ー13ー
それは、神でもなんでもない
「おれには関係ない。生まれてからずっと、血縁の家族はいない。いるのは育ての親と、仕事の仲間だけだ」
歩きだすと、ひどい幻肢痛におそわれた。ずん、と重い痛みはひさびさだった。針につつかれるような痛みはよくあるが、ここまで重いのはよほどじゃないとこない。きっと躰が赤子のころを思い返しているのだろう。
ふたりのいう人物がおれの母親だったとして、すでに捨てられた命だ。七年前に、そいつがどんな心境だったかしらないが、いつだろうとおれの気持ちは変わらない。一九年のあいだ、変わったことがない。
「——あんたは親なんかじゃない——」
うしろを歩くふたりには、いまの言葉は聞こえなかっただろう。それくらいにちいさな声で言った。しかも西の方から強い風が吹いた瞬間でもあったから、なおさらだ。
西の空には鈍色の雲がうすく漂っていた。
遅くとも、明日の昼には天気が崩れるだろう。
西からの風は、たいてい雨雲を運んでくる。
いたって普通のことだ。
おれは母親に感情を動かすことはない。
会いたいとも、殺したいとも思わない。
いたって普通のことだ。
シェルターに着いたころには陽は落ちていた。本来は宿泊資格のある人間しか泊まれないが、今回は特例だ。病人がいる場合はそのかぎりではない。
金属の入り口を開けて、いつもどおりにジェネレーターの電源を点ける。ドアのロックが解除された。部屋のなかから他人のにおいが溢れてきた。昨夜、だれかが泊まったらしい。
ベッドメイキングはされていない。まるで犬が荒らしたあとみたいに、毛布やシーツがめちゃくちゃだ。保存食を食い散らかしたその空き缶が床に散乱している。部屋に入ってすぐがこの光景なら、トイレや風呂は期待できない。もしきれいだったら奇跡だ。
「すこし待ってくれ」おれはベッドに向かった。「すぐにシーツを替える」
「ありがとう」リンジが言った。「サキ、そこのデスク——椅子に腰かけようか」
サキは青い顔でうなずいた。ここまでの道中、元気そうにしているときもあったが、いまは体力の限界がきている。早く寝かせないといけない。昨日、ここに泊まったやつをちょっと恨むぞ……。まず掃除からだ。
使用済みのシールを丸めて、脱衣所に行った。
……予想どおりだった。
湿ったタオルが床に散乱していて、生乾きのにおいが充満している。洗面所にも歯ブラシやクシなど、アメニティのゴミが放ってある。水滴だらけの洗面ボウルにビニールのゴミが貼りついていた。
使いたいだけ使ってあとは知らない、というパターンだ。
「ああもう……、なんなんだよ」
グチったところでゴミは片付かない。ここは心を無にして、掃除に徹するまで。
「あの……、セト?」
タオルを拾っていると、リンジがうしろから声をかけてきた。
「どうした?」
「水って、どうやって飲むのかな」
「え? ——プラスチックのコップがあるだろ?」
「それがないんだ」
「マジかよ……」おれはうんざりの顔をした。「たまにいるんだよコップを持っていっちまうやつが……」
「そりゃ、まいったね……。じゃ、いったんきみの水筒に水を入れてから——」
「いや」おれはさえぎって、「大丈夫だ。備品用のパントリーがある。そこの南京錠の番号は、シェルター維持班しか知らない」
「セトは……?」
「元、シェルター維持班だ」
とはいえ、南京錠の番号は定期的に更新される。おれが維持班だったころは、五つのパターンからランダムに番号が選ばれていた。そのパターンをいまだに覚えてはいる。が、もし種類が増えていたらアウトか……。維持班統括のアンザイというおっさんの顔が浮かぶ。
「頼むぞアンザイ……。新品のコップが使えるかどうか、あんたにかかっている」
洗面所の掃除はひとまずとして、おれはすぐにパントリーに向かった。発電用のジェネレーターのそばにパントリーがあるので、いったん部屋から出る必要があった。
部屋を通るとき、ちらりとサキの背中が見えた。背中を丸めてデスクに突っ伏していた。かなり体調がわるそうだった。
「すぐにパントリーを開ける」おれは声を投げた。
「う、うん、ありがとう」リンジの返事が飛んできた。
金属製のドアの前に立ち、南京錠に触れる。
「1989……」
開かない。
「2024……」
開かない。
「3339……」
開かない。
