ー18ー
愛を知るのに指輪はいらない
《ミカがしゃべってしまいました。そうなるんじゃないか、と心配でしたが、幼いミカに秘密を守らせるのは、やはり酷でした。もう三人で会うのは控えたほうがよさそうです。ごめんなさい。それでも、なにがあっても、わたしはずっと、あなたの母親であることに変わりはありません。どうか、あなたの家族を持たれて、いままでよりもずっと、ずっと幸せな人生を歩んでください》
「母親らしいこと……、なにもできなくて、ごめんなさい……」
意図して読もうとしたわけではないが、おれの口から勝手に最後の文が流れた。
「人間って勝手だな、ってのが、それを読んだ当時のおれの感想だ」ヤクモはコーヒーをひと口。
「……おれには、あんたの強さを信じていたように見える。この手紙から、そんな気持ちが伝わってくる」
「まぁ、一緒に暮らすことを拒否したのはおれ自身だ。あんな血のつながってない男と暮らすくらいなら、自分の力で生きていくとおれは言った。その結果、ミカにも、母さんにも会えなくなった。自業をもって、自得だよ」
だけど——、とヤクモは深い息をついた。
「いちばんかわいそうなのは、ミカだ。ほんとうに、彼女にはわるいことをしたと思う」
「だが、あんたの責任じゃない」
「兄貴がいると信じて、実際に遊んでいたのに。急に死んじゃったからもう会えないんだと言われる。——子供には重すぎる現実だ。それなら最初から兄貴なんて存在を知らなければよかったくらい。ミカ——おれと会うときはほんとうに楽しそうだった。でも別れるときは、その何倍もつらそうだった。こっちの心が潰れそうなくらいに」
どこからか鐘の音がひびいた。おそらく正午を伝える音だろう。中庭にいた何人もが、その音を聞いて院内にもどっていく。急に人の数が減った。
「これから、一緒にいてやれないのか?」おれは言った。
ヤクモの躰がぴたりと止まったのがわかった。
「……まさか」
「ミカはひとりだ」
「おまえがいるだろ」
「いや……。おれは、ずっとここにはいられない。仕事がある」
「ネシティ?」
「ああ。おれは、いつ死ぬかわかったもんじゃない。けど、あんたはアトラに仕事を持っているんだろう?」
おれの言葉がその胸に入っているのか定かではないが、ヤクモはじっと一点を見て、考えはじめた。顔は険しく、耳が赤くなっていく。
「ミカが、なんていうか」ヤクモは自信なさげに言った。
「……きっと、よろこんでくれるはずだ。兄貴に会いたくて、しかたなかったんだ。おれの顔を見たとたん、あんたのことを思い出したくらいに」
もしかしたら、ミカの好意はおれではなくて、最初から兄貴に向かっていたのかもしれない。そんなことも気づかず……、どこかのぼせていた自分がいた。——これだから恋だの結婚だの、おれにはまったく向いていない。
最悪だ。
なにを勘違いしていたんだ。
ミカは、兄貴の亡霊をおれに重ねていただけだ。
自分を殴ってやりたい。
自惚れやがって。
ばかやろうが。
——それからしばらく言葉を選べないまま、この場での時間はぼんやりと流れた。ヤクモから話してくる様子もなかった。
すると看護婦がひとり、申し訳なさそうな腰の低さで近づいてきた。
「あの……。ミカ、さんのお連れさまで?」
「あ、はい」ヤクモは姿勢を正した。社会人らしい反応。
「ミカさんが目を覚まされまして、それをお伝えに……」
「わかりました、すぐに行きます」
足早に院内へともどろうとする最中、ヤクモはこちらに質問を投げてきた。
「おまえ、名前は?」
「セト」
「苗字か?」
「いや、おれの名前はこれだけだ。苗字なのか、名前なのかわからない」
「そ、そうか……。すまん」
「なんで謝る?」
「いや……、踏み入ってはいけない事情がありそうだったからさ」
「別に、大したことじゃない」おれは中庭から院内へつづく両開きのドアに手をかけて、「母親に捨てられて、紙喰いに殺されそうになった。それだけのことだ」
腕に点滴の針を刺したミカのまわりに、ひとりの医師と、三人の看護師がいた。こちらが部屋に入ると、看護婦たちはそれぞれの手に金属トレイなど持って、すぐに部屋から出ていった。残った医師はこちらを見て会釈をする。
「あとは大丈夫ですんで」医師が言った。白髪の短髪に、油っぽいメガネ。体格はおれの三倍くらいある。「心労、過労、そんなとこです。歩けるようになったら帰ることもできますが、ご自宅は近くです?」
「いえ、彼女は旅行客なので」
ヤクモが返事をした。おれと話すときと、口調がまったくちがっていた。普段から仕事相手に対して、丁寧な他所行きの口調を使っているのだとわかる。顧客にすら、ため口を使うおれとは大ちがいだ。
「あー、それなら、お宿にもどってもらっても大丈夫ですよぉ」医師は軽いあくびをついた。「——といいますかぁ、一泊すると一泊のお値段になってしまいますんでぇ、そのほうがよろしいかと」
