ー19ー
学者で、女で、剛腕で
「へっくしん!」
たがいに深く考えすぎて沈黙に嵌まった空気を、ヒナのくしゃみが切り裂いた。
「やっぱり寒いんじゃないか?」
「あ、いえ、脳に血流がいきすぎると、体のほうが冷えてしまうみたいで……、むかしからこうなんです」
両腕をさするヒナを見るや、おれは立ちあがって壁に備えられたエアコンのスイッチをひねった。室外機の動く音が聞こえる。ちょっとカビくさい空気が白い長方形の口から流れ出てきた。
「暖かくなるまで、すこしかかる。あれなら、そこの毛布でもかぶってくれ」
「あ、ええええ!」ヒナは顔を赤くしてベッドの上を見た。「そ、あ、いや、だう、大丈夫です! 考えるのをやめれば、すぐに躰は温かくなりますから……、へへへ」
「そうか……。まぁ、無理はするな」
「あ、ありがとうございます」
ここにきて、なぜ茶の一杯も出さなかったのかという自戒の念に襲われた。
「いま、温かい飲み物を——」
「あ、そんな! 気をつかわないでください」
「別に気なんかつかってない。気をつかっているのはあんただ」
「はう、なんだか、すいません……」
閉じたふともものあいだに両手をはさみこんで恐縮するヒナをさし置いて、おれはキッチンに向かった。
三畳ほどのせまい空間で、まったくといっていいほど使わない場所だから、あまり汚れてはいない。外出時には屋外のジェネレーターをオフにするから、冷蔵庫のスイッチもそれにともなって、オフのままだ。
注ぎ口が線のように細いやかんは、コーヒーを淹れるためにクルミからもらったもの。それ以外にも、ちいさな鍋があるが、あれはなんのためだったか。——そうだ、インスタントの麺を茹でるためのものだった。一度も使っていないけど。
ふつう、部屋のなかは使わないほどにほこりが溜まり、汚れていく。しかし、キッチンは使わないほどにキレイな状態を保つものだ。もちろんほこりは溜まるし、湿気があればカビが生える。しかし油汚れや食べ物のカスが、自然発生することはない。人は食事をしなければ、生きていられない。生きるために必要な場所ほど、使うほどに汚れて掃除がめんどうになる。皮肉なものだな、と思う。
こんな夜更けにコーヒーを淹れるのもどうかと、けっきょくマグカップに入ったのはただの白湯だった。たちのぼる湯気を鼻に感じながら、ヒナのそばに運んだ。
「熱いから、持ち手以外を持つなよ?」
マグカップを渡すとき、たがいの指が触れた。おぼんでもあればよかった。
「……」大事そうにマグカップを持つヒナの顔は、熟したリンゴみたいに真っ赤だ。「い、た、だきましか」
「大丈夫か? 言葉が変だけど」
「あ、いえ、大丈夫です。もーまんたいです」
また顔を赤くして、熱でも上げたのかと心配になるが……。まぁ、それならそれで連会で休んでいけばいいことだ。
「せ、セトさんって、優しいです。ほんとうに」
ヒナは言って、白湯をひと口飲んだ。先に冷まさなかったから、あちち、とくちびるをやられていた。
「白湯を出すくらい、だれだってできる」
「い、いえ、そんな、それにしても、優しいと思います。その……、心の底で光っている優しさがあります」
「そんなものがあれば、いいな」
「ありますよ。ぜったい、セトさんは持ってます。みんな、表面では優しいふりをするのが上手です。けど、心の底でぐつぐつと闇を煮えたぎらせているほうが多いように思うんです……」
ふと、これは言ってもいいものかと思っていたが、ヒナの胸を借りるつもりで訊くことにした。
「もしかして、ヒナって、かなりマイナス思考?」
「——だ、そうだと思います」
今度は顔の上半分が青白くなってしまった。
「勝ったな」おれが言うと、ヒナはきょとんとした。
「勝った、といいますと……」
「マイナス思考なら、おれの勝ちだ」
冗談のつもりで言ったが、とても冷たい空気が流れた。背中が寒くなった。
「あ——、わ、笑うところでした! ごめんなさい!」
「いや……」おれは顔を伏せて、「忘れてくれ」
やりきれない気恥ずかしさをどうにか堪えようとした。ヒナは慌てながら、次の話題を探そうとする。
