ー1ー prologue
心をゆさぶる歌——それは、どのような逆風にさらされても震えずにまっすぐ届く歌だと、かつての識者は言った。
胸に抱える恐怖や悲哀をもろともせず、だれかのためを想い一心に歌う。そのすがたこそが、最後には聴き手の心をゆさぶるのだと。
識者が生きていた時代にはインターネットがあった。テレビやラジオも使えたから、歌は簡単に届いた。
知りたい情報も、知りたくもない情報も、聴きたい歌も、どうでもいい歌も、なにもかもが即時に届いた。
魔法のような技術に満ち溢れた時代から、二〇〇年が経過したいま。識者がこの世界を見たら、なにを言うだろう。
わたしはインターネットの便利さを知らない。テレビやラジオが、日々新しい情報を時差なしで家庭に届けていた、という事実をいまだに信じられない。
わたしは電話や電子メールを使ったことが生まれてから一度もない。使えないことに不便を感じたことはない。なぜなら、その便利さを知らないからだ。
即時情報伝達技術がもたらす恩恵を、実際に体感する術さえわたしには……、いや、この世界には——
なにひとつ、残されてはいない。
二二二五年
歴史文明学者 ヒナ・サキタ
背中に当たるコンクリートの冷たさが、乱れた呼吸を落ち着かせてくれる。半袖で歩ける時期ではないが、火照った全身を冷ますにはこれくらいの気温がちょうどいい。雪が降る季節が近づいている。
ぴた、ぴた、と水の滴れる音がする。そちらを向くと、錆びたパイプ管から赤い水滴が落ちていた。背の高い建物と建物のあいだ——路地裏というらしい場所は暗く、狭く、見上げると長細い定規のような空がある。
広い空より狭い空のほうがいい。視界がかぎられると安心する。それ以外のものを見ずに済むからだ。
振動が近づいてくる。同時に緊張が蘇る。巨岩が地面を抉るような振動。鋼よりも硬い爪が、コンクリートの道を削っていく様が想像できる。
錆びたパイプ管から滴れる赤い水滴もその間隔を早めていく。落ちては溜まり、落ちては溜まり、まるで開いた傷口のよう。
《この星は病気になった》
——鳴き声がする。
太い喉から耳障りな音を鳴らす怪物。目をつむれば、そいつの形がまぶたの漆黒に投影される。
六本の短い鳥脚には漆黒の鍵爪。横幅が直径五メートルに膨れあがった胴体。全身を覆う紫色の羽毛。短くて飛べやしない八枚の翼がムカデの足のように並び、波のようにうごめく。
こいつはたしか、二〇〇年前はカラスと呼ばれていた。いまだ鳥の名残を残す頭部も、大きさには余念がない。雪だるまのようなシルエットだ。
巨大な嘴を開けば、ノコギリを並べたような歯がぎっしりと並んでいる。それに喰われるのはおれじゃない。おれが運んでいるものだ。
紙——
そいつは紙のにおいを辿っている。
紙を運ぶおれを探している。
あの巨大にして、こんなにもちいさくて薄いものを、どうしてほしがるのだろう。
冷たい空気のおかげで、全身のほてりが抜けた。
風邪をひく前にマントを羽織る。
ショルダーバッグを肩にかけて、路地裏から大通りへ。
空が暗くなってきた。日差しが鈍色の雲にさえぎられる。ここは風がないのに、上空には雲を押し流すほどの気流がある。
左を見た。音のするほうだ。
乱雑に止まっている車たちには名も知らない植物が巻きついている。
この道はかつて、賑やかで、排気ガスと人ごみのにおいに満ちていた。
——らしい。
二〇〇年前はそうだった。
おれは知らない。
産まれてから一九年しか経っていないから、仕方ない。
ここはゴーストタウン。
だれも通らない道。
ただの道。
あいつさえ、いなければ。