「5054……」
開かない。
「うそだろ……」
いやな予感が心臓をぎゅっと締めつけた。
番号が根こそぎ更新されている可能性がかなり高い。
最後の望み——、おれが知っている最後の番号に合わせる。
「4890……」
——開かない。
「終わった……」
ここはあきらめるしかない。そう思った。
だが、まだ望みを捨てたくなかった。
アンザイのことだ、もしかしたら適当な番号を設定しているかもしれない。さんさんさんきゅー、がいい例だ。おれは思いつくままに番号を合わせていいった。
八回目で南京錠に手応えがあった。さっきまでの無反応がうそみたいに、南京錠はするりとU字の金具を解いてくれた。
「5656かよ……」
アンザイは犬を飼っている。しぶいおっさんが顔面をふやかすほどに溺愛している黒い柴犬。名前はコロだ。
番号に迷っているとき、ふとコロの顔が浮かんだ。いつも口を開けて、はぁはぁと忙しなく息をつきながらモップみたいな尻尾を左右に振る——かわいいやつ。
「助かったぜ、コロ……」
ネシティ連会に帰ったら、まずコロにジャーキーをあげよう。そう思いながら、新品のコップとふわふわのバスタオルをありったけ抱えて、おれは部屋にもどった。
「あ、ありがとう、セト」リンジはすぐに駆け寄って、運ぶのを手伝ってくれた。
「タオルはおれが洗面所に運ぶ。コップを持ってくれ」
「う、うん」
「あと、パントリーにあるクシとか缶詰とか。そのへんも、いまのうちに取り出しておいてくれ」
「うん。そうする」
リンジは答えつつ、透明なコップに水道の水を汲んだ。すぐにサキのところへ持っていき、介抱を再会した。
おれは洗面所の掃除にもどった。使用済みのバスタオルを洗濯機に放りこんでやった。見ず知らずの他人が使ったものを洗うのは抵抗があるが、しかたない。
シャワールームに入ると、長い毛が排水溝の網にからみついていた。鏡には洗剤の跡が残っているし、風呂も水を抜いていない。
ここまでくると、むしろ掃除のしがいがある。
汚してくれてありがとう、とすらいいたい。
「元シェルター維持班なめんなよ……」
目につく汚れはすべてスポンジでこすり、洗い流した。髪の毛の一本すら許さず拾った。きょうこの風呂を使う人は、気分がいいはずだ。
洗面所まわりが整ったところで、おれはトイレに向かった。
ぱっと見た感じ、ひどい汚れがあるわけではなかった。ここは普通に使ったらしい。
しかし備えつけのゴミ箱に目がいった。洗面所にあるはずのハンドタオルが一本、見当たらないと思っていたが、ここにあった。それも血まみれで。
だれかを切った刃物をタオルで拭いたのか? そんな探偵小説まがいの事象がありうるだろうか。シェルター密室殺人だとしたら、おれたちはすでに遺体を見つけているはずだ。
それよりもはるかに可能性が高い推考がめぐった。昨晩、このシェルターを使ったのは女性だった、ってことだ。
「……体調がわるかったのか」
だとしたら、シェルターのなかが乱雑になっているのも理解がおよぶ。昨晩、ここに泊まった女性は、なにかを期待してシェルターを利用した。が、ここに気の利くものは置いてなかった。
そして月一回の体調不良に見舞われ、なにもかもどうでもよくなった……。
おれは一度部屋にもどった。ゴミ箱のなかのビニール袋だけを取り出した。トイレにある血まみれタオルもろとも、シェルター内のゴミというゴミをすべて集めようとした。
そんなおれの背中にリンジが声をかけてきた。
「あの……、セト、ちょっと言いにくいんだけどさ……」
「どした?」
「生理用品って、あったりする? サキが、その、そろそろかもって……」
「……わるい、置いてない」
「そっか……」
「タオルなら、たくさんある」
おれは棒のような口調で言った。地下室なのに冷たい風が吹いた気がした。この気恥ずかしさはなんだ。
「なんでもいい……」デスクにうつぶせだまま、サキが言った。
おれとリンジは返す言葉に詰まった。妙に気まずい空気が漂う。サキは深いため息をついた。そして、ちいさな声でなにかを言った。聞きとれなかったが、あまりいい言葉ではないだろう。なんだか情けなくなった。
シェルター維持班統括にふさわしいのは、アンザイのようなおっさんではない。良識と知見のある女性だ。おれはそれを身にしみて感じた。