「あ、と、ところで、キルラが発生させている磁波の特徴ってごぞんじです? インターネットや電話などが潰殺されているのは、ある一定数以上の周波数帯が潰殺されているから、なのです。とどのつまり、電気が使えるのは、その周波数がキルラの影響を受けない低周波だからなんですよ! よ、よかったですよね、もしこれで電気も使えなかったら、人間オワコンですよね、はははは……」
もしかして、ここは笑うところなのだろうか。いや、ヒナは大事な話をしているはずだ。笑ったら失礼だ。無表情をつらぬこう。
——突然、玄関からノックの音が聞こえた。
「あ……、お客さま、ですね……」ヒナが身構えた。
ノックの特徴で、だれがたずねたのかわかった。
「クルミ?」声を投げる。
「ごめーん、夜更けに。ちょっといい?」こもった声がドア越しに飛んできた。
「待ってくれ」
おれはドアを開けた。冷えて乾いた空気とともに、ダウンジャケットすがたのクルミが見えた。
「あ——」
クルミは玄関にあったヒナの靴を見た。すぐに躰をかしげて、おれの背後——ベッドに目をやった。
「ど、どうも……」ヒナが会釈する。
「あら、あらららら」クルミは目を丸くして、おれを見た。
「なんだよ」
「あんたやるじゃん! 手が早いねぇ!」そう言って肩を叩いてきた。
「ち、ちがいます——!」
ヒナは飛び跳ねる勢いでベッドから立ち上がった。その瞬間、手に持っていたマグカップは宙を舞い、回転し、なかの白湯はすべてこぼれてヒナの脳天にふりかかった。
「あぎゃー!」
熱さのあまり、ヒナは悲鳴をあげた。マグカップは床に落ちたが割れなかった。
「おい、まじかよ」おれはすぐに洗面所に行って、適当なタオルを持ち駆け寄った。
「だ、大丈夫!?」
クルミも慌てる事態となったが、白湯の温度はそこまでではなかったようだ。何度も謝りながら、ヒナは濡れた頭のまま外へ行った。しばらくして頭も冷えたのか、けろっとした顔でもどってきた。おれはそのあいだ濡れた床をぞうきんで拭いた。
「ほんとに大丈夫? ごめんねぇ、わたしが邪魔しちゃったせいで」
申し訳なさそうにクルミが言った。
「そ、そんな、そもそも邪魔されて困るようなやましいことはなにもありませんから、ははは……」
濡れてぺたんこになった頭をタオルで拭きながらヒナが答える。おれは掃除を終えて、ひとます代わりの白湯を入れた。クルミのと、ふたつだ。
「濡れた頭で外に出たら、風邪ひく。もう一杯、飲んでいったほうがいい」
ヒナにマグカップを渡した。
「ゔぉんとうでぃ、だにからだにまでずいまぜん」
鼻を垂らしながらヒナは言った。
つづいてクルミにもマグカップを渡した。
「それで、どうしたんだ? なにかあったのか?」
「うん? いや、あしたね。キヅキが墓参りに行くって言っててさ。もしあれなら、セトも一緒にどうかと思って誘いにきたの。まさかここにいるとは思ってなかったけど、ヒナさんもあとで誘うつもりだったの」
連会の奥、山道をすこし登ったところにネシティの墓地がある。そこにはこれまで死んだネシティたちが埋葬されている。遺骨があるものもあるし、ないものもある。いずれにせよ、ネシティとして殉職した者たちを弔っている。
「どうする? おれは行くけど」ヒナのほうを向いて、訊いてみた。
「あ、わ、わたしのような部外者が、いいのですか?」
「だれだって歓迎だよ」そう言って、クルミは白湯をひと口。「てか——珍しくてね。キヅキが、墓参りするっていうの」
あいつが墓参りをしたがらないのは、連会では周知のことだった。
「墓参りが珍しい……」ヒナが言った。「そんなに、行きにくい場所なのですか?」
「ううん、全然行きやすいよ」クルミは笑みをこぼしながら、「山道だけど、獣道をかきわけて行くわけじゃない。整地はされているし」
「——あいつの責任感の問題だ」
つないで、おれが言った。それを受けてヒナはすこし考え、すぐに結論した。
「つまり……。連会の長として、メンバーの命を守れなかった責任……?」