「わかりました。ひとまず彼女の気分を聞いてから、いまいちど判断させてください」ヤクモが言う。
「あ、はい。それならまた、近くの看護師を捕まえてください。それじゃ、わたしはこれで——」
部屋から出ていく眠そうな医師に対し、ヤクモは礼儀正しくおじぎをした。彼のそれを超えられるおじぎをできる自信がなかったおれは、すぐにミカのそばに行った。ベッドのとなりに立つと、ミカはうつろな目をこちらに向けた。
「……ごめんね」いまから天国に行くのかってくらい、弱々しい声だ。
「気にするな」
「大丈夫か?」ヤクモもベッドに寄る。
「うん。ごめんなさい」
すると、ヤクモはくすりと笑った。
「覚えているか? ミカ。子供のときも、アトラで倒れたんだぞ」
「え……」ミカは天井に視線をやった。「そう、だっけ」
「夏に遊びに来たもんだから、熱中症になってさ。水分を摂るの、忘れるくらい夢中になって遊園地ではしゃいで。観覧車に乗ってしばらくしたら、気分がわるいって言いだして。景色はすごくいいのに、ミカは椅子に倒れていた。母さん、すごくあわててた」
「そう……、だっけ。覚えてないや」
「物心がついてすぐだったから、無理もない」
それくらい兄貴と遊ぶ時間が楽しかったんだろう……? と喉まで言いかけたが、おれは沈黙を選んだ。
「なぁ、ミカ」ヤクモは近くにあった丸椅子に座った。じっと、妹の顔を見つめる。「これから、一緒に暮らすってのは、どうだ?」
「一緒……」ミカはうつろな返事をした。「……いいのかな」
「なにか問題でもあるのか?」
おれの口調はなぜか、わずかな苛立ちをふくんでいて自分でもおどろいた。ふたりに気づかれないように、そっと深呼吸をする。
「……パン屋は?」ミカが言った。
「カンドゥの家なら、売るなりすればいい。大丈夫。おれが手続きをする」ヤクモが言った。
「じゃ、わたしはこれからどこに住むの……?」ミカは顔だけを動かして、ヤクモを見た。
「……もし、おれと住むのがいやならアパートを借りてもいい。家賃くらい、おれが払える」
「そんな、わるいよ……」ミカの視線が天井にもどった。
「それとも……」ヤクモはこっちを見た。「セトと暮らしたほうがいいか?」
顔色をうかがいながら、慎重に放たれたその言葉。どっちの顔色をうかがったのだろう、と思った。やはり、ミカの反応を気にしているだけだろう。他人であるおれのことを気にするわけもない。
ミカはすぐに答えず、何度か深い呼吸をした。
「……おれは、住む家がないようなものだ。ずっと、ぶらぶらと歩いている。だから、だれかと暮らすことはできない」
それだけを言って、おれは病室から出ようとする。
「おい……!」ヤクモは立ち上がって、呼び止めた。「どこ行くんだよ」
「宿にもどる。ミカは、きょうここに泊まったほうがいい。金なら、おれが払っておく」
「あのなぁ……」ヤクモはずかずかとこちらに寄ってくる。「なにをそんな、他人行儀になってんだよ。落ち着けって」
「せっかく会えたんだ!」
声がでかくなってしまった。
「じゃま……、したくない。それだけだ」
おれは病室から出た。廊下にいた看護師が、どうかされましたか? とすこし怯えた声で話しかけてきたが、それは無視した。
受付に行って、病室の番号を言う。そこにいるミカはきょう、一泊することも伝えた。それならば、と受付は金額を提示してきた。言われた額を払って、おれは病院から逃げるように出た。
宿にもどって、部屋の鍵を開ける。まだ陽が高い。自分はなにをこんなにあせって、まして逃げるようにここへもどったのだろう。まだ部屋にあるミカの荷物を見るや、自己嫌悪がさらに加速した。
ため息をついて、ベッドに倒れこんだ。うつぶせだったから、呼吸は布団にふさがれて、すぐに苦しくなる。
躰を転がして、あおむけになる。
無表情な白い天井が見える。
片手を開いて、まっすぐ伸ばした。
「兄妹……、父親……。友達……、母親……」
ひとりごとを並べながら、指を一本ずつ折っていく。
すぐにばからしくなった。
ひとりで、なにをやってんだろうって。
片手の力を抜いてベッドに落とす。
いろいろあって、疲れた。
ミカには立派な兄貴がついているから、心配はない。
明日には、ここを発とう。
ミカとの約束は果たせなかったけど。
それはおれのせいじゃない。
彼女の母親はもう、息子の顔を見ていた。
本物の息子の顔を。
最初から、おれの役目はミカを守ることだけだった。彼女が歩いてアトラに行きたいという、そのねがいを叶えることだけだった。
役目は果たした。
だから、おれはもう、用なしだ。
「——ト?」声がする。
「——ねぇ、開けて」籠った女の声が聞こえる。
おれは目を開けた。
真っ暗でなにも見えない。
いつの間にか寝ていたらしい。
