていると、使用人が慌てた様子で入ってきた。
「お嬢様、すぐに来ていただけませんか!」
「慌ただしいわね。どうしたの、マーサ?」
「旦那様が……旦那様が逮捕されました!」
セリアは筆を落とした。
「は?」
「王宮からの使者が玄関にいらっしゃいます。旦那様は昨夜の舞踏会で王太子妃様に無礼を働き、投獄されたとのことです」
セリアは立ち上がり、慌てて玄関へと向かった。そこには王宮の制服を着た使者が立っていた。
「ファルケンベルク伯爵夫人、お目にかかれて光栄です」
使者は礼儀正しく頭を下げた。
「残念なお知らせですが、サルヴァトール・デゥヴェルニー子爵は、昨夜の星見の舞踏会で王太子妃アレクサンドラ様に大変無礼な振る舞いをし、現在王宮の牢に拘束されています」
「詳しい状況をお聞かせいただけますか?」
「子爵様は、王太子妃様に……公の場において、極めて不適切な言動をとられました」
使者は言葉を選びながら説明した。
セリアは額に手を当てた。サルヴァトールは何を考えているのだろう? よりにもよって王太子妃に誘いをかけるとは……
「私はどうすればよいのでしょうか?」
彼女は平静を装いながら尋ねた。
「王宮までお越しいただきたいとのことです。王太子殿下と王太子妃様が直接お会いになりたいとおっしゃっています」
セリアは深く息を吸い込んだ。これは単なる社交的な謝罪では済まない問題だと予感した。
「分かりました。すぐに準備します」
使者が去った後、セリアは自室に戻り、最も控えめで礼儀正しい装いを選んだ。派手な装飾のない青灰色のドレスは、彼女の謙虚さを表現するのにぴったりだった。
馬車で王宮へ向かう間、セリアは窓の外の風景を眺めながら思案していた。サルヴァトールの行動は彼女の家名にも影響を及ぼすだろう。農民たちの生活、干ばつと闘う領地、すべてが危機に瀕している。
王宮に到着すると、セリアは静かな応接間に案内された。そこには王太子エドガー殿下と王太子妃アレクサンドラ様が待っていた。
セリアは深々と礼をした。
「このような状況でお時間をいただき、申し訳ございません」
「頭を上げなさい、セリア夫人」
王太子妃アレクサンドラが言った。彼女は金色の髪と澄んだ青い目を持つ美しい女性だった。
「あなたが謝る必要はありません」
「座りなさい」
エドガー王太子が言った。王太子エドガーは背が高く、穏やかな顔立ちをしていた。彼の目は賢明さを湛えていた。
「私たちはあなたの夫の行動についてではなく、あなた自身と、あなたの領地について話し合いたいのです」
「私の……領地についてですか?」
アレクサンドラ王太子妃が優しく微笑んだ。
「あなたは覚えていないでしょうね。私はあなたのことをよく知っています、セリア」
「申し訳ありませんが、いつお会いしたことがあるのでしょうか?」
「正式には会ったことはありません」
「しかし、あなたの評判は広く知られています。特に、干ばつの中でもファルケンベルク領の農民たちの生活を守るためのあなたの取り組みは」
「私はただ、領主としての責任を果たしているだけです」
エドガー王太子が前に身を乗り出した。
「セリア夫人、あなたの夫は昨夜、酔った勢いでアレクサンドラに無礼を働きました。しかし、それは表面的な問題に過ぎません」
「はあ……」
「実は、あなたの夫サルヴァトール子爵について調査してきました。彼は結婚後、あなたの家の財産を使って多くの債務を作り出しました。さらに、あなたの領地の北部にある鉱山の権利を密かに売却しようとしていた形跡もあります」
セリアの顔から血の気が引いた。
「鉱山を……?」
「ええ。あの鉱山には、この国の水源に影響を与える重要な水脈があります。それを民間業者に売り渡せば、広範囲の水質汚染が起こる可能性があります」
「そんな……」
セリアはショックを隠せなかった。彼女は鉱山の存在は知っていたが、その水脈の重要性までは知らなかった。
「申し訳ありません。私は何も知りませんでした」
「いえ。謝る必要はありません。ですがあなたの夫は権限を超えて行動していました。彼の計画が実行されていれば、あなたの領地だけでなく、周辺地域にも甚大な被害をもたらしていたでしょう」
アレクサンドラが続けた。
「そして、それはあなたの夫が知らなかったことではありません。彼は利益のために喜んでそのリスクを受け入れていたのです」
セリアは深く息を吸い込んだ。今、彼女の頭の中では多くのことが繋がり始めていた。サルヴァトールが最近、北部の土地に異常な関心を示していたこと、彼が何度も彼女の署名を求めてきたこと……
「どうすればよいでしょうか?」
