ー10ー
学者で、女で、剛腕で
連会の本部から三〇〇メートルほど離れたところに、おれの家がある。ほかの屋舎とおなじ半月型の屋根に、銀色の外壁。全体は金属で、そこもほかとは変わらない。ただ、ひとりが住むのに最低限の広さしかないから、全体のサイズはかなりちいさめだ。水まわりも水道とシャワーがあるだけで、料理をできるスペースも、ゆっくり浸かれる湯船もない。
外にあるジェネレーターをONにして、通電を確認してから、ドアにあるカードリーダーにネシティの免許証を挿しこむ。これでドアのロックが外れて、なかに入れるようになった。
いちいちジェネレーターをかまってねぇで、電柱から電気をひっぱってくりゃいいじゃねぇか、とキヅキには何度か提案されたことがある。
しかしおれは、その度に断っていた。そのための工事や手前を使うくらいなら、別の場所を直したり、整えたりしてくれ、といって。
ほとんど帰らないここを、家だとはあまり思っていない。ただ金庫やタンスがあるだけの倉庫、という印象のほうが強い。
薄暗い玄関で片方だけの靴を脱いだ。壁にかかっている乾いたぞうきんで、義足を拭き、なかに入る。カーテンが閉まっているので、光はほぼない。壁のスイッチを押して電気をつける。ベッドとテーブルだけの室内が明るくなった。天井では、シーリングファンが回転している。
まずはクローゼットを開けて、なかにある金庫のダイヤルをひねる。そこに、手持ちの金からいくらかを分けて入れて、金庫を閉じた。もうすぐこの金庫もいっぱいになる。今度金庫を増やしたら、五つ目だ。もし、小説をまとめて買える機会でもあれば、この金を全部捨ててもいいくらいなのに。
クローゼットの用は済んだので、次はシャワーを浴びた。躰を軽くして、着替えを済ませたら、ひとまずベッドで横になった。外すのがめんどうだったので、義足はそのままだ。
また天井に向かって、小指を伸ばす。
またミカの顔が浮かんだ。
いまは、どうしているだろうか。
近くにいるユヅキは、うまくやってくれているだろうか。
「突然、親がいなくなる……」
細い煙みたいな声が、すっと空気に溶ける前に、おれの耳へと飛びこんだ。自分で言っておいて、それがどうしたんだ、と思った。
人間はいつだってひとりだ。
だれかと融合することはない。
生まれるのも、ひとり。
死ぬのも、ひとり。
けれど多くの場合、そのそばには、だれかがいる。
すくなくとも生まれる瞬間は、母がそばにいる。
不思議なものだ。
なんで、人は、だれかとおなじ時間を過ごしたがるのだろう。
なんで、寂しさという感情を持っているんだろう。
なんで、会えるとうれしいんだろう。
なんで、別れがつらいんだろう。
そんなことを考えていると、眠くなってしまって。
ここが夢のなかなのか、現実なのか——わからなくなった。
まっくらだ。深い漆黒のなかを泳いでいる。水かきやクロールをしているわけではない。ただ立っているだけなのに、躰は勝手に寝かされて、なにかに吸いこまれるように移動している。
そうか、泳いでいるんじゃない、飛んでいるんだ。あまりにも暗いから、ここが光すらも当たらない海の底なんだと、おれが勝手に思っただけだ。
「武器がない……」
ベッドに顔をうずめて言ったときよりも、自分の声はこもっていた。風の音ははっきりと聞こえるのに。
左足に違和感があった。視線を落とす。
「うそだ……。足が、ある」
だが、どうしてだろう。右足とおなじように存在している自分の足が、いやでいやで仕方がなかった。あれほどほしくて、ほしくて、仕方なかったのに。
「やめろ、やめてくれ、おれの足を、足を返してくれ!」
気づくと叫んでいた。はっきりとした音で声はひびいた。さっきみたいにこもっていない。
「セト。どうしたんだ」キヅキが横にいた。
「キヅキ、いたのか。なぁ、どうして足があるんだ、どうなっている」
「それはおまえが望んだんだ。それが、おまえの普通だ」
「ちがう。おれは足がない。ないのが普通だ」
「そんなことをいうな。現実を受け入れろ」
「現実……? おれの現実は——」
急に目の前がムラサキに染まった。躰はなにかにぶつかって、跳ね飛ばされた。しりもちをついた瞬間、景色のすべてが変わった。
「ここは……?」
見渡すかぎりが廃ビルに埋め尽くされている。地割れのひどい、コンクリートの道。乱雑に放置された二〇〇年前の車たち。それらに絡みつき、巻きついて、死んだ文明を締めつける幾千もの植物。
——咆哮がひびいた。さっきぶつかった紫の塊は、カラスの紙喰いだった。何日か前、簡単に討伐したやつだ。のろまで、飛べない翼を気味わるくうねらせ、風船のように膨らんだ巨体で、なにもかもを押しつぶしながら移動をする。
おれの左手が勝手に腰へと動いた。いつものようにトリガーを引こうとする。しかし、そんなものはない。なぜなら左足が義足じゃないから。
「どうしたら、どうしたらいい」
狼狽えながら立とうとした。
