ー16ー
愛を知るのに指輪はいらない
「……すいませんでした」おれは別の場所に行こうとした。
「いいのよ。休んでいたのに、ごめんね」ご婦人は言った。「……あなた、ネシティ?」
「そうですけど、なにか?」
「え、いや……。ううん、なんでもないわ。気にしないで」
なんだよ、と思ったが、気にするなと言われれば気にしない。
受付に目をやって、ミカの様子を確認したが、もうすこしかかりそうな雰囲気があった。おれは息が詰まりそうだったから、ほんのすこしでも外の空気が吸いたくなった。
ガラスばりの玄関を開けて、外に行く。
人は多いが、外の空気はまだ吸える。
ミカを不安にさせたくないから、すぐにもどらないといけないが、ほんのすこしでも肺の空気を入れ替えておきたい。
玄関を出入りする者たちの邪魔になってはまずい。とりあえず、植木のそばにあるベンチに向かった。
何人もが病院に入っていく。
パジャマ姿の人間が、ときおり病院から外に出てくる。
ふと、病気の数ってどれくらいなのか、と考えた。
きっと数えきれないほどなのだろう。
人間の躰は、とても不安定だ。
しかし片足を失ってでも生きていける強さもまた、あるのだろう。
「もどらないと……」
体感では三分も外にいたか、というところだが、あまり長居はできない。玄関に向かおうとするとき、前を過ぎていった数人のなかにひとりだけ、おれに似た顔のやつがいた。そいつは固い表情で、病院のなかに入っていった。
これだけの人数が集まっていれば、似ているやつがいても不思議ではないな、と思った。
水中にでも潜るのかと自ら笑いたくなるほどの深呼吸を溜めて、ふたたび人間だらけの室内にもどった。
ちょうど、ミカが受付を終えてこちらに歩いてきたところだった。しかしその顔は、ただ受付を済ませたにしてはひどく青ざめていた。
「大丈夫か?」おれは近寄って言った。周りはさらに騒がしくなっている。耳元で話さないといけないのか、とすら思えてくる。「どうだった?」
ミカは一点を見つめている。正面にいるおれの躰の、胸とも腹ともつかない場所をぼんやりと見ている。うつろな目に、うつろな口が、静かに動く。
「おかあさん。死んでる——って」
そのひとことは、ふざけきった喧騒のなかでただ一本の槍が耳に突き立てられたように、はっきりと聴こえた。
病室は504だった。階段をのぼって、二度ほど九〇度の曲がり角を過ぎて、しばらく直進する。非常口と書かれた緑のランプのある突き当たり。その右側が該当の部屋だった。
てっきり四人部屋かなにかだと思っていた。しかし、そこは個室だった。ノックをする必要もなく、おれたちは部屋に入った。
一輪の花を活けた細身の花瓶がベッドの頭に置いてあるだけで、あとは空だった。シーツも、枕のカバーも真っ白。カーテンレールのカーテンも外されている。
「……なんで、教えてもらえなかったんだろう」ミカが真っ白なベッドを見ていった。部屋には二、三歩踏み入っただけで、そこから動かない。
母親が亡くなったのは、一週間ほど前のことらしい。まるで、すれちがうようにいなくなったと感じてしまう。
「……病院は、ネシティに郵送を頼んだりしない。純政府の郵送を使う。だから、おかあさんが亡くなってから、カンドゥに手紙が届くまで、最低でも一ヶ月はかかる」
その一ヶ月よりも先に、おれたちはここにきてしまった。
「こんなの、ないよ……。ひどいよ……」ミカはその場に崩れた。両膝を折って、片手の拳が握られる。「死んじゃいそうなら、死んじゃいそうだって、手紙で教えてよ。死んじゃうなら、何日に死んじゃうって、手紙で教えてよ。死んじゃってから手紙を送ったんじゃ意味ないじゃん……。どうして、どうして、どうして——」
ミカが聞いた病院の話によると、おかあさんは自害されたらしい。病院がその死を予想できるはずもない。この国のシステム、この世の決まりごとそれ自体を恨む以外にない。ひいては、キルラの存在か……。
「病気を治せない病院……。手紙すらまともに届けられない純政府……」ミカはひとことずつ、握った拳を固い地面に叩きつける。「狂ったおかあさん。勝手に死んじゃったお父さん。勝手にいなくなったお兄ちゃん。キルラ、紙喰い、人間……! 全部いなくなっちゃえばいいっ! わたしのことなんか、だれも気にしてない! みんな、わたしを、苦しめることしかしない!」
おれはすぐに片膝をついて、床を叩くミカの腕をつかんだ。デジャヴを感じたが、明らかに前よりも力が強く伝わってくる。押し負けそうなくらいに。
「大丈夫だ、大丈夫だから」
「なにが大丈夫なの!?」ミカは腕を振った。肘がこっちの顔に当たりそうになった。「みんないなくなったよ。セトもいなくなるんだよ。わたしは、ずっとひとり。だれにも愛されずに、だれにも必要とされずに、だれにもさよならも言えずに、ひとりのまま、ずっと苦しんでいく——」
首をがくりと折ってうつむいたミカは、床を叩くのをやめた。代わりにポタポタと大粒の涙が無表情な床を濡らしていく。
「もういい」ミカは顔を横に振った。「わたし、もう、生きてたくない」
「そんなこと……」
「だって……。苦しいんだもん……」
返す言葉など見当たらなかった。
素直にして、率直な言葉。
生きているのが苦しい——
それはとても単純明快な理由だ。
苦しいことを、どうしてつづけなければならない?
