ー17ー
愛を知るのに指輪はいらない
この病室が個室でよかった。ひどく重たい、そしてふたりの人生を大きく動かすであろう話し合いをするのに、他人の目や耳を気にしなくて済む。
男は室内に入って、スライドのドアを閉めた。廊下からの音が遮断されて、空気が変わった。そのまま彼は、おれたちふたりの横を通り過ぎてガラス窓のほうに歩いた。
「……ミカ、だろ?」男は窓の外を見ながら言った。「最後に会ったの、ずいぶん前だよな」
「……わたしが子供のころだよ」床に座るミカが言った。「死んだって、お母さんは言ってた。どうして生きているの」
すぐには答えず、彼は窓を開けた。冷えた風が室内に踊りこんでくる。肌寒さよりも、頭が冷える感覚のほうが勝った。全員、いったん脳を冷やしたいと思ったはず。
「死んでいたほうがよかったか?」彼が言った。
「そんなわけないよ……。会いたかった」
「そうか……」
霧のなかでキャッチボールするような会話だ。
「なぁ……」おれは割って入ろうとする。「ちゃんと説明するべきなんじゃないか? ミカはあんたを死んだと思っていた。でもあんたは生きている。それに、あんたと、お母さんの関係も訊きたい」
「関係……」彼はこちらを向いて、壁に背を預けた。「親子だよ。それだけだ」
そうだけど、そうじゃなくて……。
どう質問したらいいのか、もどかしい。
「血がつながっていないのか?」
「つながっている。ミカと母親だけはおなじだ」
「母親だけ……」
ここにきて、死んだミカの親父さんが言っていた言葉が蘇った。まるで跳弾が当たるように、なに気なく流したはずの言葉は脳にぶつかった。
「《《おれに息子はいない》》……」
「ああ」彼は、それがどうしたという顔をする。「いわゆる種ちがい、ってやつだよ。ミカの父親と、おれの父親はちがう」
急にミカのことが心配になった。ただでさえ心に負担がかかっているのに、次から次に衝撃のある事実を突きつけられては——。
「——あんた、名前は?」どうにか会話の流れを変えようとして、これしか思いつかなかった。
「アシガキ・ヤクモ」彼はそっけなく答える。
「お兄ちゃんの名前だ……」ミカは魂の抜けた声を出した。
するとヤクモはベッドのそばに寄った。指を花瓶に伸ばす。花びらに触れながら、大きく息を吸った。
「おれのこと、話しておくよ。さっきも言ったとおり、ミカとおれは父親がちがう。母さんが十代のときに、おれは生まれた。だから年齢も差がある。ミカの父親がどう言っていたかは知らないけど。おれの父親と母さんは結婚していない」
未婚のうちに生まれた子供、ということか。
「もちろん、ミカとおなじ屋根に住む可能性があった。母さんと、そっちの父親が結婚するってとき、その話があった。でも当時一六歳だったおれには仕事があった。だからひとりで生きていく道を選んだ。——しかしさすがに純政府の目はごまかせない。母さんが入院したとき、おれにも通知がきた。あなたの実母が、入院しましたと」
さすが、やつらの管理力はしつこい。
「まさか、おれがだれかもわからないほど、脳がやられているとは思わなかったけどね」ヤクモは冗談を言ってやった、という顔で鼻の笑いを吐いた。
「あんたが死んだっていうのは?」おれは言った。
「ミカを苦しませないために、そっちの両親がついたうそだよ」
ただ、絶縁状態になっていただけ——。それをミカは死んだものと信じたまま、これまで生きてきた。
「実際、おれなんかがそっちの父親と暮らしたってケンカばかりしただろう。会ったときから、あいつとは合わないな、と感じていたし」
で——、とヤクモは言葉にひと呼吸をはさんだ。
「元気でいるの? そっちの親父さん」
最悪だ、とおれは直感で思った。
「死んだよ。つい最近」ミカは幽霊みたいな声で言った。
さすがにヤクモもまずいと思ったのか、顔をこわばらせた。
「……わるい。その……。わるかった」
「いいの、もう済んだことだから」
そう言って、ミカは急に立ち上がった。
「おい、どうした」おれは彼女の顔を見上げる。
「ううん。ちょっとお手洗いに行く」
「途中までついていく」おれは言った。
「大丈夫……。すぐもどるから……」
