表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カルタ・ネシティ  作者: 燈海 空
パンを食べたいだけだった
11/42

ー11ー

パンを食べたいだけだった


「いや……、もう支度をしてしまった。いまから部屋にもどるのも……」

「そうだよね」女性は朗らかに笑った。「なら、ちょいとお待ち」


 女性はいったん部屋の奥に消えた。三分後くらいにもどってくると、片手に蓋つきの紙カップを持っていた。カップの腹にはダンボールが巻きついている。手で持っても熱くないように、配慮してくれた。


「いいのか?」

「いいよ。持っておいき。急いでなきゃ、どこかでゆっくり飲んでいきな。まちがっても、カップを持ったまま街の外に行くんじゃないよ。紙だからね。怪物に襲われちまうさ」

「わかってる。それに関してはプロだ。心配いらない」

「そうだよね。ネシティも大変だろうけど、躰に気をつけるんだよ」


 まるで母親みたいな女性に礼を言って、おれは宿をあとにした。近くに公園があったので、ベンチに座って食事をとることにした。どこも砂だらけだ。まずそれを払わないと、とても座れたものじゃない。


 だれもいない遊具も砂をかぶっていた。昨日の砂嵐はよほどひどかったらしい。今朝が無風でよかった。風が吹いていたらまだ宿にいただろうし、食事も屋内だった。


 朝の空気を吸いながら、パンをひとかじり。冷めているが、味はよかった。ミカの顔が浮かぶ。そっとカップに口をつけて、コーヒーをすする。ユヅキの店で飲んだのとは、またちがった味だった。こっちのほうが酸味が強い。


 ふぅ、と息をつく。苦い吐息が口から漏れる。きょうにもここを発つのに、なんだか実感がない。まだ二、三日滞在するような気分がする。


 ぼやりと投げた視界には、背の高い灰色の建物たちがいくつも見えた。


 ビルというらしい建物には、どれも幹の太い植物がぐるりぐるりと巻きついている。あれはあれで、植物によってビルの姿勢が維持されているらしい。だからあえて除草せずに残しているのだとか。


 自然の力によって街は半壊したのに、自然の力によって支えられている——不思議なものだ。人間は、人間こそが神だと思ったから、あんなに背の高い建物を作ったはずなのに。


 むこうの通りに、慌ただしい人だかりが見えた。

 純政府の人間が何人か走っていく。

 全員ライフルを手に持っていた。戦闘要員だろう。

 気になったが——

 おそらく関係ないだろうし、彼らで解決するはずだ。


 しかし——


「紙喰いが街に侵入! 急げ! むこうの商店街だ!」


 隊員が慌ただしく向かう方向には、ミカのパン屋があった。



 商店街へ近づけば近づくほど、街は騒然としていた。とにかく逃げろ、そこから離れろ、と叫ぶ群衆の波に逆らって、おれは走った。


 しばらく行くと、純政府の装甲戦車が左手の道に見えた。砂にまみれたアスファルトの道を進んでいる。おなじ方向へ行こうとするおれを見つけたのか、車長用のハッチが開いて中から軍人が頭を出した。


「おい! そっちは危険だ! もどれ!」


 グレーの都市迷彩で全身を包んだ中年の男が、こちらに叫ぶ。


「知り合いがいる! 助けに向かう!」

「だめだ! やめておけ! 我々の仕事だ!」

「関係ない、あんたらはあんたらでやればいい!」

「おい、純政府に逆らうのか!」

「最初から従ってなどいない!」


 おれは男の指図を無視した。道を急ぐ。徒歩でしか行けない細い道を走れば、図体のでかい戦車よりも早くたどり着くはずだ。


 路地裏に入ると、とたんに日光が大人しくなる。大通りにでれば、すぐに太陽が満面の笑みで照らしてくる。明るい場所から暗い場所、その逆——連続する明暗に瞳を慣らしながら、とにかく速く、とにかく急いだ。


 商店街に近づくと聴きなれない音がした。巨大なホラガイが吹かれたような、一定で重みのあるひびきに首根っこを掴まれるような感覚。それが紙喰いの咆哮であると察するのは容易だった。あんな音、人間が鳴らすわけがない。緊急時のサイレンですら、もっとちがう音のはずだ。


 商店街に入り、あたりに背の高い建物がなくなったが、紙喰いの姿は見えない。咆哮の大きさからして、かなりの巨体であるはずだが——。


「おい、セト!」背後からユヅキの声が。「えらい騒ぎになってるぞ!」

「まだ相手が見えない。でも、声からして近いはずだ」

「逃げてるやつが叫んでたんだ。あれはワニだ、ばかでかいワニだ、って……」


 全長でいえば一〇メートル近くあるかもしれない。が、全高でいうと二、三メートルあるかどうかだろう。二足で立ち上がりでもしないかぎり、建物より低い姿勢で這っていると考えたほうがいい。


