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パンを食べたいだけだった
街中は店が多かったから、ゆっくり歩くことは苦にならなかった。宿のチェックインも済ませたので、たまには買い物もわるくないかと思った。
ちょうど小腹が空いたから、ベーカリーに入った。茶色の木製ドアに、楕円形擦りガラスで作られた小窓がある。かわいらしい見た目だ。開けると、からん、と鐘の音がした。
「いらっしゃい」
黄ばんだ新聞を読みながら声を投げたのは、中年男性の店主。いかにもパン屋らしい白い頭巾と、白いエプロンを着ている。ふくよかな体型のためか、服が風船みたいに張っている。——きのう倒したカラスが頭をよぎった。
「もう閉店近いから、全品半額でいいよ。パンも冷めているから」
パンよりも店主が持っている新聞が気になった。
「その新聞、いつのだ?」
「え?」店主は視線を上に流して、「二〇一九年、一月七日だね」
「どこで手に入れたんだ?」
「ああ、三軒となりに古本屋があるんだよ。そこで品の入れ替えがあってね。ちょうどおなじ日付の新聞が六部もダブっていてさ。格安で買えたんだ」
「いくらだった?」
「半額で、二ルキ。二〇一九年当時はニマンエンとか呼ばれていた額だね。あんたもこういうのに興味がある口かい? 読みたいなら、すこし金をもらわないとむずかしいなぁ。自分以外の手汗は避けたいところだね」
こちらとしても、他人の唾がついた新聞に触りたいとは思わない。
「新聞には興味がない。その古本屋は小説を扱っているか?」
「まさか」店主は鼻で笑った。「すくなくとも、あの店には一冊もない」
またこの流れか……、と肩が落ちる思いがした。
「あんた、小説を探しているのか?」店主は新聞を畳んだ。「読んだことは?」
「一九年生きてきたなかで五冊だけ」
「ほう……。多いな。おれなんかもうすぐ四五になるが、やっと七冊読めたくらいだよ。純政府もおかしなことをしたよな、まったく……。知的財産を集めるだけ集めて、《《余計なもの》》は焼くだけ焼いて……。まぁ、それも仕方ない。紙喰いなんていう魔物がいるうちは、妥当な政策だぁね」
話していると、店のドアが開いた。
店主は客の顔を確認して、おかえり、と言った。
「あ、いらっしゃい」
若い女の声がおれに投げられる。察するに、入ってきたのは店主の娘だ。
「あ! お父さん! またこんなところで新聞読んで! 貴重なんだから部屋で読んでっていっつも言ってるじゃん! 新聞にパンのにおいが染みついたって、あとからグチるくせに!」
娘は急にきゃんきゃんと怒りだした。見た目からしても子犬みたいだな、と反射的に思った。
「おう、すまんすまん。知的好奇心には逆らえなくてねぇ」
店主は新聞を丁寧に畳み、そばに置いてあった木箱のなかに優しく収納した。
「見苦しいところをごめんなさいね」
娘はすたすたと歩き、腰の高さのスイングドアを通って、カウンターのむこう側へ移動した。
「好きなパン、持ってきて。五個で三ルー(日本円の三〇〇円)にしてあげるから」
「おい、それじゃ半額以下だろう」
「いいの!」娘は強く出る。「お父さんのせい! 帰宅ラッシュの時間なのに客引きのひとつもしないから、こんなに売れ残ってるの! ばか!」
「そいつぁわるいねぇ。そんじゃ優秀な看板娘さんに、あとの片付け頼むわぁ。おれ疲れたし、寝る」
店主が立ち上がると、座っていた木製の椅子がびきっときしむ音を鳴らした。重量から解放された反動で鳴ったのだろう。
「はぁ!? 全部わたしがやるの!? 洗い物も品さげも札おろしも全部!?」
「おまえがパンを安くしすぎたから、からだで払ってちょうだい」
「なにそれ! マフィアみたい! くそおやじ!」
こちらからは怒る娘の背中しか見えず、さぞ険しい顔になっていると想像したが、振り返ると満面の笑みだった。
「ご、ごぉめんなさぁい」すこし引きつった笑みではある。「ささ、パン、好きなの選んで」
「そうする……」