「この手紙がほしいのか」おれはショルダーバッグの横を叩いた。「これはおまえに宛てたものじゃない」
あいつは眼球をギョロギョロと乱し、振りまわし、嘴を天に向けた。大口を開いて咆哮を発する。空がゆれる。地面がきしむ。
建物のなかで棚が倒れた。ガラスが割れたような音もしたが、気にすることはない。どれも廃墟に転がるガラクタだ。
巨岩のような全身が移動する。
その速度はひどい。上空を泳ぐ雲のほうがまだ速い。
腰の鞘から剣を抜く。
柄を軽く握って、アクセルレバーに指をかける。
健に力をこめる。
レバーのほどよい反発が心地いい。
手元でエンジンが猛る。
振動が骨身にひびく。
焼けたガソリンのにおいがほのかに漂う。
刀身が、みるみる帯電する。
空気中のほこりが刃にふれただけで、バチ、バチ、と音が鳴る。刃が独特の唸りをあげる。青と銀の放電がまとう。
走る。
左足が金属の音を立てる。
あいつが大きく吠えた。
鼓膜が潰れそうだ。
太い咆哮のなかに、黒板を掻いたような音が混じっている。
躰が重くて動けない分、その場で叫ぶくらいしか能がないのだろう。
駆けながら、おれは左足のつけ根に手をかけた。
トリガーつきのグリップを手に取る。巻き取り式のワイヤーコードで義足と繋がっているから、落とす心配はない。銃身を奪われた拳銃みたいだろ? と造った者が言っていた。
アルミ製のリングに人差し指を入れる。
トリガーを引く。
義足のなかで爆発音。
ふくらはぎの排気機構から白い煙。
硝煙のにおい。
脚内のピストンが弾ける。
瞬発的に金属の骨が露出する。
両脚の長さが左右非対称になる。
つまりは高く飛ぶため。
風が耳を聾する。
この音は好きだ。
自分が鳥になったような心地がする。
いま、おれが殺そうとしている化け物の祖先は空を飛べたのだろうか。
カラス——
ほんとうは黒い鳥。
賢いはずの鳥。
重力に引き寄せられ相手の頭に落ちる。
剣を真下に突いて、脳天を刺す。
柄をレバーごと強く握りしめる。握力のかぎり。遠慮はなし。
エンジン音。
放電の唸り。
致死量の電圧が相手の脳みそを焼きつくす。
破裂音。
湿り気のあるなにかが弾ける音。
刃をさらに深くまで押しこむ。
悲鳴。
咆哮。
脱力。
足場が傾く。相手の全身が崩れる前に、もう一度義足を使う。
股関節に二度目の衝撃。
急加速の感覚。
風を切る音。
刹那の心地よさ。
命を奪った罪悪感。
——あせり。
着地用エアバッグボールを腰から取り、投げる。ふくらんだ白いクッションに一度は躰を拾われた。しかし横への加速が強すぎた。全身は跳ねて、さらに奥へ飛ばされ、地面を転がってしまう。剣を地に突き立ててどうにか勢いを殺した。
奥歯の力が抜けたところで相手の生死を確認する。空気が抜けて消沈したエアバッグ越しに、やつのすがたが見えた。
カラスは灰の山となっていた。
白い灰。
皮肉にもその灰は、紙の原材料になる。
紙はいずれだれかに買われる。
そして言葉が綴られる。
かけがえのない言葉。
たったひとりだけに届けたい言葉。
二度と会えない人への言葉。
一度しか、送れない言葉。
それらを運ぶ者を、カルタ・ネシティと呼ぶ。
A coo toumi Novel
-Calta nessity-
空が晴れていて、乾いた風が頬に当たるときは、受取人の顔はよく曇る。ネシティを長く勤めたせいかその傾向に気づいた。
受取人の眉間の動きでだいたいの反応が想像できる。今回のは機嫌がわるくなるパターンだ。こちらが届けた依頼物の内容を見た瞬間、受取人の眉がピクリと動いた。次に眉間にシワが寄って、荒い呼吸のせいで肩の上下がはげしくなる。
「離婚……、う、うそだろ」
