ー18ー
学者で、女で、剛腕で
「え?」ヒナはこわばった笑顔になり、「あ、もしかして、その後に泊まられました?」
「おれは泊まってない。けど、掃除はした」
「ああ——」
あの汚部屋を見られたとあれば、顔が赤くなるのも無理はない。
「ずいまぜん」
「いいよ……。ふだんシェルターなんか使わないだろうし。次からは、なるべく掃除してくれると助かる。基本、次に使うやつは、そのまま使うことになるから」
「あああああぁぁぁぁ」
かなり恥ずかしそうにしている。が、すぐに彼女は——
「せ、生理用品のひとつくらい置いといてくださいっ!」と怒った。
「わるい。それは、シェルター維持班の課題だ。すまない」
少々気まずい空気が流れてしまったが、本題にもどらなければ。このままだと、ヒナは恥ずかしさのあまりに部屋を飛び出しかねない。全身がぴたりと固まって、顔は真っ赤。いまにも爆発しそうだ。
「それで、コルチゾールはなんなんだ? ドーパミンってのが快楽に作用するものだってのは、わかったけど」
おれが言うと、ヒナの表情がすこしやわらいだ。
「ストレスホルモンですね……。たったいま、わたしの脳もとてつもない量のコルチゾールを分泌しています……。血圧や脈拍が急上昇しているせいで、顔が真っ赤かと思いますが、それはコルチゾールが作用している証拠です」
「なるほど……。なんだか、ごめん」
「いいえ、わたしがわるいのです。シェルターを血まみれにした、わたしがね……、へへへへ」
その不敵な笑み、こわいぞ、やめてくれ。
しかしここは心傷を察するべきだ。
「体調がわるかったんだ。仕方ない。次から気をつければいい」
「あぁ……」
ヒナは頭を抱えて丸くなった。しかし数秒もすると顔をあげて、妙にすっきりとした表情になった。
「まだ、見られたのがセトさんでよかったです。迷惑かけた相手にこうして謝罪する機会がありましたから……。自分がやらかしたことの重大さも知らぬまま、のほほんと過ごしているよりは、そのほうがいいです」
この切り替えは見習うべきだ。
「それなら、シェルターの話はこれで終わりだ」
「セトさんが、ここぞとばかりにわたしを責める人じゃなくて、ほんとによかった」
「それはしない。くだらないし」
悪口を言われる側ならまだいい。言うほうになるのはごめんだ。口から毒を吐いている瞬間の顔は、かなり醜いものだ。できれば、そうはなりたくない。
「……コルチゾールって、言われたほうこそが分泌するものかと思いきや、そうでもないのです」ヒナは丸まった背中を伸ばして、「《《 言ったほう》》も、多大なストレスを感じるのです。そして、そこにはもれなくドーパミンがついてきます。悪口は、言うほどに依存してしまうのです……」
「つまり、自分を傷つけながら、相手を傷つけている?」
「そんな感じです。一種のドラッグといっても過言ではないかも……」
頭に浮かんだのは、小学校時代のいじめっ子だ。あいつらはけっきょく、脳内の依存物質にあやつられていたのか。
「二〇〇年前は人類史上においても、かなりの濃度で人間間のストレスが膨張していた時代だった、とわたしは推測します。温暖化による環境破壊や疫病の問題がつぶさに指摘されていた史実もあります。地球ですらも、大きな悲鳴をあげていたんです。そして、あまりにも愚かしいことに、一度は文明的に否定されたはずの戦争という行為も再燃しています」
その戦争もはじまりは言葉だったのだろう。他国から気に入らない言葉が届いたから、権力者は戦争に踏み切る。たとえば、おれが運んだ手紙によって、だれかとだれかが長期間のケンカをすることも、ありえるように。
個人と個人なら、まだかわいいほうだろう。
もしそれが国と国どうしだったら——。
関係のない民草を巻きこんでの、戦争だ。
「種々の事実を鑑みても……。人間、そして《《 地球そのもののストレス》》が溜まりに溜まっていた——、と考えることもできるのではないか。そう思います」
いつもなら、だれかとふたりきりになると疲れる。それはキヅキだろうがクルミだろうが、おなじ。人と話すという行為そのものがストレスだからだ。
しかしいまは、ヒナと話しているという感覚ではない。彼女が持っている知識という財産を分け与えてもらっている、という感覚。
直面してみるとあまり実感はないが、やはり楽園出身の、しかも学者という立場の人間と話すのは本能的に楽しいと感じる。
