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カルタ・ネシティ  作者: 燈海 空
愛を知るのに指輪はいらない
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ー15ー

愛を知るのに指輪はいらない

 

「なんか、急に老けたね」ミカはおれの顔を見るなり優しく笑った。


 どうにか声を出せたのは、三〇分ほど経ってからのことだった。熱はないとは言われたものの、体調を崩してからずっと全身に焼けつくような違和感があった。すこし寝られたおかげか、その熱っぽさは引いた。鼻に通る空気が心地よく感じられるようにはなった。


 人がすくない空間のほうが、やはり空気は澄んでいる。あの人混みで寝たとしても、さらに体調を崩しただけだろう。


 話しても無駄だと思ったのか、ミカは荷物の整理をしていた。たまに衣類のにおいをとるスプレーの音が聞こえた。お湯を沸かして、スティックのお茶を淹れているのも、寝耳に聞いた。


「ごめん……」天井に向かって放たれたおれの声は、ひどく情けなかった。

「わたしは全然平気だけど、セトは大丈夫?」


 椅子に座り、服をたたみながらミカは言った。


「人混み……、酔うんだ……」

「そっか。しかたないよ、セトあきらかにひとりが好きだもん」

「わるい……」

「なんか、無理させちゃったみたいで、ごめんね、こっちこそ……。でもあまりにも急で、おどろいた」


 いつだったか、おれの母校があるリカドナで祭りがあったときも、おなじような目にあった。クルミとキヅキだけのアパートから、何百人も集まる祭り会場に行ったとたん——気分がわるくなった。子供だったおれは、キヅキに担がれてアパートにUターン。クルミが作ってくれた粥をすすれるようになるまで、三時間は倒れていた。


「クラウド、ショック……」おれは死にそうな声で言った。

「くら——、なに?」ミカが目を点にする。

「子供のころさ……。おなじ症状になったことがある……。祭りで……。急に人混みに飛びこむと、気分がわるくなって倒れる……。これを、クルミがクラウド・ショックって、呼んでた……。のを、思い出した」


 言葉をぶつ切りながら言うと、ミカはふんふんと納得したようにうなずいた。


「ショックはわかるけど、クラウドって、なんのこと? 雲、じゃなくて?」

「群衆とか人混み、って意味だってクルミは言ってた……」

「あ、そうだ」ミカはなにかに当たったように顔を明るくした。「クラウドファウンディングっていう、お金を集める儀式みたいなのが、ネットの時代にはあったって聞いたことある。そのクラウドって、たぶん、集まるとかの意味よね」


 あー、ネットの時代だったらなぁ——とミカはいつものように口をついた。気になった言葉を調べて、はっきりさせたい、と彼女はよく思うらしい。おれには、そこまでの知識欲はない。


「……この部屋って、何階?」おもむろに尋ねてみる。

「508だから、五階だよ」

「どうりで静かだと思った……」

「地上は、うるさい……」ミカは急に口調を変えた。だれかのマネをしたようだ。

「だれのマネ?」

「セト」

「ああ……」


 ——ともかくとして、これからのことを決めなければ。躰を起こして、ベッドに腰をかけた。頭を掻くと、寝癖のひどさが指ざわりでよくわかった。ごわごわと指にひっかかってくる。


「これからどうする?」おれは言った。

「うーん。まずは、ごはん?」

「おかあさんの病院は、いいのか?」


 おれが言うと、ミカは口を結んで顔をこわばらせた。


「きょうは……。いいかな」

「……そっか」

「いったん、ゆっくり休んで、頭をすっきりさせてから行きたい。なんていうか、覚悟が必要だったりもするからさ」

「わかった」


 ミカが決めたことには、異論はない。おれとしても、いまから他人に会う顔を作るのは面倒だと思っていた。


 ベッドから降りて、窓のそばに行き、カーテンを開ける。陽はもう落ちていた。しかし大都市の明かりは、これからが昼間だといわんばかりに煌々と灯っている。


「パン屋、まだやってるかな」おれは窓を見ながら言った。

「専門店は、もしかしたらやってないかもだけど……。さっき、ホテルに来るときに看板を見つけたの。二四時間営業の小売店がオープンしたんだって。もしパン屋がやってなかったら、そこに行ってみる?」