彼女がここから逃げたいと言ったなら。
それを止める権利が、だれにある?
だとしても……、
おれは背中を静かにさすった。「死んじゃだめだ」
「どうして。生きてたって、つらいよ」
「おれたちは、どうせ死ぬ。だから、いまは死んじゃだめだ……」
おれの言葉が宙に浮くように沈黙が流れた。うしろの通路で、からからと金属のワゴンがキャスターを鳴らしている。
「あと……」おれは言葉を喉に詰まらせながら、それでも、はっきりと伝えたくて口を動かした。「もし、自分の人生が大っきらいだとしても……。おれは、ミカといる時間が好きだ。楽しいって思える。だから生きていてほしい……」
また言葉が宙に浮いた。
ミカは、つかんでくれるだろうか。
「それって、プロポーズ?」
「……たぶん、ちがうと思う」
「なんだ……。やっぱりセトも、いなくなるつもりなんだよね」
「いなくならないなんて、約束はできない。それは、ミカもおれには約束できない。ふたりでひとつだとか、いくらそう言ってみても……。けっきょく別の生き物だ。まったくおなじ時間、おなじタイミングに死ぬなんてことは普通だとありえない。どちらかが、先に死んでしまうのが自然だ」
「どちらかが、かならず悲しみに耐えなければいけないんだよね。それが、自然だもんね」
故意的に死をつくることを人間はいとも簡単に成してしまう。他人を殺せるし、自分すらも殺せる。でもそれはまちがいなく大きな過ちであり、許されない罪。
しかし、いまのミカを見ていて、この世から離れたいとねがうことが罪であると言い切れるのか?
苦しい場所から、離れたいと思うのは自然なことだ。
それなら、ミカはいま死んでもいいのか?
——理屈でどうこう説明できるほど、おれは頭がよくない。
でも、だからこそ直感で思う。
ミカに、死んでほしくない。
こんなに早く、命の最期を歩んでほしくない。
もし、おれが足をひとつ失った分、ねがいをひとつ叶えられるとするなら。神がそんな交換条件を用意していたとするなら。どうか、ミカを笑顔にしてやってくれ。彼女をこれ以上、苦しませないでくれ。
可能性——
希望——
休息——
この際なんだっていい。
彼女をここに留めてくれ。
「おい——」背後から声がした。男の声だ。
おれははっとうしろを振り返った。ミカは傷心のあまり動けずにいる。
「だれだ?」病室のドアに片手をかけるそいつに声を投げた——瞬間、おれの脳は一気に熱を帯びた。
そいつは病院の玄関で見たやつだった。一輪の花を片手に院内へと入ったやつだ。思えば、その花はいまベッドのそばにある。
そいつの顔は、やはりおれにそっくりだ。髪型こそちがえど、目鼻のつくりが妙に似ている。気味がわるいほどだ。しかし年齢感はひとまわり上であるように見える。十年後の自分を見ているようにさえ感じられる。
チェックのシャツに、穴の開いたジーンズは最初に見たそれのまま。スニーカーではなく革靴だと気づいたのは、たったいまのことだが。
ここにきて、ミカもようやく振り返った。
男を見た涙まみれの赤い目が大きく開いた。
「うそ……」
「おまえらこそ、だれ?」
「……あんた、この病室の関係者か?」なんとなく察するところではあるが、おれは問うた。
「関係者って……」男は髪をぼりぼり掻いた。どこかで見たような仕草だ。「この病室で死んだ人の息子だよ。——てか、きみ、もしかして……」
男はミカをじっと見つめる。次第に全身の毛を逆立てるような雰囲気をまといながら、おどろきと戸惑いを混ぜたような顔をした。