並んでいるパンは、たしかに表面の潤いが抜けているように見える。けれどふっくらとして、形には問題がない。すこし火で炙れば最高の噛み心地を提供してくれるはず。
スタンダードなロールパンに、エッグサラダがサンド——それだけ真っ白なロールパンだったからすぐに目についた。ひとつ目はそれにした。形を崩さないように木製のトングで掴み、木製のトレイに乗せる。
「あ、それねぇ、うずらのタマゴを使ってるの。ニワトリのタマゴなんて高級すぎて買えないよね、えへへ」
カウンター越しに娘が話しかけてくる。
おれは適当にうなずきながら次の品を選ぶ。
「あ! いま見たやつ! 切り株みたいでしょ! プレーンもいいけど、フレンチトーストにしたやつもあるから、わたしはそれがオススメかなぁ」
それならば、と切り株パンのフレンチトーストを選ぶ。あまり甘いのは好きではないが。
「あ、それ! その……、右にあるやつ、そう、それ! それはうちの人気商品でさぁ。なんの変哲もない、ただの丸いパンって感じでしょ? ちがうのよぉ。かじったらびっくり。なかからとろーりカスタードクリームがこんにちわぁよぉ……」
光悦の表情で娘は語る。
「あ、いまは夕方だからこんばんわぁ、か……」
そこはどうでもいい。
「あまり甘いのは好きじゃない……」
「え、そうなの? 珍しいね」きょとんした目が、やはり子犬だ。
「ベーコンが入っているのとか、ないか?」
「あ、あるよ、そこの——」娘は背伸びをして、「あ……、ごめん売り切れてた。それじゃあ……。その左の上にあるやつ、それはツナを挟んでるから甘くないよ?」
「わかった。これにする」
さらに、娘がオススメだというクルミパンと羊のチーズパンを選んだ。レジに運んで会計を済ませる。これだけのサイズのパンが、たったの三ルーで買えるのはお得だ。申し訳ないくらいに。
「ねぇ、あなた……」レジの引き出しを押しこみながら、娘は静かにいう。「ネシティ、だよね? ちがってたらごめん」
娘の視線が腰の雷駆刀に当たっていたのは気づいていた。刀の鞘に装着されている金属ボトルも目立つ特徴だ。納刀すると、このボトルから刀の鍔元に備えられた超小型エンジンへ、燃料が自動充填される。鎖帷子に覆われたショルダーバッグを肩にかけている物好きもネシティくらいだろうし。立っているだけで職業を公表しているようなものだ。
「そうだけど……?」
こちらが答えると、娘は神妙な顔をした。
なにか、言いにくそうな話があるような顔だ。
「あのね……。届けてほしいものがあるの。ある人に……」
「すまない」ここはきっぱりという。「次の予約が入っている」
正確には予約の予約が入っている、というだけだが。
「そっかぁ……」娘は残念そうに、「またこの街、もどる?」
「そうだな……」おれは、この先の行程をすこし考えた。「ここは東側に行くための中継地点でもあるし、次に行く街は海沿いだから行き止まりみたいなものだ。どっちみちもどってくると思う」
「いつになる?」
「それは、わからない」
「うーん……」
「別のネシティに頼んだほうが早いんじゃないか?」
「そうなんだけど……」
おれじゃなきゃいけない理由はないはず。
「あなたがいい」
「は?」
「似てるの。顔が」
「顔?」
「うん。お兄ちゃんに」
「それと、ネシティの仕事になんの関係が?」
「届けてほしいの。その顔を」
娘はひと呼吸置いた。大人の女性たちの賑やかな話し声が店の軒先をとおり過ぎていく。それとは対象的に店の中は静まり返った。
「ここから東。一九〇キロ先の街。わたしのお母さんがいるの」
「一九〇キロ先……」
まっさきに浮かんだのは、ここら一帯で最も栄えている大都市・アトラだ。純政府の取り締まりも強い、厳重法治地帯——。
身分が弱い人間にとっては、あまり住み心地はよくない。しかし病院などの施設が充実している部分はある。
「定期護送列車で会いに行けばいいんじゃないのか? その……、兄貴と一緒に」
「お兄ちゃんはいない。死んでるって、お母さんが言ってた……」