エドガー王太子は書類をセリアに渡した。
「これはあなたの夫との婚姻を無効とする勅令です。彼の犯した罪により、彼は貴族の称号を剥奪され、故郷に送還されます」
セリアは書類を見つめた。
アレクサンドラが、セリアに近づきそっと肩に手を添える。
「あなたの罪ではありません。むしろ、あなたのような有能な領主を守るためです。我々は灌漑技術の専門家をあなたの領地に派遣します。彼はノードランド出身で、水資源の問題に関する第一人者です」
「なぜそこまでして……」
「我々は国を治めるものとして、あなたのような誠実な領主を支援する義務があります。そして、私個人としては、あなたの祖父と旧知の仲でした。彼は素晴らしい人物でした」
そういってエドガーが微笑んだ。
セリアの目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます、殿下、妃殿下」
「ところで」と、アレクサンドラが明るい声で口を開いた。
「専門家のトーマスが明日あなたの領地に到着します。彼は少し変わった人ですが、才能は確かです。あなたと彼ならば、きっと最善の策を導き出せると信じています」
★
翌日、セリアは領地の玄関で、ノードランドから派遣された水資源の専門家を迎える準備をしていた。サルヴァトールとの婚姻が無効になったという事実は、彼女にとって予想外の解放感をもたらした。
「彼はもうすぐ到着するはずです、お嬢様」
「ありがとう、ジョージ」
執事のジョージに向けて、セリアは微笑む。
「お茶の準備はできているかしら?」
「はい、すべて整っております」
馬車の音が聞こえ、セリアは背筋を伸ばした。玄関に現れたのは、予想とは少し違う姿の男性だった。
彼は三十代半ばに見え、乱れた茶色の髪と知的な緑の瞳を持っていた。服装は高貴な身分の人間というよりも、実務家のようなシンプルなものだった。しかし、その姿勢と物腰には、確かな自信と威厳が感じられた。
「ファルケンベルク伯爵夫人でいらっしゃいますか? トーマス・ルンドベリと申します」
セリアは礼儀正しく会釈を返した。
「お待ちしておりました、ルンドベリ様。お茶をご用意していますが、いかがですか?」
「ありがとうございます。しかし、もしよろしければ、まず問題の場所を見せていただけませんか? 私は机上の理論よりも、実際の現場を見ることで多くを学びます」
「もちろんです。馬を準備させましょう」
彼らは領地の最も干ばつの影響を受けている南部へと向かった。道中、トーマスは領地の地理や歴史について質問し、セリアは詳しく説明した。
現場に到着すると、トーマスは馬から降り、乾いた土を手に取った。彼は周囲を注意深く観察し、時折メモを取りながら、セリアに質問を投げかけた。
「この地域は昔から干ばつの影響を?」
「いいえ。約十年前から状況が悪化し始めました。最初は一時的なものだと思っていましたが……」
トーマスは川床を調べ、丘の斜面を見上げた。「面白い」と彼は言った。
「これは単なる自然現象ではないと思います。人為的な要因があるかもしれません」
彼らは数時間かけて領地を回り、トーマスは多くの場所で調査を行った。夕暮れが近づく頃、彼らは館に戻った。
執務室でトーマスは彼の初期の結論を説明した。
「あなたの領地の水源が変化しています。上流で何か大規模な変化があったように見えます。森林伐採や土地の改変などが考えられます」
「解決策はあるでしょうか?」
「いくつかの可能性があります。まず、上流の状況を確認する必要があります。それから、水路の再設計と小規模なダムの建設が有効かもしれません」
彼は次の数日間、さらに詳しい調査を行い、計画を立てることを提案した。セリアは彼の専門知識と熱意に感銘を受けた。
「ルンドベリ様、あなたのお力添えに、心より感謝申し上げます」
トーマスは穏やかに微笑んだ。
「トーマスと呼んでください。そして、これは私の仕事であり、喜びでもあります」
その夜、セリアは久しぶりに希望を感じながら眠りについた。
それから数週間、トーマスとセリアは緊密に協力して灌漑計画を進めた。彼らは上流地域を調査し、トーマスの予想通り、隣接する領地で大規模な森林伐採が行われていることを発見した。
「これが水源の変化の原因です」トーマスは地図を指さしながら説明した。
「森林がなければ、雨水は土壌に吸収されず、一気に流れ出てしまいます。そのため、洪水と干ばつが交互に起こるのです」
セリアはこの問題を王太子に報告し、上流の領主に対して森林の再生と適切な土地管理を要求する勅令が発布された。
