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愛を知るのに指輪はいらない
「そんなことないだろ。普通だ」
「普通……!」ミカは突然怒った。「普通ってなによ、最低」
「は……?」だめだ、まったくわからない。「なんで怒ってんのか知らないけど……。とにかく寝るぞ。ハミガキ忘れるなよ。あとゴミもちゃんと捨てておいてくれ。もし、維持班が来る前に次の宿泊者がきたら困る」
そう言ってパントリーに向かおうとするも、ミカは突然立ち上がって、怒りっぽい足音を鳴らしながら洗面台へ行った。
「……なんなんだ……」呆気にとられるしかなかった。
けっきょく寝袋を床に置いて、おれは眠ろうとしたわけだが。ベッドの上のミカは布団にくるまると、すぐにくるり、と寝返りをうってこちらに背を向けた。
「セトのばか」とだけ文句を言って、しばらくするとすぐに寝息をたてていた。
きょうは、おれもさすがに疲れた。
目をつむってから、意識を失うのに五分もかからなかった。
翌朝になってもミカの不機嫌はつづいていた。洗濯乾燥機の温風で、半ば無理やり乾燥させたシワだらけの服(きのうとおなじ服)を着るのが、よほどいやなんだろう。
「きのうとおなじ服なのはしかたない。我慢してくれ」
「……なにも文句言ってませんけど」
缶詰のなかに木製のフォークを突き刺しながら、ミカは答えた。ベッドの上であぐらをかいているその背中に、あっかんべーと書いてあるみたいだ。
「……なんなんだよ、きのうの夜から変だぞ」
「……セト、わたしが目の前で着替えているのに、なんんんにも言わなかった。むかついた」
昨晩の流れを思い出す。ミカが先にシャワーを浴びた。そのときは鼻歌を歌っていたから、機嫌はわるくなかった。そのあと下着すがたのまま部屋にもどってきた。おれは、寒いだろ、早く服を着ろと言った。
——そこだ、そこからミカはまた怒りはじめた。
「タオルは脱衣所に置いてきたの。そんなこと、普通はしないの。でも、セトはまっったく普通の顔だった。頬を赤くするでもなかった。緊張している風でもなかった。びっくりもしなければ、慌てるでもない。なにしてんだ? って、いつもの顔だった。ばか」
ばかは余計だろ、と思ったが、わるいのはこっちで決まりらしい。
「徒歩で旅をするんだから、人間の生理的な部分は見えてもしかたない。シェルターはそういうものだ。寝室はひとつしかない。このスペースのかぎられた空間では、こちらの裸くらい見られてもしかたないし、ミカが隠そうとしなければ、条件はおなじだ」
おれは言って、缶詰のなかにフォークを刺した。口に運んだなにかの肉が苦く感じた。黒っぽいソースは甘ったるいのに、不思議な感覚だ。
するとミカの食事の手が止まった。
「わたし、魅力的じゃない?」
「……だれにだって、魅力はある。ないやつなんていない」
「……セト、恋はしたことないの?」
まただ、最近はこの手の話題ばかりぶつけられる。いい加減、めんどうに思えてくる。
「おれに恋愛はいらない」
「どうして?」ミカはこちらを向いた。
「いつ死ぬか、わからないから」
いまの言葉を放ったとたん、空気が氷みたいに固まった気がした。数秒を経て、ミカはまた壁のほうを向いた。
「……なんか、ごめん」
「いや……、おれもなにか、きのうから気分を害しているみたいだ。ごめん」
「わたしも、きょうにも死ぬかもしれない?」
「徒歩で移動しているかぎりは、その可能性がある。だけど、かぎりなくゼロに近い確率だ」
「どうして?」ミカはくるり、とこっちを見た。
「おれが守るから」
まただ、空気が止まった。ほのかに顔を赤くしたミカは、すぐに壁のほうを向いた。しゃべるつもりなら、ずっとこっちを見ていればいいのに。
「……セトって、最低だね」
「守ったらいけないのか?」
「ちがうよ。うれしい。うれしくて、最低」
「は……?」なぜかはわからないが、どうも話が噛み合わない。「早く食事を済ませて、出発しよう。これからが本番だ」
缶のなかをすべて喉に押しこんで、おれは立ち上がった。