ドアに向かって歩き出した彼女の歩調はひどくぐらついていた。
案の定——
「おい!」ふらり、と姿勢を崩してからミカは気を失ったように、うしろに倒れこんだ。おれはすぐに背中を受け止める。全身の重みがまるごと腕にのしかかってきた。ヤクモもあわてて近づいてきて、ミカの顔色を一瞥する。そしてすぐに廊下に走って、看護師をひとり捕まえてきてくれた。
医者によると、ミカは重度の心身疲労で倒れたらしい。徒歩による長旅と、着いた先で重なった心の負担を考えれば当然のことだと思った。
おれとヤクモは、病院の中庭にあるベンチに座った。ふたり分ほどの空きスペースが、おれたちのあいだにある。
「コーヒー。売店で買ってきた。飲むか?」ヤクモは蓋つきの紙コップを両手に持っている。その片方が、おれに差し出された。
ここはさすがに断る場面ではないかも、と思っておれは受け取った。
「いただく……」
「おう」さっそく、ヤクモはひと口を飲んだ。
「熱くないのか?」
「平気なんだよ。猫舌の反対、みたいなやつ」
「そう、か……」
会話はそこで途切れた。目の前を車椅子に乗った老人が通り過ぎていく——もちろん、車椅子は白衣の看護婦に押されている。お外の空気はどうですかなどの優しい言葉をかけられて、あぁ、あぁ、と痩せた老人は精一杯の返事を返している。
「おまえ、似てるな。おれと」ヤクモが言った。
「……らしいな」
「一〇年前の自分を見てるみたいだ。肌が若い」
「いまのあんただって、若いだろ」
「まぁ、それなりには。タバコやらないし」
また、ヤクモはコーヒーをひと口。
「ミカの彼氏?」
「ちがう」
おれが答えると、ヤクモはくすりと笑った。
「うそつくな」
「……うそじゃない」
「空気感でわかるんだよ。年上をなめんな」
「……ちゃんと、そういう約束をしたわけじゃない」
「だとすると、ひどいやつだな、おまえ」
「どの口がいう……」
「……そうだな。それも、そうだな」
ヤクモは苦い息を吐いてから、ベンチに背中を預けた。首を反らして、空をぼやりと見はじめる。
「ミカ、幸せなんだろうって思ってた。母さんがアトラで入院することになって。その通知が純政府からきて。まっさきに思った。あいつは大丈夫かな、って」
「一緒に暮らしたことはないのか?」
「ああ。ないよ。何度か会って遊んだくらいだ。それも、ミカが子供のころ。彼女のなかでおれの存在が、どこか誇張されて記憶されていても不思議じゃない」
たしかに、ヤクモのことを話すときのミカは、まるで遊園地にいる子供みたいに目を輝かせていた。
「むこうの父親と、おれの母さんがミカを授かって。結婚するって流れになって。それならおれは、ひとりで生きていくって決めた。でも、母さんはおれのことを気にかけていた」
語尾を静かに、流すように言ってから、ヤクモはコーヒーをひと口。
「それに、やっぱりミカには会ってほしかったみたいでさ。連絡はよくもらった。しぶしぶって感じではあったけど、ミカに物心がついたのを見計らって、何度か外で会った。——それだけだ」
それから、なにがどうしてヤクモが死んだという話になるのだろう。
「その話だけを聞いてると、さすがに……、死んだって流れになるのはおかしいんじゃないか?」
「むこうの父親に、ばれたんだよ」
「内緒で会ってたのか」
「ああ。会うときはかならず母さんとミカ、おれの三人。遊ぶ場所はアトラだったから、すぐにはばれなかった。でも、ミカはやはり子供だ。いくら内緒だよといわれても、お兄ちゃんと会ったんだよ、と言わずにはいられなかった」
なんとなくだが、ミカの親父さんの印象がおれのなかで変わってきた。
「ある日、母さんから手紙が届いた」
そう言ってヤクモはシャツのポケットから手紙を一枚取り出した。何回も折りたたまれて小さくなったその紙はぼろぼろで、黄ばんでいて、いまにもちぎれてしまいそうだった。
彼はこちらを見ずに、手紙を持った手をこちらに伸ばしてきた。
「いいのか?」
「ああ。読んでみろ。ずっとクローゼットの奥で眠っていて、きょう思いついたように持ち出したから。カビのにおいは容赦してくれ」
折り畳まれた紙を開いていくたび、どこか、見てはいけない他人の脳を開いていくような感覚がした。