同時に、トーマスの指導のもと、セリアの領地では新しい灌漑システムの建設が始まった。彼の革新的な設計は、限られた水資源を最大限に活用するものだった。
作業が進むにつれ、セリアとトーマスの関係も深まっていった。彼らは夜遅くまで計画について話し合い、時には領地の将来や彼らの過去についても語り合った。
ある夕方、二人は館の庭で休息していた。星の灯る夕空を見上げつつ、トーマスが低く語りかけた。
「実は、私はあなたに会うのを楽しみにしていました、セリア」
セリアは驚いて彼を見た。
「それは、どういう意味ですか?」
「覚えていませんか? 私たちは子供の頃に一度会ったことがあります」
「まさか……」
「十五年ほど前、国境近くの湖で。私はノードランドの研究チームと一緒に水質調査をしていました。あなたは馬で通りかかり、私たちの装置に興味を示しました」
セリアの目が大きく開いた。
「あの湖……そして青い装置を持っていた少年……あなただったの?」
トーマスはうなずいた。
「私はあなたの知識欲と熱心さに感銘を受けました。その日から、時々あなたのことを思い出していました」
「なんて偶然……」
セリアは驚きと喜びが入り混じった表情をした。
「偶然ではないかもしれません。王太子妃アレクサンドラは私の従姉妹です。彼女があなたの状況を知ったとき、私に声をかけてくれました」
「そうだったのですか……」
「でも、私がこの仕事を引き受けたのは、あなたに再会したかったからです」
トーマスは彼女の目をまっすぐ見つめた。
「あの好奇心旺盛な少女が、今では立派な領主になっていることを確かめたかったのです」
セリアの頬が赤く染まった。
「私はまだまだ未熟です」
「いいえ。あなたは素晴らしい領主です。あなたの民への思いやり、問題に立ち向かう勇気、そして学ぶ意欲。私はそれらすべてに感銘を受けています」
星空の下、二人の間に静かな理解が生まれた瞬間だった。
秋が深まるころ、灌漑事業は大きな成果を上げていた。新しい水路システムにより、干ばつの影響は大幅に軽減され、農民たちからは感謝の声が届いていた。
セリアとトーマスの関係も、相互尊重から深い愛情へと変化していった。彼らは共に働き、共に学び、そして共に笑い合った。
ある日、王宮からの招待状が届いた。王太子夫妻が主催する秋の収穫祭に、セリアとトーマスを招待するというものだった。
「行きましょうか?」
「もちろん。私たちの成果を報告する良い機会です」
王宮の大広間は、秋の実りを祝う装飾で彩られていた。セリアは深緑色のドレスを着て、トーマスは洗練された紺色のスーツを着ていた。彼らが入場すると、多くの視線が彼らに注がれた。
エドガー王太子とアレクサンドラ王太子妃が彼らを温かく迎えた。
「セリア、トーマス、来てくれて嬉しいよ」
エドガーは笑顔で言った。
アレクサンドラが続ける。
「灌漑事業の成功、おめでとう。あなたたち二人の協力が素晴らしい成果を生み出したと聞いています」
セリアは感謝の意を表し、トーマスは彼らの取り組みについて簡潔に説明した。
夜が更けるにつれ、音楽が流れ、ダンスが始まった。トーマスはセリアに手を差し伸べた。
「踊っていただけますか、伯爵夫人?」
セリアは微笑み、彼の手を取った。
「喜んで、ルンドベリ様」
彼らがダンスフロアで優雅に動く姿は、多くの賞賛の視線を集めた。二人の動きは完璧に調和し、まるで長年一緒に踊ってきたかのようだった。
曲が終わるとトーマスはセリアをバルコニーへと導いた。星空が広がる下で、彼は彼女の手を取った。
「セリア、私は科学者として、証拠と論理に基づいて行動するよう訓練されてきました。しかし、あなたと過ごした日々は、私に感情の価値を教えてくれました」
セリアは彼の誠実な目を見つめていた。
トーマスは続ける。
「私はあなたを愛しています。あなたの強さ、あなたの優しさ、あなたの知性、すべてを。もし許していただけるなら、私はあなたの伴侶として、あなたと共に歩みたいと思います」
セリアの目に涙が浮かんだ。
「トーマス……私もあなたを愛しています。あなたは私に、再び信じる勇気をくれました」
彼らはそっと抱き合い、星々が祝福するように輝いていた。
バルコニーから見える遠くの地平線には、セリアの領地が広がっていた。かつて干ばつに苦しんだ土地は、今や新たな命で息づいていた。そして彼女自身も、かつてないほど生き生きとしていた。
星の巡り合わせが、彼女に新たな人生の幕開けをもたらしたのだった。
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