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愛を知るのに指輪はいらない
視線のすぐ下で、大人のマッサージ初回無料とか書いてあるピンクの看板が砂にまみれて朽ちて倒れている。コーヒカップの形をした絵と、豆のマークが印象的な、濃い緑とベージュの突き出し看板は、視線のすぐ上に見えた。なんとか法律事務所とかいう青と白の看板もある。
動くものは道の奥。二〇メートルは離れているだろう位置にいた。
砂よけの装備、首に下げたゴーグル、鎖帷子のショルダーバッグに、刀の鞘。腰には電攻グレネードと思しき球体が四つほど噛みついている。——ネシティだ。ちょうど廃墟から出てきた瞬間らしく、口元のスカーフを首までさげて、大きく呼吸をしている。なにか、店のなかの死体でも漁っていたのだろうか。
おれはいったんもどって、ミカに声をかけた。
「人がいる」
「え?」ミカは顔を固めて、「それって、大丈夫な人?」
「ネシティの格好をしているから、大丈——」おれは言いかけて、リンジにやられた苦い仕打ちを思い出した。「わからない、危ないやつかもしれない。それに、ネシティなら手紙を運んでいるはずだ。そいつのせいで紙喰いが近くにいてもおかしくない」
「え、やばいじゃん」ミカは慌てて靴下を履いた。「に、逃げなきゃだよね?」
「迂回しよう」
「わ、わかった」
ミカがブーツを履き終えたのと同時に、太く、地をゆらす咆哮が聞こえた。それはまちがいなく、さっきのネシティがいる方向からひびいていた。
「言わんこっちゃない……」
「や、やばいよね」
「急ぐぞ、見つかったらめんどうだ」
「どっちに?」
「どっちかというと、人間のほう」
予定とはまったくちがう道を行くことにした。さっきのネシティがいた通りには行かないように、ビルとビルのあいだの路地裏を選んだ。
ただでさえ狭い路地裏で、奇妙樹の太い蔓が邪魔だが、この際しかたない。余計なトラブルはもうごめんだ。
しかしめんどう事というのは、こちらが頼んでもいないのに、わざわざむこうからリアクションを求めてくるもので——
《さぁ! さぁ! 紙喰いの旦那さまぁ! 見せてくれたまえぇ! きみの死に様、舞い散る白い灰を——!》
あのネシティ、大声で叫んでいる。
——二発の破裂音がした。
電攻グレネードを投げたようだ。
「……なんか、叫んでるよ、行かなくていいの?」ミカが言った。
「……無視しよう。いまならまだ、巻きこまれる心配はない」
「まぁ、ネシティだったら、大丈夫よね……」
ところが——、こちらの期待を見事に裏切る悲鳴が先にも増して声高らかにひびき渡ってきた。追うように、どむ、どむ、と地面が爆発しているかのような音が不定期に鳴る。紙喰いの足音とは別の音。巨大なハンマーがコンクリートを砕いているみたいだ。
《あぎゃーーー! ごめんなさああああい!》
「……やばそうじゃない? 勝てなかったのかな?」ミカは悲鳴のほうを見た。
おれはため息をついて、路地裏に入ろうとしていた体の向きを変えた。
「いったん、そこの曲がり角まで行こう」
「わ、わかった」
ひとまず先ほどの曲がり角から、ネシティと紙喰いをうかがう。状況が知りたかった。
紙喰いはまっくろな甲羅を背中に背負った、大型だった。直径三メートルほどの脚が合計六本、サンドイッチのパンみたいな甲羅のあいだから生えている。全体の肌は緑色で、黄色のまだらがところどころに散見される。首は長く、持ち上げられるとビルの四階くらいまでは余裕で届く印象だ。尻尾はあるはずだが、こちらからは見えない。
耳らしい耳はない。鼻らしい鼻もない。目はおそらくあるはずだが、遠目で見ると鉛筆で書いた線みたいなのが二本あるだけ。
特記すべきはアゴだ。底面がギザギザに波打つ長方形が四本。歯並びのいい前歯みたいにお行儀よく整列しているが、地面をぶっ叩いている部分から連想するのはミートハンマーだ。以前、クルミがあいつの顎に似たハンマーで筋の多い肉を叩いていたのを思い出す。あんなので潰されたら、人間など血と肉の塊になるだけだ。コンクリートでさえ、大きな穴を開けて砕けているのに。
意気揚々と対峙していたはずのネシティは腰にあった電攻グレネードがふたつ減っている。紙喰いにしてはめずらしく、電撃に強いタイプなのか……? いや、あのネシティが素人だったせいで、グレネードの当てどころがわるかったのかもしれない。
