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カルタ・ネシティ  作者: 燈海 空
愛を知るのに指輪はいらない
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ー12ー

愛を知るのに指輪はいらない

 

「笑っちゃう、っていうのを、草って表現するの」

「どういう理屈だよ。そのへんに生えてる草をばかにしてるのか?」

「そのへんの草は、あんまり関係ないかも。セト、英語のWってわかる?」

「それくらいは知ってる」

「ネットの世界が流行ってきたころね。Wを何個も並べることで、笑ってる、面白い、笑える、おなかいたい——っていう感情を文字で表現していたの。わらう、わらう、わらう。わら、わら、わら、の頭文字がぜんぶWでしょう? それでWがイコールで笑う、を意味するようになったの」

「……そこからどうして草になるんだ」

「Wを何個も連続でならべると、まるで画面上に草でも生えているかのよう——。そこから、草生える、っていう言葉そのものが、笑っちまうわ、って意味になったの。なんでも考えられちゃうんだよね、ネットの世界って」

「草だの、わらだの、植物大好きだな」

「……セトの無表情コメント、草」

「先にシャワー入る。洗ってほしいもの、あったら脱衣所のカゴに入れておいてくれ」

「……わかりました」


 過去のことにはあまり興味がなかった。それよりも、なにかどっと肩にのしかかる疲れがあった。


 《予定変更》という事態は、おれにとっては苦手なことだ。頭のなかで考えていたルートが乱れると、それだけでとてつもない疲れを感じてしまう。


 自分が思い描いたとおりに一日が進み、ベッドに倒れたときの心地よさときたら……。それを味わうためにネシティをやっていると言ってもいいくらいだ。



「なんか、まったりしちゃうね」カップの白湯をすすりながら、ミカが言った。「ホテルに連泊する、ってこんな感じなのかな」


 おれは豆の缶詰をスプーンで口に運んだ。灰色のデスクはひとつしかないし、無機質なパイプ椅子は一脚だけ。だが節々の錆びたその椅子は、おれの定位置だ。


「ホテルに泊まったことは、ないのか?」

「あるよ。といっても、アトラの安ホテルだけど」

「一泊だけ?」

「そうだね。いつも一泊だった。おかあさんのお見舞いとか、お医者からの大事な話のときとかしか泊まらなかったから。あと、ちいさいころはたまにアトラで遊んだりした……」

「定期連送便の往復切符だと、帰りの便が決まっているんだよな。それに乗れないと、翌日まで列車はない」


 なにせ、行きも帰りも一日一本の電車だ。不便にもほどがある。


「そうなの。それ。それが最悪なの。もうすこしゆっくりしたいのに、なんか、すごく急かされているようで、落ちつかない」


 どこを見ても純政府がからんでいる公共機関は、気が利かない、と思う。


「……おかあさん」ミカはコップを持つ両手を太ももまで落として、ため息をついた。「どうしてああなっちゃったんだろ」


 病気のことを言っているはずだ。


「なってしまったものは、しかたない。これからなにをできるのか、考えたらいい」

「そうだよね……。そうなんだけど……。実はね、おかあさん、事故だったんだ」

「……どんな?」


 掘り下げるべきなのか、と一瞬思ったが、いまはむしろ聞いておくべきだと感じた。


「すごく風の強い日だったの。おかあさん、野菜を買いに出かけていたんだけど。建物と建物のあいだの、すこし狭い道を通ったのね。外に干していた洗濯物が飛ばされたんじゃないかって、心配だったみたい。そしたら、谷間風っていうのかな? 急に突風が吹いて、バランスを崩して、うしろに倒れちゃったの。……地面がコンクリートだった」


 ミカはそれ以上言わなかったが、あとは想像のとおりだろう。頭を強く打って、それから脳に障害が残ったということ。


「命は、あってよかった」

「そう、なんだけどね。それでも神様ってひどいよ。あの母を見ていたら、事故の瞬間に死んでいたほうが楽だったんじゃないかって思う」

「それは……、本人が思ってるのか?」

「本人もだし……。わたしも、お父さん……、も、かな……」


 ミカの声に濁りがあった。父親は亡くなったばかりだ。心の傷が癒えるほどの時間が経っているとは思えない。むしろ——故人への傷心が癒えることがあるのだろうか。おれは、さしあたって特別なだれかを失った経験がないから、わからない。