やはり悲報だった。これは、受け取りサインをもらうまでがめんどうだ。開封前にもらっておくべきだった。
あまりに落ち着かない様子だったから、サインを頼む隙を逃してしまった。
「あんた、ネシティなんだよな? ほんとうに、そうなんだよな?」受取人がこちらをにらむ。
「ああ——」
おれはショルダーバッグのポケットから免許証を取り出した。金属製で、翼のマークが彫られているカードだ。それを受取人に見せる。
「翼の刻印……。ここまで精巧なものは純政府にしか作れない……」
「うそだと思うなら登録番号を問い合わせてみろ。おれの番号は——」
数字を伝えようとしたが、受取人は片手でさえぎった。
「いや、いい。あんたが本物かどうかは確認する必要がない。離婚届の筆跡が、たしかに妻のものだ……」
なら最初から疑うなよ……、と思ったが顔には出さない。
目の前にいる受取人は、この近くの工場に勤めているのだろう。薄っぺらい離婚届用紙を持つ手が煤だらけだ。とくに爪の隙間には、洗っても落ちそうにない黒い油汚れが詰まっている。日焼けした頬にも煤がついている。夕刻だし、仕事終わりだろうか。
平家の玄関先だと、さえぎるものがなく、夕日の熱が思いきり顔に当たる。そのせいでおれの顔も険しくなっているだろう。まぶしさは苦手だ。
外壁が植物の蔦で覆われているところを見ると、この家はしばらくだれも住んでいなかったようだ。
おそらく彼は出稼ぎにきて、この家を借りたのだろう。家中にまとわりつく若草色の蔦を掃除する暇もないほど、仕事に明け暮れていたのか。きっと家族のために。
そう思うと、おれが運んだ離婚届は痛々しい。ともあれ仕事は終わらせなくてはならない。
「ここに名前を書いてくれ」
おれは受け取りのサインを記入するための木札を差し出した。インクが切れそうな筆ペンも一緒に。
受取人の男は怒りや悲しみで破裂しそうな顔をこちらに向けつつ、適当な手つきでサインをする。
「なぁあんた、妻はいくらであんたを使ったんだ?」
そう言いながら木札を突き返してきた。無骨な性格が伝わってくる。人を使う、という表現がどうも腑に落ちないが。
サインを確認する。
男の名前はトモヤ。
受取人にまちがいない。
本来なら、トモヤの質問に答える義務はない。が、この場をスムーズにやり過ごすために最低限の回答はしてもいいかと思った。
「正確な依頼料は言えない。だが距離で換算すると、一二ルキあたりが相場だ」
おれは静かに言った。なるべく感情をこめずに。
「やっぱり高い……、おれの月給のほぼ半分じゃないかっ! しかも布封筒のなかにはおれたち夫婦の貯金がすべて入っている……。六〇枚のコイン……。まちがいない、おれが稼いで貯めた金だ! あいつ無一文になって死ぬ気なのか!?」
この世の金はすべて金属だ。過去には紙幣という文化もあったらしいが、おれは見たこともない。
「——これで依頼はおわりだ。失礼する」
取り乱すトモヤに背をむける。
サインをもらった以上、相手をする理由がない。
「ま、まってくれ!」
どうせ呼び止められるとわかっていた。《《めんどうだ》》と背中で語るためのため息も五秒前に用意していた。それをついたところで、効果はなさそうだが。
「あんた、妻に会っているんだろ!? なぁ、どうしてこうなったのか教えてくれよ……!」
受取人は、いざ手紙の内容に納得がいかないとネシティを問い詰めることがある。よくあるケースだ。
依頼人がどんな状態だったか。どんな顔をしていて、どんな理由で依頼したのか——その手の情報を与えてくれそうな人物は、そのときその場にネシティしかいない。
