ー11ー
パンを食べたいだけだった
「いや……、もう支度をしてしまった。いまから部屋にもどるのも……」
「そうだよね」女性は朗らかに笑った。「なら、ちょいとお待ち」
女性はいったん部屋の奥に消えた。三分後くらいにもどってくると、片手に蓋つきの紙カップを持っていた。カップの腹にはダンボールが巻きついている。手で持っても熱くないように、配慮してくれた。
「いいのか?」
「いいよ。持っておいき。急いでなきゃ、どこかでゆっくり飲んでいきな。まちがっても、カップを持ったまま街の外に行くんじゃないよ。紙だからね。怪物に襲われちまうさ」
「わかってる。それに関してはプロだ。心配いらない」
「そうだよね。ネシティも大変だろうけど、躰に気をつけるんだよ」
まるで母親みたいな女性に礼を言って、おれは宿をあとにした。近くに公園があったので、ベンチに座って食事をとることにした。どこも砂だらけだ。まずそれを払わないと、とても座れたものじゃない。
だれもいない遊具も砂をかぶっていた。昨日の砂嵐はよほどひどかったらしい。今朝が無風でよかった。風が吹いていたらまだ宿にいただろうし、食事も屋内だった。
朝の空気を吸いながら、パンをひとかじり。冷めているが、味はよかった。ミカの顔が浮かぶ。そっとカップに口をつけて、コーヒーをすする。ユヅキの店で飲んだのとは、またちがった味だった。こっちのほうが酸味が強い。
ふぅ、と息をつく。苦い吐息が口から漏れる。きょうにもここを発つのに、なんだか実感がない。まだ二、三日滞在するような気分がする。
ぼやりと投げた視界には、背の高い灰色の建物たちがいくつも見えた。
ビルというらしい建物には、どれも幹の太い植物がぐるりぐるりと巻きついている。あれはあれで、植物によってビルの姿勢が維持されているらしい。だからあえて除草せずに残しているのだとか。
自然の力によって街は半壊したのに、自然の力によって支えられている——不思議なものだ。人間は、人間こそが神だと思ったから、あんなに背の高い建物を作ったはずなのに。
むこうの通りに、慌ただしい人だかりが見えた。
純政府の人間が何人か走っていく。
全員ライフルを手に持っていた。戦闘要員だろう。
気になったが——
おそらく関係ないだろうし、彼らで解決するはずだ。
しかし——
「紙喰いが街に侵入! 急げ! むこうの商店街だ!」
隊員が慌ただしく向かう方向には、ミカのパン屋があった。
商店街へ近づけば近づくほど、街は騒然としていた。とにかく逃げろ、そこから離れろ、と叫ぶ群衆の波に逆らって、おれは走った。
しばらく行くと、純政府の装甲戦車が左手の道に見えた。砂にまみれたアスファルトの道を進んでいる。おなじ方向へ行こうとするおれを見つけたのか、車長用のハッチが開いて中から軍人が頭を出した。
「おい! そっちは危険だ! もどれ!」
グレーの都市迷彩で全身を包んだ中年の男が、こちらに叫ぶ。
「知り合いがいる! 助けに向かう!」
「だめだ! やめておけ! 我々の仕事だ!」
「関係ない、あんたらはあんたらでやればいい!」
「おい、純政府に逆らうのか!」
「最初から従ってなどいない!」
おれは男の指図を無視した。道を急ぐ。徒歩でしか行けない細い道を走れば、図体のでかい戦車よりも早くたどり着くはずだ。
路地裏に入ると、とたんに日光が大人しくなる。大通りにでれば、すぐに太陽が満面の笑みで照らしてくる。明るい場所から暗い場所、その逆——連続する明暗に瞳を慣らしながら、とにかく速く、とにかく急いだ。
商店街に近づくと聴きなれない音がした。巨大なホラガイが吹かれたような、一定で重みのあるひびきに首根っこを掴まれるような感覚。それが紙喰いの咆哮であると察するのは容易だった。あんな音、人間が鳴らすわけがない。緊急時のサイレンですら、もっとちがう音のはずだ。
商店街に入り、あたりに背の高い建物がなくなったが、紙喰いの姿は見えない。咆哮の大きさからして、かなりの巨体であるはずだが——。
「おい、セト!」背後からユヅキの声が。「えらい騒ぎになってるぞ!」
「まだ相手が見えない。でも、声からして近いはずだ」
「逃げてるやつが叫んでたんだ。あれはワニだ、ばかでかいワニだ、って……」