「……例えば、さ」おれは視線を流しながら、「生きていることを、それ自体を、幸せなことだとするなら。そういう意味では、だれであっても幸せなはずなんだ。だけど、そこに他人というものが存在していて。他人がいる以上は優劣が生まれて。身長の高い、低いだったり。頭がいいか、わるいかだったり。お金を持っているかどうかだったり。健康かどうかだったり。——でも、おれは思ったりする。それって優劣じゃなくて、《《ちがい》》なんじゃないかって」


 自分でも言いたいことが整理できていなかった。それでも、漕ぎ出した言葉の船を座礁させるわけにはいかない。


「おれは、生まれてすぐに片足を失った。優劣でいったら、ずっと劣を生きてきた。他人から、おまえは劣なんだと突きつけられたことは何度もある。そういう言葉を、態度を、暴力を、何度も、何度も、与えられてきた。でも——おれは、この足がいまは好きなんだ。この義足を造ってくれたロビンばぁの言葉が好きなんだ。あのひとことが義足以上に、いまの自分を支えてくれていると思う」


 話していると、マグカップの水面に落ちていたミカの視線が、だんだんと持ち上がってきた。


「……どんな、言葉?」


 わざとらしく溜める気はなかったが間ができてしまった。おれは言葉を思い返し、つないでいく——


「あんたは劣っているんじゃない。ちがうだけさ。そのちがいに合わせることを知らない世間と世界がわるい。あんたは、なにひとつ、なにをとってもほこりのひとつ分すらわるいことはしていない」


 ちがいを思う存分、楽むんだよ。あたしが、その足を翼に変えてやる——そこまでがロビンばぁの言葉だった。


 おれは缶とフォークをデスクに置いた。義足に手をやって、静かに外していく。ミカの視線は釘付けになった。


 ふとももからソケットが外れ、金属の重みが床にのしかかる。特殊素材のクッションライナーから解放される。調湿用の義肢ソックスに空気が当たり、皮膚が呼吸する心地よさで、脳が満ちる。この瞬間のためだけに、ルームウェアパンツの股下を片方だけ短く切っている。


 義足はおれにとって命とおなじくらい大切だ。しかし躰それ自体にとっては異物がくっついているのと変わらない。


 どうあっても、そのままのすがたというものが、肉体にとってはもっとも心地よいのだな、と感じる瞬間でもある。義足を外したとたんに、とても落ちつかなくて、不安になるというのに。


 重たいものが外れて楽だ、なんならこのソックスも外してくれと訴えるおれの躰は、別の生き物みたいに正直だ。


「これが、おれだ。……うまく言えないけど、ミカのおかあさんも、いまのすがたが、まぎれもない、おかあさん自身なんだと思う。だからこっちが勝手に幸せじゃないとか、病気だからどうせ不幸なんだと決めてはいけない。それだけは、したらいけない」


 ミカは黙ったまま、ずっとおれの片足を見ていた。

 床に置いた義足は見ていない。


「——セト、ベッドに寝てみて」

「は?」急になにを言いだすのかと思った。

「いいから」

「なんで」

「見たいの。その足。ソックス、っていうのかな。それも外してあげるから」

「これくらい自分で外せる。それにシャワーに入って取り替えたから、外す必要もない」

「おねがい」なんだ、その目は。

「……無理だ」

「……やだ」


 こうなったときのミカはしつこい。


「なんの意味があるんだよ」

「見たい。知りたいの。セトの、生きてきたいままでを」

「……そんなの、見えもしないし、知れるわけもない」

「じゃ、そのままでいい」


 急に立ち上がり、ミカは近づいてきた。椅子にすわっていたおれは思わずのけぞった。バランスを崩し、椅子ごとうしろに倒れそうになる。


 ——ミカがそれを防いだ。まるで抱きしめられるようなかたちで、おれを支えてくれた。彼女の髪が左頬に当たる。石鹸のにおいがする。


「……大丈夫?」ささやくようにミカが言う。小さな声だが、耳もとで大きく聞こえた。

「……離れてくれ……」

「やだ」


 数秒の沈黙。

 なぜか心臓が暴れている。

 感じたことのない緊張で全身が固まる。


 胸の奥でまっかに染まるこの感情はなんだ。

 恥ずかしい?

 こわい?

 逃げたい?

 ——うれしい?


「そのままだよ」ミカが言った。耳が溶けるような声だった。返事ができず、おれは唾をひとつ飲んだ。




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