だから藁にもすがりたい。手紙だけでは図れなかった相手の感情や状況を、どうにか補完したい——その気持ちは理解できる。
なかには激昂した受取人がネシティに暴行するケースもある。手紙はとくに、人間の感情を乱しやすい。感情が乱れた人間はなにをするかわからない。そうなると獣以下だ。獣は肉を投げれば大人しくなったりもするが……。
「妻はどんな様子だった? ほかに男がいたのか? なぁ、見たんだろう!? 話したんだろう!? ……まさか自殺する気じゃないだろうな!?」
ここでもうひとつ、ため息を試みる。背は向けたまま。
「ネシティは依頼物を運ぶだけだ。依頼人と受取人の事情に介入することはない」
「なぁ、見たままを言ってくれよ! こんな手紙だけじゃ納得できない! いや、手紙ですらないじゃないか! ただの離婚届と金だ! あいつのために三ヶ月も前から出稼ぎにきて……。あと二ヶ月もすれば帰れるってのに。工場で稼いだ給料を持ち帰ってもいないんだぞ! どこから金を……」
感情のまま喋るトモヤが突然静かになった。
はっ、となにかに気づいたようだ。
「そうだ、あいつに金があるわけがない。あのちいさな街で、一二ルキもすぐに稼げるわけもない」
実のところ依頼人の女性のとなりには別の男がいた。
その男こそが依頼人といってもいいくらいだった。なぜなら依頼料を払ったのは彼だ。
おれは再三念をおされた。《《依頼人はあくまでもこの娘》》です。受取人には妻の名前だけをお伝えください。万が一にも、わたしという新しい旦那の存在を口にしないでください、と。
おれたちネシティは、業務違反を犯すつもりでもなければ、依頼人にまつわる余計な情報を他言したりはしない。
「離婚届なんて純政府に見られてもいいじゃないか!」トモヤは声を震わせる。「なんでわざわざ無駄に高額なネシティに……」
くそぉ……、とトモヤは歯をきしる。
「ネシティに頼んだほうが届くのが早い。それだけの理由じゃないか?」
おれが言うと、トモヤはかっとにらんできた。
「おれが帰るのは二ヶ月後だ。純政府の配達なら一ヶ月で届く。どう考えても間に合うんだよ。ネシティを使う理由なんて、知れているだろうが!」
「おい……、怒鳴るなって」
こちらの反応を確認するでもなく、トモヤの頭は被害妄想でいっぱいのようだ。
「新しい男……、あいつだ。鉄技工士のボンボンと知り合ったって半年前に言ってた。待っていたんだな。おれがいなくなる日を、いまかいまかと……」
くちびるの中央が結ばれて、口角に力が入る。見開いた目は憎しみを露出させる。
「まさかふたりで新しい場所に引っ越して……、ああくそぉ! 新しい男がおれよりも稼いでいるから、それを誇示したくてわざわざネシティを使いやがったんだな! そうにちがいない! こんなもの純政府の配達で十分じゃないか!」
実は、トモヤの妄想は外れている。
依頼人は離婚届を早く届けたかっただけ。単にそれだけだ。
《純政府の配達だと、彼の帰りよりも届くのが遅いかもしれないですよね……。だから、ネシティで確実に届けてもらおうと思って。どれくらいで配達できます?》
そう依頼人の女性は言っていた。
おれは一週間で届けると約束した。
きょうは出発してから六日目だ。
予定より一日、早く届けられた。
純政府の郵送は劣悪で有名だ。とくに配達日数は安定性に欠ける。一ヶ月で届くなら運がいいほうだろう。二ヶ月で届くこともザラだ。
やつらは情報に過敏だ。一通の手紙に対し、最低でも二度の文面検査が入る。内容にすこしでも怪しい点があれば、別の審査局に手紙は搬送される。そこでまた検査が入る。どのような手紙も、《《もれなく》》検査される。