「すまない、ユヅキ、話している暇はない」

「倒しに行くのか?」

「知り合いがそこのパン屋に住んでいるんだ」

「ミカか?」

「知っているのか?」

「近所だからな。大丈夫だろ、もう逃げているはずだ」


 ユヅキはそう言ったものの、どうも胸騒ぎがしてならない。


「いちおう訪ねてみる」

「……わかった、あそこはミカとパン屋の親父さんしか住んでいない。すぐに来いよ! 純政府だけじゃ頼りねぇからな!」

「わかってる、先に行ってくれ!」


 五〇メートルほどむこうの建物が大音を鳴らして崩れ、灰色の煙が充満するのが見えた。その光景は敵が近いことを語っていた。走りながら、ユヅキは一度こちらに振り返ってこくりとうなずいた。やばいぞ、早くなんとかしねぇと……! そう言っているような顔だった。


 ドアをぶっとばす勢いでパン屋に転がりこんだ。キョロキョロと店内を見渡したが、だれもいない。焼きたてのパンの香りが、この状況のせいでとても切なく感じられる。せめて、紙喰いがこの店を潰すようなことだけは避けたい。


「ミカ! いるのか!」


 呼んでみたが返事はない。店の外から戦車が走る音が聞こえる。店内からは、なにも音がない。


「いないか……」


 もう逃げたのだと思った。おれは店を出ようとする。


「セト……」ミカだ。店の奥から、のれんをくぐってこちらへ——

「いたのか! 早く逃げろ!」

「どうしよう……」


 その顔は真っ青だ。狼狽をとおり越して、絶望と悲嘆に打ちひしがれている。ひどい表情だ。


「なんだ、なにがあった!」

「お父さんが……、動かないの。朝いつもみたいにパンを焼いて、ちょっと休憩するって、それきり……」

「は!? ——どこだ!」

「こっち……」


 ミカに連れられて、すぐに店の奥へ行った。父親の部屋のドアは開いている。ミカは片手を胸の前で握っているだけで、ひどく怯えている。


 部屋に入ると、ロッキングチェアに全身を預け、両腕をだらりと垂らしている父親がいた。くちびるはぶどうの色。眼球は上をむいて半分が白目だ。


「うそだろ……」死んでいるのか、と言いかけたが言葉を呑んだ。

「どうして、お父さん……」


 静かすぎるミカの声とは対照的に、店の外は喧騒を増していくばかり。大人たちが叫ぶ声、女性の悲鳴、大砲かなにかが撃たれた音、そしてホラガイみたいな咆哮——。


「ミカ、これ以上ここにはいられない」

「やだ……、やだよ」

「まずは逃げないと、店が危ない!」

「やだ……、やだぁあ!」


 堰を切ったようにミカは泣きじゃくり、父親のそばに駆け寄った。もはや遺体であることは疑いようがないが、問題はその死因だ。外傷はない。侵入者の形跡もない。彼はただ、お気に入りの椅子で本を読んでいただけだ。淹れたてのコーヒーとともに。


 開かれたまま床に落ちた一冊の小説が、彼の死は静かなものであったと、こちらに伝えてくる気さえする。


「お父さん、起きてよ、逃げないといけないんだって……」


 ミカは父親の躰をゆさぶった。床に向かってだらりと垂れた腕がゆれるだけで、反応はない。外から、さらに建物が崩れる音がした。近い。あと五分、ここにいられるか疑問だ。


「ミカ、いったん逃げよう。またもどろう」

「やだよ……。お父さんを置いていけない」

「そんなこと言ってる場合じゃない! 自分の命を考えろ! いまここで死にたいのか!」

「だって……、だって……!」


 このままでは埒があかない。おれはミカの腕を掴んだ。ちょっと力が強かったのか、彼女は怯えた顔をこちらにむける。


「約束……、しただろ!」

「え……」

「一緒にアトラに行く、お母さんにおれの顔を見せるって……!」


 ミカは顔を伏せた。そのまま沈黙。


 外でふたたび大砲の音が鳴った。純政府の戦車をもってしても、一発では仕留められなかったということだ。苦戦しているのだろう。


「いったん逃げよう、頼む、いまはおれの言葉を聞いてくれ」


 力強く言った。

 ミカは袖で涙を拭って、こくりとうなずいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