 休まない街に、休まない店。

 人間もそれに巻きこまれて、休まずに生きていく。

 昼を過ごす人間と、夜を過ごす人間が同時に存在し、街を維持していく。

 街が人のためにあるのか。

 人が街のためにあるのか。

 ——どちらにせよ、おれの住む世界ではないな、と思った。


「まずは、専門店に行ってみよう。ぎりぎりやってるかもしれない。二四時間営業の店にあるパンは、腐らないように添加物かなにか、入れているかもしれないし」



 翌朝になり、おれたちは病院へ向かった。専門店のパンを食ってから、昨晩はゆっくり休めたから、おれの顔色はいいほうだ。一方でミカはこの世の終わりみたいな顔をしている。


「大丈夫か?」


 道を歩きながら、おれは言った。あたりには通勤途中であろう、ワイシャツを着た人が何人も歩いている。すこしでも足を止めたら、急ぎ足のだれかとぶつかりそうだ。


「うん」ミカは言って、おれの左手を握った。「……離れないように、掴んでていい?」


 子供じゃないし、握らなくても大丈夫じゃないか、と思った。けど拒否する場面でないことくらい、おれにもわかる。


 そのまましばらく歩いたが、ミカはまったくしゃべらなくなった。


「大丈夫か?」また、おなじことを訊いてしまう。

「うん」返事もまた、おなじだ。「なんか、変なの。胸がぐって苦しい。不安とか、やだな、って気持ちじゃなくて。なんか……。こわいの。見たらいけない、近づいたらいけないって、躰のどこかが騒いでいる……」


 人間に対して、そう感じたことはないが……。闘っても勝てそうにない紙喰いを前にしたとき、おれも似たような感覚になったかもしれない。


 相手が紙喰いなら、逃げればいい。

 しかし人間はそうもいかない。

 人間関係ほど、ねばり気があって、しつこいものもないな、と感じてしまう。



 会話がなくとも、歩けば時間はあっというまで。見上げても、首を左右に振っても全体を把握できないほど巨大な病院の前に、おれたちは着いた。


 車椅子を引く看護師。腕にチューブをつけて、躰の横にキャスターつきの棒を引いている老人。一見元気そうな若者も病院のなかへと次々吸いこまれていく。


 遠くにあるガラス張りの喫煙所には、医療用のパジャマを着て咳を散らしながらタバコを吸う者が敷きつめられている。


 つっ立って周囲を観察していてもしかたない。おれはミカの手を引いて歩きだそうとする。——しかし、まるでフックにひっかかったみたいに腕はつっぱって、おれは姿勢を崩した。ミカが歩くのを拒否した。


「……行かないのか?」

「……ごめん」ミカの顔は青い。「こわくて……」


 とおりがかりの数人がこちらを見ているのがわかった。しかし、恥ずかしがっている場合じゃない。こっちの事情も心情も知らないくせに、見せ物を見るような目を向けてくる。他人なんて、そんなもんだ。気にするのもばからしい。


「いっかい、立ち向かってしまえば、案外楽になったりする。大丈夫だ。会って、お父さんのことを言っておしまいだ。もし伝わらなくても、しかたない。まわりには看護師とかもいるんだろうし、暴れられてもどうにかなる」


 おれもいるから——とまでは言えなかった。

 喉にひっかかって出てこなかった。


「……わかった」ミカは言った。「ごめんね。行こう」


 重い足どりを背中に感じながら、ミカの手を引いて病院のなかに入った。なかには椅子が数えきれないほどあったが、そのほとんどが患者で埋まっていた。


 手にボードを持った看護師が、メガホンを口に当てて患者の名前を呼んでいく。呼ばれたものは、別の看護師に札を渡されて、どこかへ向かう。それを繰り返している。内科とか、外科とか、いろいろあるから、適した場所に行くように指示をされるのだろう。


「受付、行ってくる」ミカが言った。

「ああ。おれは待ってる」

「うん。混んでいるから時間かかるかも」

「大丈夫」

「ごめんね」


 ミカは早足で受付に向かう。椅子に座っている患者の数人がミカのことを見ていた。そのうちのひとりが、若いのはいいねぇ、と普通の声量で言った。とてもくだらない。


「はぁ……」手持ち無沙汰になり、おれは壁に背をあずけた。「人間なんて最低だ……」


 自分の耳に入らないほどの小声で文句を言った。ここまで人混みは、よほどじゃないと経験しない。アトラならではだな、と思う。


「すいません」通りがかりの人が、おれに話しかけてきた。五〇代くらいのご婦人だ。

「……なにか?」

「あの……、案内板を見たいんですけど……」

「え?」

「あなたが背に当てているの、壁じゃなくて、案内板よ」

「え……?」


 振り返ると、壁はたしかに何階に何科があるという地図になっていた。気にもせず、もたれかかっていた。


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