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愛を知るのに指輪はいらない
奇妙樹の群生地帯——通称《逆さまの森》を前にして、ミカは言葉を失ってしまった。視界いっぱいに広がる奇妙な植物は、何度見ても巨大な芸術のようだ。
「なんか、想像と全然ちがった……」
「どんなのを想像していたんだ?」
「なにもかもにからみつく、蔓、蔓——そして蔓と蔓が交わりあって一本の木になったのが、そこらじゅうに……」
「たしかに、廃ビルとかに巻きついているのは、そんな感じだな」
「それに比べて、これって……」
一度ひっこぬいた巨木を、逆さまにして頭から無理やり植えたものが景色を埋めつくしている、とはよくいったもの。空に向かって伸びる茶色の根らは虫の関節みたいにカクカクと節々を曲げながら、その鋭い尖端は天に向かって無数の棘を突き立てている。剣山のようにびっしりと数を揃えるその根っこに、もし紙喰いの一匹でも落ちようものなら、体重と根の鋭さと相まって、躰が穴だらけになり絶命するだろう光景が想像できる。
対しての地上においては、深緑の葉がびっしりと茂る枝葉に埋め尽くされている。それらの終端はたしかに土に埋まり、地上から生えているようではある。本来は空に近いはずの枝葉の部分が、根っこの役割を果たしている。
「まさかほんとうに、見たまま逆さまの森だとは思わなかった」ミカが言う。
「いちおう、ネシティがよく歩く道がある」
おれは東のほうを指差した。木製のくたびれた看板がひとつ立っている。たしか、リュウゾウが現役だったころに立てられたものだったはず。
「あの看板の奥——木と木のあいだに道がある。そこを行けば、逆さまの森を歩いても二時間。森を抜けたら、シェルターはすぐだ」
「二時間……」ミカはリュックベルトを握る両手に力をこめた。「どうかそのあいだ、虫に会いませんように……」
逆さまの森に入ると、まず気温が大きく下がったのを感じた。埋め尽くされた根っこの天井が、日光の大半を遮っている。さすがに木漏れ日程度の明かりは差しこんでいるが、まるで夜明けのような暗さだ。
「さむっ……」ミカが言った。「なんか、不思議な感覚になるね。右を見ても、左を見ても、木が逆さまで地面に刺さっている……」
「だからこそ奇妙樹と呼ぶんだろう。普通ではない、奇妙な植物」
逆さまの木にとどまらず、この森にはほかの種類の奇妙樹も生息している。
「ほら、そこに五メートルくらいの小木があるだろ?」
おれが指をさすと、ミカの視線が固定された。
「あー、逆さになってない、ちいさめの木だね」
「あれはディニームっていう木で、葉っぱには紙喰いを遠ざける香りがふくまれている。それがけっこうな密度で群生しているから、この森は紙喰いが寄ってこないんだ」
へぇ……、と相槌を打ちながら、ミカはディニームに近づいた。長楕円形の葉に指で触れてみる。
「じゃ……、この葉を持って歩けば、紙喰いには襲われないんじゃない?」
「たとえ、カバンにいっぱいの葉を持って歩いたとしても、その効果はあまり期待できない。この葉は、ちぎられてから枯れるまでのスピードが異常に速いんだ。枯れる過程で乾燥させているわけでもなければ、漂うのは腐敗臭だけ。枝から離れたとたん、香りはみるみる抜けていく。
「なーんだ」ミカは残念そうにしたが、それでもなにかあきらめきれず、「記念に一枚、ちぎってもいい?」
余計な荷物を増やすな——と言いたいところだが、たかが葉一枚でがみがみうるさいのもどうか思った。
「好きにしろ。《《すぐに》》腐っても知らないぞ」
「やった!」ミカは子供みたいに顔を明るくして、葉をちぎった。「ありがと、いただきます!」
「食うのか?」
「まさか」
ちぎられたディニームの葉を、ミカはウインドブレーカーの胸ポケットに入れる。いつかに見た、死にたいと懇願していた彼女の顔がよぎった。あのときに比べたら、いまのミカはとても元気だ。この笑顔が見れただけでも、仕事以外の予定を選んだ価値は十分にある。
それからしばらく森林のなかを歩いたが、聞こえるのは小鳥のさえずりか、虫の鳴き声くらい。
風が吹いて枝葉がざわつくことがあるが、そのざわつきは頭の上から聞こえるのが普通だろう。逆さの森では、枝葉のざわつきが自分の目線とおなじ高さで鳴っている。それがおもしろい。
「ああ、そうだ、この森には住民がいる」
ふと思い出したように、おれはミカに告げた。自分のなかではあまりに当たり前のことだったから、言うのを忘れていた。
「住民って、くまさんとか、うさぎさんとか?」
「ちがう。人間だ」
「は!?」ミカは足を止めて怒鳴った。「なな、なにそれ、やばいやつじゃないの!?」
おれは振り返って、目線を横に流した。隠すつもりはなかったが、言わずとて困ることもない。なんせ、その住民とは親しい関係だ。
「森の住民といっても、そのリーダーが昔、ネシティだった。キヅキの同級生」
「キヅキさんは……、ユヅキさんのお兄さん……」ミカはふわりと視線を上に投げて、「その同級生、ってことは五〇歳前後の人?」
「そんなとこ。実は、そいつのナワバリなんだ。この奇妙樹の群生地帯全体が——」
うわさをすれば影のごとく、指笛の音が森のなかにひびいた。高く、短い音が二回。低く、長い音が一回。これはナワバリにだれか入ったとき、ここの住民が鳴らす警告音。
「ねぇ、セト……」ミカは不安そうに、「いまのなに……」
「心配するな」
おれは輪にした指を咥えた。高く、長い音を一回。低く、短い音を二回。——右の茂みがざわざわと音を鳴らす。枝葉のなかからすこしだけ覗く銀色の鋭い金属がきらりと光った。
「え、ちょっと、やだ」鋭利な刃先を見たミカは顔を青くする。
「大丈夫だ」おれは茂みに近づく。
「……セト?」低めの女の声。
「ああ。通らせてほしい」
まずは答えず、女は茂みからすがたを見せた。持ち手の両側に刃を備えた両刃剣を片手に持っている。熊に頭を食われたような見た目がまず最初の印象だが、それは防寒用のフード付きマント。
毛皮だけの熊の顔には下顎がないが、その代わりに精悍な女性の顔がある。編みこんだ長毛が六本、顔の横から肩まで流れている。逆三角に切り取られた布を縫い重ねてつくられた、濃緑と黒のまだら模様が印象的な民族衣装との対面もひさびさだ。
「相変わらず森林でのカモフラージュは完璧だな」
「どう? いい感じだろ、この服! けっこう機能性上がったんだよ。裁縫が得意なやつが仲間になってさ、採取した薬草を入れるポケットが四つもついてる」
目の前に現れた女戦士の名はハナカル。森の住民らは、自らをブラッディ・テディと呼称する。おれが最後にここを訪れたときから状況が変わっていなければ、彼女はまだ組織のサブリーダーを務めているはず。
「ひさしぶり。ハナカル」
「てかセトおまえ……!」ハナカルは歩み寄ってきて、「結婚したの!?」




