ー13ー
愛を知るのに指輪はいらない
ミカはしゃがんで、おれのソックスに手をかけた。ゆっくりと外されていく。硬くなった皮膚、断端が見えて、ミカの視線がぴたりと止まった。
「もう、十分だろ」おれは言った。「これがおれの足だ……」
するとミカはうつむいて、肩をふるわせはじめた。
おれの胸が急にまっさおになった。
やっぱりだ。
けっきょく笑われる。
それがオチなんだ。
普通の人間には、こちらの苦しみなんて理解できない。
ちがいをちがいと思えず、優か劣でしか他人を評価できない。
人間なんて、だれも信用できない。
奥歯を噛んで、このばかげたやりとりを終わらせるひとことを言おうとした——そのとき、ミカは鼻をすすった。そして震える声で言った。
「セト、ずっと、ひとりで、たくさん、耐えてた……」
涙声でなにを言いだすのかと思った。
まるで自分の子供を褒めいてるみたいだ。
ばかにされて、笑われると思っていた。
——なにかの反動が、冷たく固まっていた心を弾く。
怒りから、悲しみ。
思い出と、記憶と、憎しみ、怒り。
なんども頬に傷をつけて、ようやく得た自信。
なにもかもが肯定されて。
なにもかもが許される。
気づくとおれは、視界が崩れるほどの涙を流していた。
ミカは優しい手つきで、おれの足に触れた。ふとももから、ゆっくりと指が滑って断端が撫でられる。彼女の顔がそこに近づいて、唇が当たった。
ミカはこちらを見上げた。涙が溜まる赤い目だった。躰も、心も、命も、なにもかもが吸いこまれそうな感覚で全身がいっぱいになった。
どう反応したらいいのかわからない。
むしろ逃げ出したいとすら思える。
でも、こんなにうれしい、ありがとうって、思えたこともない。
ミカは目を閉じた。
彼女の呼吸は落ちついている。
いっかい、もう一回、吐息が鼻に触れる。
おれときたら泣いてばかりで、呼吸がいつまでもひきつっている。
まるで情けなくて。
格好なんかあったもんじゃない。
背中に当たるミカの指に、だんだんと力が入る。
互いの心臓の音が聞こえそうなくらい、躰と躰が近づいて。
さっき断端に触れたやわらかい感触が、今度はおれの唇に触れた。
アトラのすぐ近くには、大きな池を抱えた公園がある。そこは二〇〇年前からずっと、公園としての存在を守っている。どういう理由かは知らないが、この公園は守べき文化的な財産のようだ。
とはいえ、アトラを囲む大規模な外周電気柵の外だ。公園というのは名ばかりで、騒ぎ遊ぶ子供のすがたや、世間話に花を咲かせるご婦人のすがたはない。
手入れの行き届いた街路樹は、レンガの一本道に心地のよい日陰を提供してくれているが、歩いているのは、おれとミカのふたりだけ。
「だーれもいないね」ミカが言った。
「寒いから、家から出たくないんだろ」
「家っていうか、アトラから出たくないんだよね」
街の外の公園まできちんと整備するあたり、アトラの人事的な余裕を感じられる。ここを掃除し、生え散らかる木々を整えるだけの仕事があって、それに就業する人員は、大勢いるんだろう。
カンドゥくらいの街だったら、電気柵の外だから、という理由だけで公園の放置は即決するところだ。さすが大都市アトラ、といったところ。
「この階段を登ると、小高い山の展望台がある」おれは右の分かれ道を指して言った。「アトラが半分くらい見えるけど、どうする?」
「見たいみたい!」
その場でミカは小刻みに跳ねた。返事を背中で返すつもりで、おれは階段のほうへと進んだ。ミカはうれしそうにあとを追ってくる。
「なんか、ずーっと砂とコンクリートと奇妙樹ばっかりだったから、飽きちゃった。こんなに整備された植物たち、見たのひさびさだよ。やっぱり大都市の近くはちがうね。そこの坂、緑一面だけど、ちゃんとした芝生になってる」
「寝転がってみるか?」
「あの感じだと下まで転がっちゃうよ。わりと角度が急だもん」
「おもしろそうだ」
「見てるほうは、そうかもね。でもケガするのは、転がってるほうでしょ」
「それは困る」
「でしょ」
せせら笑いを交換しながら、コンクリートの階段を一段ずつ、登っていく。こんなにだれかと話すのが楽だと思っている自分が、不思議でならない。
