1 ひとりぼっちの少年と仔狐
元々体の強くなかった母は、先の冬の寒さで風邪を引き、そのまま肺を患って呆気なく死んだ。
物心ついた頃からもう父親もなく、九郎は一人ぼっちになった。
一人ぼっちだと言っても、もう童ではない。もうすぐ十五になる。一人で暮らせぬ歳でもなければ、働けぬ歳でもない。
幸いにも、九郎の住む小屋が建つ山の実りは豊かだ。村人に言えば田畑の手伝いもさせてもらえる。釣りも得意だし川で魚を釣ることもできた。
その日も、九郎は釣竿を持って山に入った。いつもの様に川べりに腰を下ろし、釣り糸を垂らして数尾釣り上げた頃、九郎の肩にぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
さっきまでは雨が降るような空ではなかったのに。空を見上げるとまだ明るい。
通り雨だろう、きっとすぐに止む。垂らした糸を上げようかと少し迷ったが、そのままでいることにした。
ふと、誰かが泣いている気がして辺りを見回した。
釣竿を置いてその気配のする方へ進んでいく。川べりから木立に入っていった先の、茂みを抜けると、踏み出した足を付く地面がなかった。
「おっと」
すんでのところで立ち木に掴まり、体勢を整える。地面が大きく抉れていて、そこそこ深い穴になっていた。しかも穴の底の土が雨水を含んで泥水になっている。
自然に出来たものか、それとも山の獣があけた穴なのか。もし自分が落ちてもどうにか登れるだろう程度の深さだが、この雨でぬかるんでしまって登るのには骨が折れるだろう。
と、穴の底で何かが動いた。泥水の中、土くれに見えていたものは、どうやら生き物らしい。兎かなにかだろうか。
そういえばここしばらく、食べた肉は川魚ばかりで獣の肉を食べていない。あれを捕らえて家に持ち帰ろう。
腰に括り付けてあった縄を、近くの木に結びつけ、三度引いて確認する。草履を脱ぐと、縄に掴まりながらずずずと穴の底へと降りた。
穴の底に素足を付けると、足の指の間にぬるりと泥が入ってきた。
「うげぇ」
つい声が出た。それが聞こえたのか、その前から気付いていたのか、また土くれがぴくりと動いた。
やっぱりまだ生きているようだ。その獣を泥の中から拾い上げた。
そいつは丁度、両の手で抱えるくらいの大きさだった。大きさからして兎だろうと思ったが、どうやら違うようだ。兎の様に耳は長くないし、兎よりも尾がずっと長い。
と言っても、今はその耳も尾も泥にまみれてぺたりとしてしまっている。
このままじゃあ何の獣かもわからない。九郎はその獣を懐に仕舞い込むと、縄を伝って穴をよじ登った。
釣りをしていた川べりに戻り、泥に汚れた自分の身と一緒に獣の体を洗う。泥がとれると、その下から白い毛皮が現れ、ようやくその獣の正体が知れた。
「こいつは、狐か」
白狐、しかもまだ幼獣だ。本当ならまだ親と一緒にいるような年頃だろう。
穴に落ちて親に見捨てられたのか、それとも一人で遊んでいて穴に落ちてしまったのかもしれない。
いずれにしても、もしや自分と似た身の上ではないか。そう思うと、この仔狐がなんだか可哀そうに思えてしまった。
まだ濡れている仔狐の体を、手ぬぐいでできるだけ拭ってやる。少しでも温かくしてやろうと、両の腕に抱きその体を擦ってやる。
もうすぐ日も暮れてしまう。辺りが暗くなる前に家に帰って、火を起こして温めてやろうと、九郎は山道を家に向かって歩き始めた。
* * *
この山の奥には山神様の社がある。九郎の小屋は、その社から麓の村に向かう途中の山道の端にあった。
小屋に帰ると、九郎は先ず囲炉裏に火をくべた。
渇いた手ぬぐいで仔狐をくるみ直して、自分の濡れた服を着替えると、火の前にどっかと腰を下ろした。
仔狐を手ぬぐいで擦っていると、ようやく冷えていた仔狐の体も温まってきた。
まだ息はしているようだ。でも目を開く様子はない。
このまま死んでしまったら、そん時はおれが食ってやろう。でもせっかくここまでしたのに、そうなってしまうのはちと寂しい。
そんな事を考えながら仔狐の体を擦っているうちに、九郎はいつの間にか眠ってしまった。
* * *
ぶるりと体を震わせて九郎は目を覚ました。
すっかり朝になっていて、囲炉裏の火はとうに消えていた。そういえば、両の手で抱えていた仔狐の姿がない。ここに居ないのなら、死んだわけでない。きっと先に目を覚まして逃げてしまったのだろう。
そう思った時、カタリと音がした。
音のする方を見ると、土間の隅に置いてある籠の後ろから、小さな白い狐が顔を覗かせている。様子を窺うかのように、九郎の方をじっと見ていた。
「元気になったようだな」
畜生相手に人の言葉が通じるなどと、思ったわけではない。でもあまりにも純粋な瞳でこちらを見ているものだから、ついそんな風に話しかけた。
「腹が減ってるんじゃないのか?」
そう言えば、昨日釣った魚がある。そのうちに食いでのない小さいヤツがいることを思い出した。
そんな小さな魚でも、貧しい身にとっては貴重な食料だ。でもなんとなく、本当になんとなく、それをこの仔狐にわけてやりたくなった。
九郎が投げた小魚を、仔狐はしばらく警戒して見ていた。
ようやくそろりと籠の後ろから体を伸ばすと、口先でぱくりと小魚を咥え、また急いで籠の後ろに逃げ込んだ。
別にそんなに怖がらなくてもいいのに。
だが、あんなに幼い狐ではしかたないだろう。親ともはぐれ、ひとりぼっちの仔狐が、見知らぬ人間の家で心細くないわけがない。
「なあ、もしかしたらおまえも親がいないのか?」
その言葉に、仔狐はちらりと九郎の方を確かに見た。
でも、すぐに外方を向くと素知らぬ振りではくはくと小魚に齧り付いた。結局、仔狐は二尾の小魚を九郎から貰って平らげた。
「腹が膨れたら、山に帰るといい」
九郎が木戸を開けてやると、仔狐は少し迷った様子で籠の裏から出てきた。
そして一度九郎の方を見上げると木戸から飛びだし、白い尾を振りながらそのまま山の中に消えていった。
お読みくださりありがとうございます。
一万文字ちょっとの短い物語ですが、お付き合いよろしくお願いいたします(*^-^*)