「またジャングルみたいなところを抜けるの?」ミカが言った。
「いや、そういうところはない」
「なら、むしろ楽なんじゃない? 果物を投げつけられる心配もないでしょう?」
「ここからは、なにもないんだ。一箇所、中継にちょうどいい街があるから、そこに寄る。それまでなにもない」
コンクリートの朽ちたビル、それにからみつく奇妙樹の蔓、砂、割れたガラスだらけの廃墟、ひび割れた道路に錆びた車の死骸。それらばかりの景色を、ネシティはなにもない景色という。
「だから、なんでも見つけられる。逆に、なにからも見られてしまう」
その意味をすぐに理解したのか、ミカの顔がこわばった。
「紙喰い?」
「——だけならまだいい。狂った人間に会うほうが、いまはこわい」
紙喰いは行動がある程度読める。が、人間はなにを考え、なにをやらかすか想像できたもんじゃない。ある意味、生きている生物のなかでもっとも凶暴で、狂っているといえる。
「きのうのジャングルの人たちみたいに、やばい感じのみなさんが、荒廃した世界にちらほら……?」
「あいつらはいいほうだ。なにせ、投げつけてくるのが果物や花のリースなんだから」
すくなくとも手榴弾や吹き毒矢が飛んでこなかったのは、感謝すべきだろう。
「それに知り合いでもあったし、危険は最初からない。よくわからない宗教団体とかに捕まったら最後。死ぬほどめんどうなことになる」
それでも行くか? と問うのはさすがに野暮だと思った。まだ、カンドゥに引き返そうと思えば、叶う距離ではある。きのうの道程を逆にすればいい。
しかしここで引き返すなんて、ありえない。
そんなやわい覚悟で発ったわけじゃない。
帰るか? なんて口が裂けても言えない。言いたくもない。きのう、ミカを怒らせてしまったおれにだって、それくらいの感情は汲める。
ミカのような旅の初心者が、二日目でとくに辛いと感じるのが足の痛みだ。初日はまだ、気分の高揚感かなにかでごまかせる部分が多い。しかし、普段やったこともない足の使い方をしていたはず。筋肉の疲労は、ひと晩程度じゃ回復しきらない。
「ねぇセト……」片足を軽く引きずりながら、ミカが声を漏らす。「左足の土踏まずが痛い……。なんでだろ……」
「土踏まずが痛くなるときは、かかとを使った歩き方ができていない場合が多い。重たいリュックを背負っていたり、慣れない砂の上を歩くと、姿勢が前傾に寄ることがあるんだ。それで、無意識のうちに足の指に力が入ってしまう」
「言われてみるとそうかも……」ミカは日陰を見つけると、いったん腰を下ろした。「ちょっと待って、ブーツ脱いでいい……?」
「ああ。親指から一本ずつ、足の指をほぐしたほうがいい」
いてて、と口に発しながらミカはブーツの紐をほどき、厚めの靴下を脱いで裸足になった。
おれはそのへんの車を適当に見繕って、上に乗った。持ち主が生きていたら殴られるところだろうが、いまはただのガラクタ。錆びているが、もとは白い車だったようで、冠みたいな銀色のマークが鼻っぱしについている。
「遠くを見ておく。二、三〇分くらいなら、余裕はある」
「いま、何時くらいだろ」
痛そうな顔をしながら、ミカは指をほぐしていく。
おれは太陽の方角を見た。
「まだ正午にはなっていない。おそらく」
「そっか……」すこし痛みが落ちついたのか、ミカは目を閉じて深い呼吸をしている。「もうちょっと、休憩させて」
「ああ。気にするな」
「ごめんね」
これが仕事だったら、配達日数に影響がでるかもしれない、と少々のあせりをきっと感じていた。でもいまは関係ない。そう思うと、心がとても軽かった。
——空気がゆらいだ。
この感じ。
違和感。
いやな予感……?
おれは車の上から降りた。
「どうしたの?」座っているミカが心配そうに言う。
「いや——」それだけを言って、おれはすこし歩いた。
傾いて崩れそうな六階建てのビルが曲がり角になっていて、その奥を見たい——見なくてはいけない衝動が胸にあった。そちらに歩いて、半身だけさらすようにして九〇度に曲がる道のむこう側を見た。




