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カルタ・ネシティ  作者: 燈海 空
パンを食べたいだけだった
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ー5ー

パンを食べたいだけだった


「うそじゃないよね!?」

「二度も説明する気はない……」

「あんた、それでいいのか? こっちはなにも渡さないぞ?」


 父親は苦い顔をしている。

 こちらの提案が信じられない、という表情だ。


「金はいらない。個人的な用事だから、仕事じゃない」

「はぁ……」父親はなにかをあきらめたような顔をした。「行くなら純政府の列車にしてくれ。徒歩の道はだめだ」

「えー! やだやだやだ、絶対歩きたい、歩いて行きたい! わたしにだって、アトラまで行けるよね? ね?」


 子犬の顔がこちらに迫る。丸い瞳は、ほのかに赤みを帯びて涙を溜めている。よほど純政府の列車を拒絶しているらしい。


「なにもなければな」おれは答えた。「おれたちネシティは、整地された道をのびのびと歩いているわけじゃない。瓦礫同然がれきどうぜんの廃墟の上をよじ登って超えることが多いし、盗賊やおかしなカルト団体に捕まらないように、いつも警戒している。紙を持っていなければすぐには襲われないとはいえ、紙喰いの一匹や二匹、遭遇する覚悟は当然だ」

「心配だなぁ……」


 父親が言うのも無理はない。徒歩での旅路は《《歩けたもんじゃない》》、というのが一般論だ。


「ミカ。どうにか純政府の列車を待てないか」心配する親らしい声だ。

「むぅ……」ミカは口を結んだ。おもちゃを買ってもらえない子供みたいに。「つまんない……」

「安全を優先したほうがいい」おれは言った。

「……じゃぁ、またきてくれる?」


 彼女はかなり消沈していた。おれは指で日数を数える。


「きょうから数えて……。ひと月と、一二日後の便ならこちらの都合もいい。そのあたりは仕事を入れないでおく」

「ひと月と一二日後……。わかった。待ってる」


 ほんとうはすぐにでも発ちたいのだろう。気のせいかもしれないが、何日も、何ヶ月も、何年も、旅をする日を待っているようにも見えた。


 彼女の肩越しに見える父親の顔も切なさを帯びている。娘のわがままに呆れているだけでは、ないのかも。ミカが徒歩の旅にこだわる理由を知っているのではないか……。


 ほんとうは徒歩の旅をさせてあげたいが、娘の安全を思うがゆえに、それを認めたくない……?


 だめだ。

 いまは考えすぎている。

 これだから人と関わるのが苦手だ。

 ささいな気づきから、いらぬ思考がみるみる膨らんでいく。

 今回はまだいいが、最悪の場合は邪推が暴走する。余計な心配や疑念ばかりが頭に溢れてしまう。


 もっと単純で、ばかっぽくなればいいのに。

 それができないめんどうな性格だ、自分がいやになる。


「ねぇ? 大丈夫……?」ミカがこちらを覗きこむ。

「あ——」ぼうっとしていたようだ。「ああ、なんでもない」

「じゃ、待ってる。約束」


 ミカは小指を立てた片手をこちらに差し出した。


「えと……」反応に困った。

「ん? 指切りだよ?」

「指切り?」

「おいおい」父親が笑った。「指切りげんまん、嘘ついたらハリセンボンなーんとか、だろう。知らないのか? ネシティの旦那」


 そんな歌は聞いたことがない。


「知らない……」

「うそぉ!」ミカは目をくりりとさせて、「知らない人はじめて!」

「わ、わるいな……」

「じゃ、きょうがお初だね」今度は目を細めて笑った。「ほら、そっちも指、出してみて」


 おれは言われたとおりにした——ところが、親子ふたりは輪をかけて笑いだした。


「もー! 人差し指じゃないよ、小指!」

「え?」

「ま、いっか!」


 ミカの小指がおれの人差し指に絡みついた。


「指切り。約束だよ。アトラに行こうね、一緒に」


 楽しそうな顔で、ミカは腕を上下させた。

 その振動が腕を伝わり肩をゆらす。


 仕事ではない約束をしたのはいつ以来か。他人の躰に触れたのもいつ以来だろう。胸が騒いで、落ち着かなくて、恥ずかしいのかいやなのか、とにかく変な感覚がしてどうしようもなくて。


 ——すぐに指を離した。


「や、約束は守る。ネシティとして」おれは言った。

「お?」父親が反応した。「ネシティの仕事とは関係ないんじゃなかったか?」

「あ、そ、そうだ、ネシティとは関係ない。おれ個人の……、そう、予定だ。だから——」

「教えて」ミカが言った。「あなたの名前」


 名前……。

 そうだ。

 ネシティじゃない、おれの名前。

 仕事と関係ないんだから、名乗らないといけないのか……。

 さすがに登録番号を言う場面ではない。


「セト……」

「セト?」ミカは首をかしげる。「それって苗字?」

「おれの名はセト……。それしかわからない」

「ほんとにそれだけなのか?」


 父親はとても不思議そうだ。


「苗字なのか、名前なのかわからない。生まれたときからずっと、おれの名前はこれだけだ」


 ・…………………………・


 明朝の廃墟ビルは、赤子の泣き声によって静寂を失っていた。木箱の蓋が開いている。なかにはカビ臭い毛布と、一枚の手紙。そして生後数ヶ月の男児がひとり。


 雨が降っているうちは、空気が湿っていて、においもはっきりとしない。しかし、もう一時間もすれば空は晴れる。そうすると乾いた風が割れた窓を吹き抜ける。においは外まで届くことになる。


