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パンを食べたいだけだった
「……それなら、おれが会ったところで——」
「いいの!」娘は語気を強くして、「ただお母さんと会って、お兄ちゃんのふりをしてほしい……」
「おれは役者じゃない」
「大丈夫。むしろ、なにもしゃべらなくていい。お兄ちゃんも明るいほうじゃなかったから——あ、ごめん。あなたが暗いとか、そういう意味ではなくて……」
気まずそうな笑みだ。
「自分が暗い性格であることくらい、わかってる」
「ごめん、ほんとにごめん」
「それはいい。——母親にこの顔を届けてどうなる?」
問うと、娘は暗い顔になった。
数秒の間を置いてから、静かに口を開く。
「お母さん……、脳の病気で入院しているの。余命は三年くらい。いずれ脳死状態になるみたいで。勝手に徘徊したり、お店の売上をゴミ箱に捨てたり……。オーブンのタイマーをいじって、生焼けのパンを大量生産しちゃったり……。とても手に負えない状況だったから、アトラの病院に入れたの。そのせいで、うちは借金だらけの火の車よ……。まぁ、母さんが亡くなったら、その保険金で全額返済できる算段なんだけどね……」
重い話にはちがいないが、ここは仕事としての話を進めなければならない。
「ネシティは……、基本的に手紙を運ぶ。だから、おれの顔は依頼物にはならない」
「それなら、母さんへの手紙を書く。それを運ぶついでに顔を見せてあげて。わたしは勝手についてく」
「……手紙は運ぶ。だが、あんた自身を運ぶことはできない」
「もしわたしが死んでしまっても、あなたの責任ではない。それならいいでしょう? だって、わたしの独断だもの……」
その理屈でどうにかなるほど、徒歩の道は安全じゃない。
「紙を運ぶ以上、紙喰いに襲われる可能性はある」
「なら、わたしだけを運んで。手紙の件はなしで……」
「あんたは人間だ。依頼物にはならない。純政府の列車を使えばいいだろう。なぜ徒歩にこだわる」
「だってさぁ……」
むすっとした顔をして、娘はカウンターに両腕を置いた。鼻から不満そうな息を吐く。
「定期護送列車は一月に一便しかない。料金が高い。座席なんか絶対に座れない。立っていてもぎゅうぎゅう詰め。出稼ぎ帰りのおじさんばっかで、汗くさいったらない。それにわたしきらいなの、純政府の連中——どいつもこいつもみーんな偉そう。自分たちが法律だ、力だ、権力だぁあって。たしかにあんなライフル持ってたら、気分がよくなるのかもしれないけどさぁ……」
どこへ行っても純政府のきらわれようは変わらないな、と思った。
「頼りたくないの。お金を落としたくないの、あいつらに」
「だからって命を落とすことはない」
「あなたにならお金を落としてもいい。そう思った。だから依頼したい。おねがい、わたしと、あなたの顔をお母さんがいる病院まで運んで」
困った顔を返すしかなかった。
娘と同時に紙を運べば紙喰いに襲われる。
かといって娘だけを運ぶのは、ネシティの仕事ではない。
「あ!」娘はなにかを閃いた。「そうだ! わたしもネシティになればいいのか!」
ここは笑うところなのか……?
いや、娘は本気のようだ。
ネシティになるには一年以上の訓練が必要だ。紙喰いを自分の手で殺せる技術も身につけなければならない。
「ひかえめに言って、ばかな発想だと思うが……」
「あなたの弟子になる。見習いのネシティってことで、どうにかならない?」
こちらの沈黙が返答だった。返した表情も氷のように冷たかったと思う。娘の発言は、あまりに常識から逸脱している。
「すまない……。ほかを当たってくれ」おれは背を向けた。「パン、安くしてくれて助かった」
「だー!」娘はカウンターから飛び出してきた。「まってまってまって! 冗談だってば! ネシティがそんな簡単な職業じゃないことくらいわかってるって!」
おれは足を止めた。が、すぐにも店をあとにする決意は変わらない。
「この仕事は命がけだ。文字どおりの意味だ。若くて未来のある人間を、危険にさらすわけにはいかない。冗談でも、ネシティになろうなんていうもんじゃない。そこで聞き耳を立てている父親が悲しむ……」
はっ、と娘は振り返った。店の奥から店主が現れる。その表情は先ほどとまったく別だ。真剣で、男性的で、するどい気に満ちている。
「ミカ、よしなさい。見苦しいぞ」
「お父さん……」
「すまないな、ネシティの旦那。こいつ、もう一八になるってのにいつまでも子供じみたことを……」
「またばかにした! 子供じみたことじゃない! 自分で決めて、自分で判断しているの! 大人としての責任!」
「大人としての責任を語るなら、まずは一般常識を身につけなさい」店主は淡々とした口調で言ってから、こちらを見た。「ささ、暗くなる前に行っておくれ。宿を取ってあるんだろう? 娘の戯言につき合わせてしまって、わるかった」
戯言——。
戯言だったのだろうか。
たしかにミカの口から出てくるのは、少々ぶっ飛んだ提案の嵐ではあった。
だが母親を喜ばせたい一心を、戯言で片付けていいのだろうか。
「……」ミカは深く沈んだ表情で、「この人、お兄ちゃんに似てるから……。そうでしょ? お父さん……」
「おれに息子なんかいない」
「またそんなこと言ってる……」ミカは肩を落とした。
「わるかったね、ネシティの旦那。忘れてくれ」
なんともいえない気まずさを覚えたが、もう店を出る格好に入っていた。いまさら、ふたりのほうを向くのは気まずい。
「パン……、ありがとう。宿でいただくよ」
おれは店を出た。からん、と鳴ったドアの鐘は入店時とはうって変わり、とても寂しい音に聞こえた。冷たい風が頬に当たる。
うしろ髪を引かれるとはこのことか。心臓がぞうきんみたいに絞られる感覚が不快で仕方ない。なにか、ひどいことをしたようで。
おれの顔は、死んだ兄貴に似ている——
この顔をミカの母親に届けるだけ。
たったそれだけのことが、なぜできない……。
《——こういう決まりだから。こういう常識だから。あるいは、だますつもりで書いた書面ではこうなっているとかよ。人情を無視した契約書思考だと、その瞬間はよくても後々の人生を後悔しちまう。結果としては大いなるマイナスだ。あいつを元気にしたい、勇気づけたい——その手段としての理屈を考えるんだよ。理屈が先じゃねぇ。心が先だ——》
ふと、キヅキの言葉がよぎった。おれがネシティになる前に言われたことだ。あいつが酔っ払ったとき、よくそんなことを言っていた。当時はまったくもって、ぴんときてなかったが。ここにきて、その意味がすこし見えた気がした。
「理屈が先じゃない……」口からつぶやきが漏れる。「状況によって、最適の行動……」
棒に弾かれたように店にもどった。急にドアが開いたから、なかにいたふたりは驚いてこちらを凝視した。ミカの子犬みたいな瞳が、より一層つぶらだった。父親は、なにかを察したようにがっかりした顔をしている。
「あ……」おれ言葉に詰まる。おかしな緊張感——「えと、そうだ」
気恥ずかしさをこらえながら説明した。ネシティへの依頼としてミカの要望に応えることはむずかしい。が、おれ個人が休暇を利用して、ミカと行動を共にすることはできる。それは仕事でもなんでもなく、おれ個人の予定。ネシティとはなにも関係ない、と——
「いいの!? ほんとうに!?」
ミカは抱きつく勢いで寄ってきた。彼女の髪から焦げた砂糖の香りがした。