「キルラは、人間の神経物質と似ている成分——ってことは、もとは人間の体から放出されて、なんらかの経路を辿って、地球の土に染みこんだ……。そして地球の内側で溜まりにたまって、いよいよどうしようもなくなって、あの紫のトゲとして、現れた。そう考えることはできないか?」
かなりぶっ飛んだ想像だが、思いついたままをヒナにぶつけてみた。
「おもしろいですね、その仮説! ありえなさそうで、でも、ありそうな話に思えます……」ヒナは腕組みをして、うなずいた。「もし人知も科学もおよばないところで、その現象があったとしても、なんら不思議ではありません。科学で証明できないことを、存在しない、と断言するのは愚です。それが存在しない、ということを証明できない以上は、わからない、というのが正しい発言です」
——ストレス社会によって、人体やその他の媒体から、 知らぬ間にキルラのもととなる物質が放出されていた。それが地球の地下深くに溜まり、凝縮し、最後には返り刃として人類に牙をむいた……。
「それか、人間があまりに自分たちのことしか考えてなかったから、地球自身のストレスが限界にきた……、とか?」
「楽園の地層学者たちのあいだでは、その説を選ぶ人が多いのですよね……。ともあれ、二〇〇年前の時点でも、人類は宇宙の物質について四パーセントしか解明できていませんでしたので……」
「たったの四パーセント?」
「はい、たったのです。残りの九六パーセントは未知の物質……。キルラも、その未知にふくまれます。ので、人知などその程度だ、と宇宙さまからいわれればそれまでです、悔しいですけどね……。人間は、地球というフィールドにおいて、自分たちの頭脳こそが神であるかのようにふるまっていた。けれど、それは銀河の観点から見たら、ベビーゲートの内側にいる赤子が、おもちゃの遊び方を覚えた程度にすぎなかった」
その規模で考えてしまうと人間はなんてちっぽけなんだろう、って思えてくる。ちいさな命と、ちいさな命で、なにを争ったり、なにをケンカしたりしてんだろうって、ばからしくなってくる。
しかし人の目に映る事態は、それでしかない。
目の前にパンがひとつしかなくて、それをふたりで分けなければいけないとき。もし、となりのこいつがいなければ、パンをひとりで食えるのに——そう考えるのが人間という生き物だ。
いくら頭がいいふりをしていても、けっきょくは、腹を空かせた動物にちがいない。
なぜ、人は、地球のどの生き物よりも頭がいいのだろう。
頭がいいのに、なぜ、それを善良だけに使えないのだろう。
なぜ、人は、だれかを傷つけないと気がすまないのだろう。
「人の罪——。それは、人が人を攻撃することに執着していた事実をさすのではないでしょうか。さらにいえば、地球という星命への尊厳を忘れ、我がもの顔で繰り返された環境破壊の数々……。知恵があるがゆえに、豊かさを求め、豊かさを求めるがゆえに、人は傲慢を振りかざした……」
その結果、後世の生活はひどいものだ。
一歩街の外に出れば、一時間後の命もわからない。
数一〇キロ離れた場所に手紙を届けるだけで、何日もかかる。
これが、人類の望んだ《《豊かさ》》なのか? この生活があたりまえだからなんとも思わないが、過去を知るほどに、あまりに皮肉な話だなと思う。
「どんな人も、一〇〇年も生きれば死にます。四六億年を生きる地球から見れば、花火のような命どうしです。人が、人を、言葉や、兵器で、たがいに攻撃しあって、あわよくば命までも奪おうかという行為は度が過ぎています。短絡的に気に入らない者を排除しようとするのは、動物的な行動であり、賢くありません……」
ヒナはこれで締めのセリフになろう、という雰囲気を全身から漂わせて言った。
「わたし、思うんです。キルラは地球の病なんかじゃない。知恵の重みを忘れた人類に対する免疫だと。人が、人を攻撃することに躍起になっていたそのかたわら。地球は、人類そのものを排除しようとした。地球をいちばん苦しめていたのは、《《だれか》》ではない。人類という、たったひとつのカテゴリだった……」
人間が細菌に感染すると熱を出したり、ストレスを感じると、じんましんや口内炎を起こすように。人類の所業によって体調を崩した地球は、キルラを発症した。
ともすると。
宇宙からいわせると。
ただ、それだけのこと。
なのだろうか。