あわてて躰を起こす。
ここが宿だったと思い出した。
「——おーい。生きてる?」ミカの声だ。ドア越しに聞こえる。
おれはすぐに立って、明かりをつけた。ボサボサの汚い頭はそのままに、ドアに向かって急いだ。ロックを外し、ノブに手をかける。ドアが開くと、目の前に頬をふくらませたミカが立っていた。
「……どういうつもり?」
かなり怒っている。しかし顔色はもどっていて、そこは安心した。
「どういうって……。別に」
おれの反応はひどいものだ。
「なんで置いていったの。わたし、入院するなんてひとことも言ってない」
「……ヤクモがいるから、いいかと」
「なんにもよくない。お金、もどしてもらったから」
ミカは、あからさまなため息をついて、片手に持っている巾着をおれにおしつけてきた。じゃら、と金の音がした。
「通路で話すの、やなんだけど。入れてくれない? まだ、なかに荷物あるし」
「わかった……」
まずは部屋のなかにもどる。ミカはあたかも怒っています、と態度に表しながら、つづいて入室する。ふたつあるベッドのうち、窓際のそれへとミカはづかづかと重たい足どりで進んだ。どすん、とマットレスに腰を落として、腕組みまでしたところ見るに、怒りはしばらく収まりそうにない。
「……元気になったのか?」おれは巾着をバッグのなかにしまった。
「おかげさまで。すっかり元気です」
「……よかった」
「なに、考えてるの?」
「なにって……。とくに……」
「なにも考えてないよね、わたしのことなんて」
ここ数日、むしろミカのことばかり考えているのに。どうしたものか。
「……いい」ミカは不機嫌な顔を横に流した。「もういい。でも、いまはだめ」
「だめ……?」
「お兄ちゃんと会えたのは、うれしい。お母さんが死んじゃってたことは、悲しい。でも……、いまはセトと旅しているの。まだ旅の途中だよ」
「……目的は果たせただろ? アトラには着いた。おれの役目は護衛だ」
顔を見せるはずだった相手は、もういない。
それどころか本物の顔が先にいた。
「……ずっと、そうやって、生きてくの?」ミカは声のトーンを落とした。「セトって、型にはまった氷みたいなところ、あるよね」
「なんだそれ」
「自覚しろ! ばか!」今度は枕を投げてきた。腕で受けたそれは、ぼす、とやる気のない音とともに床へと落ちた。
「お、おい」
「わたし、いま、わかんないんだよ……」ミカは顔を両手で覆った。うずくまってしまう。「混乱しているの。死んだと思ってたお兄ちゃんが生きてた。生きていると思っていたお母さんが、死んでた。はい、じゃぁ、あしたから、お兄ちゃんと暮らしましょうね——なんて、急に心を切り替えられるはずないでしょ……」
涙をすする音が聞こえるのは、自然なことだった。
だが、ここに至っても、おれはどうしたらいいのかわからない。
「いまは、セトなんだよ。わたしの心のいちばん近くにいるの、セトなんだよ」
だとしても。だからといって。
おれはどうすればいい。
血のつながりもない。
ただの他人。
なにができる?
「近くにきて。抱きしめて。それくらい、してよ」
「そんなことしたって……」
「なにも解決しないよ!」ミカは怒鳴った。そして震える声でつづける。「それでも、一瞬のごまかしでもなんでもいいから、安心できる人の、安心できる温かさがほしいとき、あるんだよ……」
嗚咽をひっかけながら、ミカはぼろぼろと涙を流しはじめる。
「あしたには決めるから。ちゃんと決めるから……。いまは、おねがい。そばにいて……」
「おれで、いいのか?」
「セトがいいの。言わせないで」
おれは——ほんとうに、ばかだ。
ばかで、冷たくて。
正直じゃなくて。
素直がなにかもわからない。
ひとりになるのがこわいんだ。
愛や、優しさに拒絶される瞬間をおそれている。
そんな感情など、自分のなかに存在しないくらいに思って。
最初からひとりでいれば、孤独が普通になる。
突き放される痛みも、
拒絶される苦しみもない。
だけど——
その状況を好き好んで選んできた自分自身がいま、
大きな壁として、立ち塞がっている。
これから、なにができるのかわからない。
ミカがどんな道を選ぶのか、わからない。
それでもいま、必要なものがある。
だからおれは——
彼女の近くに座って。
震える肩を抱き寄せて。
何度も流れ落ちる涙の熱を腕に感じながら。
息が乱れた彼女の唇に、
生きていてほしいと伝えた。
たとえ、花火のように一瞬で消える温もりだとしても。その一瞬の温もりが、消えそうな命をつなぐこともあるはずだ。そんなことを考えられるのは、ミカがそれを教えてくれたから。
何度も何度も、言葉を運んできた。
封筒に包まれた想いを運んできた。
しかし、この世には——
言葉がなくても伝わる想いがある。
そんなあたりまえで単純なことを、
おれはこの旅で知った。