 これは計算か。あるいは偶然か。いずれにせよ、紙と無力な命とがおなじ箱に入っていることは、この世では非常識であり残酷だ。


 赤子は泣いた。己の状況を知ってか知らずか、とにかく泣き、喚き、鼻や口から透明の体液を絶えず溢れさせた。むくんだ両手は灰色のひび割れた天井に向かって伸びたり引っこんだりを繰り返す。母の手があるならば掴みたいその一心を現していた。


 遠くの山間から朝陽が顔を覗かせる。


 ほのかに赤い日光は、途中にそびえ立つ紫色の巨岩棘を抜けて、赤子のいる廃墟ビルの外壁を紫色に染めた。


 その棘は幾段にも切り立った強硬度鉱石で成形され、地球からすると全身を覆う病のようなもので、人間がそばで見上げると気が遠くなるほど高い、最長三三〇メートルの高さを有する半透明の巨岩棘——。


 二〇〇年前の全世界地震とともに、その棘は現れた。

 海底という海底から。

 地表という地表から。

 全世界は余すところなく棘に覆われた。


 棘は、人間界の常識ではまずありえない周波数の磁波を放った。太陽フレアのそれとも近しいようで、しかしまったくもって異質なその磁波を、あるアメリカの学者が「キル・ライン・パルサ」と命名した。


 それを受けて、世界じゅうに顕現した巨岩棘そのものを、人々は「キルラ」と呼称するようになる。


 未知の磁波を放ちつづけるキルラによって、電波という電波、通信という通信が潰殺された。有線接続だろうと容赦なく、特定の超低域周波数以上の信号はもれなくかき消された。


 棘は海底にも芽出し、海底ケーブルですら影響を受けた。世界はあらゆる通信技術を、一瞬で失った。


《地球は病気になった》


 この言葉はあまりにも有名になった。

 人から人へ、耳から耳へ、この言葉は伝わった。

 全身を棘に覆われた地球は、新たな生き物を作った。

 キルラは卵生動物にも影響を及ぼした。

 キルラに遺伝子汚染された卵生動物は変異を起こした。


 最初はささいな変化だった。

 鳥であれば翼が退化したりする程度の。

 虫であれば足の数が増減する程度の。

 魚であればヒレの形が変わる程度の。


 しかし年月をまたいで、その変化は進化と呼べるほどになった。鳥、虫、魚類、どれをとっても怪物と呼ぶにふさわしい育ち方をした。見た目のちがいこそ顕著であれ、怪物たちの目的はみなおなじだった。不思議とおなじだった。


 紙を食する——


 そのためなら、紙を保有する者を殺す。

 紙のそばに生物がいるなら息の根を止める。

 すべては紙を奪うために。

 それが、紙喰いという怪物の習性。


 廃墟ビルに当たる雨は足を弱め、次第に日差しが強くなる。昇る太陽は湿った風をきらい、代わりに乾いた風を呼ぶ。


 風は割れた窓を通って、木箱にぶつかった。


 赤子は泣いた。なにかを予感した。

 西の窓が割れた。

 そこはまだ、一枚板のガラスがあった。

 健全なガラス窓だった。

 窓をくぐったのは羽を持たない虫。全長二メートル。

 二〇〇年前はアメンボと呼ばれていた生き物。

 いまは面影がうすい。


 刺毛に覆われた胴体から、先の尖った六本の甲殻足。硬い壁も、この足を突き刺せばピッケルの要領で登ることができる。躰を支えているのは四本の長脚で、前の二本はそれよりは短い。カマキリの格好に近い。


 草履型の口は常に開いていて、ヒダのような歯が敷き詰められている。複眼をぎろぎろと動かし、万華鏡のような視界の中で、生き物は木箱を見つけた。


 顎下にぶら下がる三〇センチの有毛触角は嗅覚をつかさどる。漂う紙のにおいが、ひしひしと脳を悦ばせてくる。


 生き物は木箱に近づいた。円を書くためのコンパスに似た四本足を、とかっ、とかっ、とコンクリートの床に当て、歩き、正確に進む。そこまできたら胴を持ち上げて、複眼を木箱のなか一点に集中させる。


 紙だ。紙がある。

 だが邪魔だ。

 このうるさい生き物。

 ちいさい生き物。

 こいつをどかさないと紙は喰えない。




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