まだ、立ってすらいなかったんだ。
「ああ——」
だめだ、左足に力が入らない。義足じゃない足の使い方が、わからない。何度立とうとしても、まるで麻痺しているみたいに、左足が使いものにならない。
「た、助けて——、キヅキ!」
情けない声だった。きょろきょろと辺りを見渡して、だれかを探した。紙喰いが動いている。地ひびきが下半身を振動させる。独特のゆれが、嗚咽を誘う。
「立てるだろ?」キヅキの声が、頭の上から聞こえた。
「立てない」
「なんで立てない」
「わからない、わからないんだよ!」
「セト——」今度は女の声だ。
「だれだ、どこから呼んでる」
「セト、まだなの? わたし、ずっと待ってるんだよ」
前方にミカがいた。その背後には、紙喰いが。
「ミカ、逃げろ! 潰されるぞ!」
「ねぇ、セト」ミカは動こうとしない。「わたし、死んでもいいかなって思ったの。でもね。あなたが生かしてくれた。死んじゃだめだって教えてくれた。それなのに——」
あなたの心はいっつも死んでる
「そんなわけない」
「なら、証明して。あなたが生きているってことを。——わたしのところにきて。あいつよりも早く」
「あ、ああ、行くよ。行くから」
「ほら、急がないと、わたし、紙喰いに潰される」
「くそ……、動け、動けよ!」
拳をつくって、左足を何度も殴った。痛みはちゃんとわかるのに、動かそうとしてもまるで力が入らない。
「ああ! ああ——! どうして、どうしてだよ!」
いつのまにか流れていた涙のせいで、ぼんやりと滲む景色——おれはあせってミカを探した。
「セト——」キヅキの声。
「セト——」クルミの声。
「セト——」知らない女の声。
目に腕を押しつけて、涙を拭った。どうにか視界はすっきりとしたが、前方にいるはずのミカが見えない。紙喰いはさっきよりも近い位置にいる。そいつの足元に血溜まりが見えた。
「うそだ、うそだ、やめろ、やめろ」
咆哮が耳をつんざく。おれも叫んだ。言葉になどなるはずがない。ふと——左足が義足にもどっていることに気づいた。すぐに立ち上がる。刀も腰にあった。抜刀に迷いはない。
さらになにかを怒鳴りながら紙喰いに向かって走った。トリガーを引いて、そいつの身長よりも高く飛び、のろのろとしか動かないやつの脳天に刃を埋めこんでやった。叫んで、叫んで、アクセルを全開に噴かして、焦げたにおいの血飛沫を顔じゅうに浴びてもまだ声を荒げてやった。
——急に無音になり。
また、漆黒のなか。
今度は落ちている。
重力にひっぱられて、どこまでも、どこまでも、暗闇の底へ沈んでいく。
「セト」どこからか、知らない女の声がする。「あなたを守れなくて、ごめんね。また会えるからね。ぜったいに探しだして、また抱きしめるからね」
《約束だよ》
無意識にも、心が温かくなる声だった。おれの体のどこに、これだけの水分があったのかってくらい、涙が溢れて止まらなかった。そしておれの口は、勝手に言葉を発していた。
「母さん……?」
——ドアをノックする音がする。
ほこりと、カビっぽいにおい。
かすかに聞こえる、ジェネレーターの音。
ここは、そうだ。連会の、おれの部屋だ。
「セト——!」ドアのむこうで、クルミが叫んでいる。「大丈夫? ねぇ! 生きてんのー?」
暴れる心臓のせいで、眠気はすぐに飛んだ。まずは上体を起こして、サイドテーブルにあるランプに手を伸ばした。やんわりとしたオレンジの明かりが部屋を照らす。殺風景な室内は、いつか、キヅキに牢獄みたいだな、といわれたっけ。
「いま行く」おれは声を投げた。
「よかった! 死んだかと思ったわ、もう……」
ドア越しにクルミのこもった声が聞こえる。
「わるい」
ベッドから降りて玄関に向かった。適当に頭を掻いて寝癖を整えてからドアを開けた。クルミのすがたと、夜の空が見えた。あと、クルミの背後にだれかいる。
「大丈夫?」クルミは心配そうに言った。「疲れてたんじゃん?」
「そうみたい」おれは視線をずらして、「——リョウか?」
「うん。ついてきたの。ってか、ロビンばぁの工場に行こうとするついでに、セトの様子を見ようってなって。家からなかなか出てこないから、死んでんじゃないかと思って」
冗談らしく言って、クルミは笑った。
「まぁ、この子のお目当てはセトでも、工場でもないんだけどさ」
「そんなことない」リョウが言った。まだ、クルミのうしろに隠れている。「ぼくだって、セトに会いたい気持ちくらいある」
「——なら、顔見せたら?」クルミが言う。
リョウは恥ずかしそうにしながら、一歩横にずれてすがたを見せてくれた。まっくろで若々しい髪は刈り上げた短髪。真四角のメガネはレンズ越しの景色が拡大されていて、度の強さを醸している。おれとおなじくらい、体の線が細い。キヅキにもっと食えといわれているのが想像できる。顔はどちらかというとクルミ似で、目は丸っぽいアーモンド型だ。
「ひさしぶり」
こういうときの笑顔は苦手だな、とおれはいつも思う。