「何段くらいあるんだろ」ミカが上を見て言った。
「ざっと五〇段が二回くらいだ。一度、平坦で広い踊り場をはさんで、またおなじだけの階段を登る」
「けっこうだね。うちのパン屋、二階まで一一段だよ。約一〇倍の高さってことよね」
「それだけ、景色はいい」
「期待しとく」
東と西のちょうど中間で、雲ひとつかからずに照る太陽の光を受けながら、おれたちは展望スポットまで登った。
コの字で展開する木製柵のそばには、固定式の双眼鏡が数台設置されている。それにはコインを入れるための穴がついているが、いまは機能していない。双眼鏡自体も、レンズにこびりついた汚れのせいで、使えたものではない。二〇〇年前のオブジェクトが折れずに立っている、という意味では、なんらかの価値はありそうだが。
ミカは小走りで柵のそばに行った。両手を柵について、軽く身を乗り出しながら、感心の息をつく。
「わぁ……。すっごい、アトラ、広い……」
感動のあまりなのか、カタゴトになったミカのとなりに行く。眼下に広がるアトラはあまりに広大で、あまりに栄えている。活気づく人の群れのなかに身を投げるのが、億劫になるほど。
街全体をぐるりと囲むコンクリートの壁の高さは八メートルはある。そのさらに周りを、一〇メートル以上の高さはあろう電気柵が囲っている。もし紙喰いが、道中のなにもかもを蹴散らしながらアトラに入ろうとしても、その電圧を肌に感じた瞬間に足を噛ませ、急停止するだろう。それか高性能の電気柵に触れて、すぐに白灰と化す。あくまで地上からの侵入に関しては、心配無用だろう。地上からの侵入、ならば。
そして、どうしても目を引くのは、アトラの中央にそびえるツインタワーの高層ビルだ。ツインタワーは、純政府の本部だという。おれはまだ縁はないが。
ツインタワーの周囲には、高層ビルが密集している。ここが楽園だ、と袖を振るって語っているような威圧感。それらを囲むのもまた、外周電気柵だが、楽園のはどうも見栄えがちがう。普通の電気柵は横の平行線で、何本もの電線を並べたものだ。しかし楽園を囲むものは格子状。縦の線も入っている。その高さは、アトラの下町を守るものより、さらにある。倍はくだらないだろう。
仮に下町が紙喰いに踏みにじられても、楽園だけは絶対に守る——そんな気概すら感じられる。
「ねぇセト」ミカが遠くを指差した。「あそこは楽園、って呼ばれているんでしょう? あの、キレイなビルがたくさん建っているあたり」
「ああ。そう呼ばれている」
「あのね。エッグトーストを作るときね。フライパンで目玉焼きを作るんだ。あ、うずらの卵ね。なんか——黄身みたいだな、って思った」
「楽園が?」
「うん」
「大事に、大事に、守られて、ここだけは崩したらいけないって、作った人は思ったんだろうな、ってわかる。でもね、目玉焼きってさ。黄身だけ食べてもおいしくないの。あと、熱を入れすぎて、固くなって、ぼそぼそになった黄身も、おいしくない」
聞いている分には、どうでもいいようなたとえ話ではあった。しかし、妙なフィット感もあった。
アトラの全体を真上から見れば、たしかに目玉焼きのようだろう。 せいぜい三階建てが限度の住宅や店舗が密集する下町。それに囲まれ、守られ、そして見下さんとする、高層ビル群の楽園——。
「目玉焼きになるべくフライパンに落とされた卵……」
「なんか、ごめん」平らな声でミカが言った。「変なたとえだね」
「いや——ある意味、的確ではあったかも」
「じゃ……、行こっか」ミカは柵から手を離した。「目玉焼きのなかへ」
長い旅路の末にたどり着いたアトラ。そこにいざ踏み入る瞬間になると、ミカの顔はどうも暗く沈んでいた。ここへ至るまでの道中のほうが、よほど楽しそうだった。さっき、柵に飛びついたのがテンションのピークだったと思えるほどに。
「楽しみじゃないのか?」
「うーん……」ミカは躰を左右にゆらゆらとひねり、つまらなそうな仕草をする。「アトラ自体はきらいじゃない。人が多いのは、ちょっとやだけど」
そこでミカの口は止まった。ここは、なにかを察して言葉をかけるべきなのだろう。女性の気に無頓着なおれでも、それくらいはわかった。
「お母さんに、会いたくない?」