手練れなら、あの長い首の根元に電撃を当てるはずだ。それができず、せいぜい甲羅かなにかに二発ぶちこんだ結果、いらぬ怒りを招いた、と想像できる。
怒りというものは良い結果を産まない。
つまり、先に怒ったほうが負けるという意味で。
「おれが見える範囲で、なるべく近寄らない距離で、こっちを見ていてくれ。なにかあったら大声をあげろ。絶対だぞ?」
「し、死なないでね……?」
そうこう話しているあいだにも紙喰いの咆哮とネシティの悲鳴はだんだんとこちらに近づいてくる。どたどたと地ひびきが腰まで届いてくる。
「ああああああ! ぼくがわるかったっすぅ!」
自分から喧嘩を売っておいて情けないやつだな、と思ったが、よくあることだ。しかたない。声がやたらと高いが、子供だろうか。一〇代でネシティになるやつは珍しくはないが。
逃げ惑うネシティに違和感を覚えたが、その理由はすぐにわかった。こともあろうに雷駆刀が手から離れて地面に転がっている。逃げる拍子に落としたとでもいうのか。あれじゃ太刀打ちできるわけがない。
「行ってくる。すぐに始末する」あきれた声になっていただろうな、と自分でも思った。
「気をつけてね、おねがいだから」
心配そうなミカの声を背中に感じながら、おれは駆けた。紙喰いは顎を地面に叩きつけながら、錆びた車も傾いた電柱もなにもかも蹴散らしながら通りを無尽に走っている。
追われるネシティも負けじと全速力だ。走るフォームがやたらといい。逃げ足は一級のようだ。しかし、あのまま走ればあと数秒で紙喰いの顎に潰される。亀とはいえ、図体がデカければ歩幅もでかい。その分、速度が出る。
「そっちの路地裏に入れ!」紙喰いに向かって走りながら、おれは叫んだ。右腕も振って大きくジェスチャーを送る。
「は、はぃ!?」ネシティはおどろいた。「な、仲間!?」
「早く! 右だ!」
「は、はぃっ!」
ネシティは路地裏に入った。それを追って、紙喰いも路地裏に行こうとする。だがその身幅では甲羅がビルとビルにひっかかる。
それでも首を伸ばしてネシティをどうにか潰そうとするはず。そこが勝負の決め手。狭い路地裏なら、でかい首を左右に振りまわすのは容易ではないはず。
おれはトリガーを引いて、甲羅の上に乗った。
ゆれをこらえながら走り、首の先端をめざす。
「やああああああ! 殺されるううううう!」
路地裏の奥は袋小路になっていた。さすがにそこまでは予見できなかった。まずい、と瞬間に思った。
コの字の壁まで追いやられたネシティは、ネズミのようにちぢこまって震えている。長い首がゆっくり持ち上げられ、ミートハンマーの顎が、急降下する。
「ああああああああ!」ネシティの悲鳴。
——間一発で、首の長さが足りなかったらしい。紙喰いの首があと二メートル長かったら、ネシティは潰れていたかもしれない。渾身の叩きつけだったのか、顎が地面の深くまでめりこんでいる。すぐには顎が抜けない。紙喰い動きがにぶった。
静止する巨大な顔、そのすぐ目の前で、壁に全身をぴたりと張り付かせて怯えるネシティ——。
おれは波のようにうねる長い首の上を駆けた。紙喰いの脳天まで辿りつくと、両手に握った雷駆刀を下に突き刺した。やわらかい肉質のなかに埋まる刃の感触を手応えにして、すぐにアクセルレバーを吹かす。いつもの焦げた血肉のにおい。太い断末魔のあとに、足場がゆっくりと崩れる。
「大丈夫か?」積もる白灰の上に立ったまま、おれは言った。
「あ、ありがとうっす……」答えてから、ネシティは大きく咳きこんだ。白灰を吸ってしまったらしい。
相手の呼吸が落ちつくのを待ってから、おれは次の言葉を言った。
「わるい、袋小路になっているとは思わなかった」
「し、死ぬかと思ったっす……! 瞬間、あなたに騙されて殺されるんだな、と思ったのが正直なところっすが、結果助かりました。ありがとうございます!」
話してすぐに気づいたが、ネシティは女だった。おでこにあるゴーグルは傾いていていまは情けないが、顔の左右にある黒い髪は長く垂直で、砂よけのスカーフの上まで伸びている。
「あ、自己紹介をしなきゃですね……」
女は暑かったのか、スカーフを首から外した。まっしろな肌に、つり気味の目、うすい唇、精悍な顔に見える。その話しかたもあってか、声は聞くほどに少年のようだ。