全長でいえば一〇メートル近くあるかもしれない。が、全高でいうと二、三メートルあるかどうかだろう。二足で立ち上がりでもしないかぎり、建物より低い姿勢で這っていると考えたほうがいい。
「すまない、ユヅキ、話している暇はない」
「倒しに行くのか?」
「知り合いがそこのパン屋に住んでいるんだ」
「ミカか?」
「知っているのか?」
「近所だからな。大丈夫だろ、もう逃げているはずだ」
ユヅキはそう言ったものの、どうも胸騒ぎがしてならない。
「いちおう訪ねてみる」
「……わかった、あそこはミカとパン屋の親父さんしか住んでいない。すぐに来いよ! 純政府だけじゃ頼りねぇからな!」
「わかってる、先に行ってくれ!」
五〇メートルほどむこうの建物が大音を鳴らして崩れ、灰色の煙が充満するのが見えた。その光景は敵が近いことを語っていた。走りながら、ユヅキは一度こちらに振り返ってこくりとうなずいた。やばいぞ、早くなんとかしねぇと……! そう言っているような顔だった。
ドアをぶっとばす勢いでパン屋に転がりこんだ。キョロキョロと店内を見渡したが、だれもいない。焼きたてのパンの香りが、この状況のせいでとても切なく感じられる。せめて、紙喰いがこの店を潰すようなことだけは避けたい。
「ミカ! いるのか!」
呼んでみたが返事はない。店の外から戦車が走る音が聞こえる。店内からは、なにも音がない。
「いないか……」
もう逃げたのだと思った。おれは店を出ようとする。
「セト……」ミカだ。店の奥から、のれんをくぐってこちらへ——
「いたのか! 早く逃げろ!」
「どうしよう……」
その顔は真っ青だ。狼狽をとおり越して、絶望と悲嘆に打ちひしがれている。ひどい表情だ。
「なんだ、なにがあった!」
「お父さんが……、動かないの。朝いつもみたいにパンを焼いて、ちょっと休憩するって、それきり……」
「は!? ——どこだ!」
「こっち……」
ミカに連れられて、すぐに店の奥へ行った。父親の部屋のドアは開いている。ミカは片手を胸の前で握っているだけで、ひどく怯えている。
部屋に入ると、ロッキングチェアに全身を預け、両腕をだらりと垂らしている父親がいた。くちびるはぶどうの色。眼球は上をむいて半分が白目だ。
「うそだろ……」死んでいるのか、と言いかけたが言葉を呑んだ。
「どうして、お父さん……」
静かすぎるミカの声とは対照的に、店の外は喧騒を増していくばかり。大人たちが叫ぶ声、女性の悲鳴、大砲かなにかが撃たれた音、そしてホラガイみたいな咆哮——。
「ミカ、これ以上ここにはいられない」
「やだ……、やだよ」
「まずは逃げないと、店が危ない!」
「やだ……、やだぁあ!」
堰を切ったようにミカは泣きじゃくり、父親のそばに駆け寄った。もはや遺体であることは疑いようがないが、問題はその死因だ。外傷はない。侵入者の形跡もない。彼はただ、お気に入りの椅子で本を読んでいただけだ。淹れたてのコーヒーとともに。
開かれたまま床に落ちた一冊の小説が、彼の死は静かなものであったと、こちらに伝えてくる気さえする。
「お父さん、起きてよ、逃げないといけないんだって……」
ミカは父親の躰をゆさぶった。床に向かってだらりと垂れた腕がゆれるだけで、反応はない。外から、さらに建物が崩れる音がした。近い。あと五分、ここにいられるか疑問だ。
「ミカ、いったん逃げよう。またもどろう」
「やだよ……。お父さんを置いていけない」
「そんなこと言ってる場合じゃない! 自分の命を考えろ! いまここで死にたいのか!」
「だって……、だって……!」
このままでは埒があかない。おれはミカの腕を掴んだ。ちょっと力が強かったのか、彼女は怯えた顔をこちらにむける。
「約束……、しただろ!」
「え……」
「一緒にアトラに行く、お母さんにおれの顔を見せるって……!」
ミカは顔を伏せた。そのまま沈黙。
外でふたたび大砲の音が鳴った。純政府の戦車をもってしても、一発では仕留められなかったということだ。苦戦しているのだろう。
「いったん逃げよう、頼む、いまはおれの言葉を聞いてくれ」
力強く言った。
ミカは袖で涙を拭って、こくりとうなずいた。