3 狐っ娘の雨
それからも何度か、九郎の頼みに応えて、シロは雨を降らせようとしてくれた。でも、必ずしも雨が降るわけではなく、失敗したこともあった。
「おら、まだ一人前じゃあないから。上手くいかないこともあるんだ」
そんな時、シロは九郎の腕のなかで申し訳なさそうに耳を垂らした。その様子が可愛くて、つい九郎がシロの頭を撫でると、白い狐の尾は嬉しそうに揺れた。
「一人前になれば、もっと上手に雨を降らせられる。でも、一人前になって大人になったら、おらは嫁にいかないといけないんだ」
それを聞いて、シロを抱いたままの九郎の胸がちくりと痛んだ。
シロはまたあれから少し成長した。狐の成長は人間より早い。もうそろそろ、シロも大人の狐になる頃だ。だからきっとそれはそんなに先の話ではないだろう。
「でもおら、嫁にいきたくない」
「どうして?」
「まだこうして山で遊んでいたい」
そう言って、シロは九郎の胸元に頬をすり寄せた。
「よ、嫁にいったって、また一緒に遊べるだろう?」
九郎の言葉に、シロはじっとその顔を見上げた。
「……そうじゃない」
しばらくの後そう言うと、シロはそのまま俯いて何も言わなくなってしまった。
* * *
その日、シロは珍しく自分から九郎の小屋を訪ねた。
このところ、雨もほどほどに降っているから田畑の心配もないはずだ。山の恵みが減ったわけでもない。川でも魚が跳ねているし、むしろ九郎が山に入らない理由はない。
なのに、ずっと九郎に会えていない。山の仲間に訊いても九郎の姿を見ていないという。何か理由があるんだろう。それを尋ねようと、ここまで山を下りてきた。
山の神には人里に行ってはいけないと言われている。ぎりぎり山を下りきらない場所にある九郎の小屋まで来るのも、おそらく本当はよくない。
でもそれ以上に、九郎のことが気になった。
九郎にあげようと採ってきた山の恵みを両手に抱えて、九郎の小屋の前に立つ。小屋の木戸に耳を当てて、中の様子を窺った。
物音はしない。でもハアハアと苦しそうな息が聞こえる。それが九郎のものだとシロにはすぐにわかった。
「クロ、いるのか?」
そう言って、そっと木戸を開ける。薄暗い小屋の中で、ゴホゴホと九郎の咳が響いた。
「どうした!?」
シロが駆け寄ると、布団の中で九郎は真っ赤な顔をして唸っていた。その頬に手を当てると、焼けるように熱い。
慌てて水甕に駆け寄り、桶に水を汲む。そこにあった手ぬぐいを水で濡らして九郎の元へ戻った。
熱くなった顔に、濡れた手ぬぐいを当ててやると、九郎はすこしだけ穏やかな顔になった。でもすぐに手ぬぐいは熱くなってしまう。
もう一度濡らして九郎の頬を冷やしてやるが、この程度では全然足りない。
どうしようどうしよう。戸惑うシロの前で、また九郎はゴホゴホと苦しそうに咳をした。
何度濡れた手ぬぐいで冷やしてやっても九郎の熱さは引かず、苦しそうな様子は変わらない。
「ヒトを呼ばないと」
シロは九郎の小屋から飛びだした。
人里に行ってはいけないと、山の神には言われている。
でも人間のクロを治せるのは人間だけだ。石に躓き、膝や肘に擦り傷を作り、着物を汚しながらも、シロは無我夢中で山を駆け下りた。
村に入ると、手近な家の木戸を叩いた。
「頼む! クロを助けてくれ!」
「誰だおめは?」
その家から出てきたのは、大人の男と女だった。強い誰何の声に、シロの体はびくりと跳ねた。
人間は怖い。シロの母親は人間に殺された。
反射的に体がぶるぶると震える。でもあのままにしていたら、もしかしたら九郎は死んでしまうかもしれない。ぐっと勇気を振り絞って、声を出した。
「お、おらは、あっちの方から来た」
そう言いながら、九郎の小屋のある方を指さしてみせる。
「た、頼む、クロが大変なんだ。助けてくれ」
「九郎か? 九郎がどうした?」
「体がうんと熱くて、苦しんでる。でもどうしていいかわからなくて……」
そう言うと、その男と女は困ったように顔を見合わせた。
「あの九郎に何かあったら、わしらが咎められる。わしは村長を呼んでくる。おめらは先に行って九郎の様子を見てきてくれ」
男は立ち上がると、女とシロにそう言った。
女と、男が連れてきた男がさらに二人、九郎の家にやってきた。
シロは小屋の隅で膝を抱いて、じっと人間たちが何かするのを見ていた。人間たちが何をしているかわからない。でも、きっとこれで九郎は大丈夫だろう。
「薬湯を飲ませてやったから、大丈夫だ。熱で苦しそうだったら、濡れ手ぬぐいで頭を冷ましてやるといい」
シロにそう伝えると、人間たちはクロの小屋から出ていった。
夜になりその次の朝に九郎が目を覚ますまで、シロはずっと九郎の顔を手ぬぐいで冷やし続けた。
* * *
都へ出掛けていたという、領主とその息子が村に帰ってきた。
領主はやけに機嫌が良かった。村人の噂によると、何やら良い手土産を持っていき、それが都の偉い人にたいそう喜ばれたそうだ。
上機嫌な領主は帰郷の祝いにと振舞いをひらいた。村人たちはその相伴にあずかろうと、領主の家の門前にずらりと列を作った。
九郎も村人たちと同じように、振舞いを貰いにいこうとするのを、シロはその裾を掴んで止めた。
理由を聞いても答えない。ただ、俯きながらふるふると首を横に振るだけだった。そのうちに、しとしとと山に細かい雨が降り始めた。
領主の振舞いであれば、普段口にすることも出来ないような料理が並ぶ。もしかしたら、都から持ち帰った珍しい食べ物や菓子などもあるかもしれない。シロに持ち帰ってやったら、きっと目を輝かせて喜ぶに違いない。九郎はそんな風に思っていた。
でも、今のシロを見たらそんな気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。九郎は山を下りるのを諦めて、シロを自分の小屋に連れ帰った。
寂しそうな顔をしているシロに、九郎が干し魚を焼いてやると、シロはようやく少し安心したような表情になった。でも、その耳と尾はずっと垂れたままで、九郎はそれが気がかりだった。
そして、その晩、ずっと山の雨は降り止まなかった。
翌朝になると、狐の少女はいなくなっていた。そして夜の間降り続いていた雨は、嘘のようにあがっていた。
それからずっと晴れの日が続いた。続くだけでなく、いっさい雨が降らなくなった。
田畑を持つ村人たちにとって、雨は天の恵みだ。
その恵みが無ければ、作物は育たない。作物が育たなければ、年貢は払えないし、村人たちの食べるものもなくなってしまう。
九郎は山に入ってシロの名を呼んだ。いつもなら九郎が山に入れば、呼ばなくてもシロは出てきたのに。いつもきのこを採る林に行っても、いつも釣りをしている川べりにも、シロはいなかった。
ようやく、山神の社の裏でシロを見つけると、九郎はシロに頭を下げた。
「頼むシロ、また雨を降らせてくれないか?」
その言葉にシロは悲しそうな顔をしてふるふると首を横に振った。
「ダメなんだ。今はおらの力を使っちゃいけないって」
「なんでだ?」
シロは一度九郎の顔を見上げると、つらそうな目をしてそのまま俯いた。そうして、しばらくしてようやく口を開いた。
「あるじさまが、怒っているんだ」
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