文面が何度も第三者の目で舐めまわされた挙句、やっと手紙は届く。
情報を恐れているのか。
それとも文章に飢えているのか。
純政府のお偉いさんたちに、怪しい意図があるように思えてならない。
しかし軍事力を前に、疑念を晴らそうとする者は現れない。審査局に潜入でもしようものなら極刑が待っている。こういうものだ、と思って生活しているほうが健全で、安全。
手紙のプライバシーと配達日数を優先するなら、高い金を払ってでもネシティに頼む——それが通例だ。
「ああ、もうおしまいだ。生きる意味がなくなった。 なんのために仕事をすればいい。帰ったところで、おれの家はもぬけの殻なのか——」
トモヤは顔を青くして、離婚届をくしゃくしゃに握りしめる。
「失礼する……」
サインをもらった時点で用はなくなったわけだが、いよいよ泣き言につき合う義理はない。文句があるなら、本人のもとへ行って直接言えばいい。おれは立ち去ろうとする——
「あ、あんた、依頼を受けてくれ。往復になるが折り返し届けてほしい。おれは仕事があるし、一週間も危険な道を歩く準備も勇気もない」
トモヤの声には決意なのか、恨みなのか、固く結ばれた感情があった。
「……高いが、いいのか?」おれは振り返った。「仮に受取人の行方が掴めなかったら、依頼物はあんたに返すことになる」
「その場合、払った金はどうなる?」
「半分は返す」
「半分か……」
トモヤは前歯でくちびるを噛んだ。
「受取人が移住している程度なら、純政府に問い合わせて現住所を特定し、確実に届けるが……」
「そ、そうしたら、妻の新しい住所をおれに教えてくれるか!?」
さすがにその質問は常識を欠いている。
「依頼人と受取人の事情に介入することはない。依頼物を届ける以上のことはしない」
とは言ったもののトモヤは呼吸を荒くして目を泳がせている。おれの言葉がちゃんと届いているのか怪しい。依頼を断るべきか……?
「もし、純政府ですら行方がつかめなかったら……?」
トモヤは不安そうに言った。
「その旨を証明する正式な書状が発行される。それを持って、おれはここにもどる。依頼物もそっくりそのまま、あんたにもどる。あと半額の依頼料も」
まぁ……、よほどの雲隠れとか偽名工作でもしないかぎり、このパターンはないだろうが。
「ほんとうにもどるのか?」
「約束する」
こちらのセリフに、トモヤは不安を押し殺す顔だ。
「わかった……。この貯金を使う。すこしこの街で待っててくれないか。あすのこの時間、あらためて依頼させてくれ」
稼ぎにはなるが、依頼人にも受取人にもいい結果は残らない、そんな気配がした。だが依頼は依頼だ。おれはうなずいた。
「それと……」トモヤの頬に冷たそうな汗が伝う。「この依頼について純政府には、なにが伝わるんだ?」
「依頼人の個人情報。受取人の個人情報。運ぶネシティの登録番号。荷物が送られた日。届いた日——以上だ」
きょうも例外ではない。トモヤに荷物を届けた、というこの証拠をすぐに役場へ提出しなければならない。できれば陽が落ちるまでに。
新たな依頼の話がなければ、もう去っているところだ。
「中身は、知られないんだな?」
「このバッグに入るサイズなら、中身が毒物だろうが爆発物だろうが、運ぶことはできる。ただし、《《なにか起きた》》場合、その責任は確実にあんたにのしかかる」
「まるでおれがなにかを企んでいるみたいにいうな……」
「依頼人はなにかを企むもの。企むから依頼する。そう思っているが?」
「わ、わるいか! おれと妻の問題だ! あんたは黙って運べばいい!」
ここでおれは三度目のため息をついた。
「だれが企むことをわるいと言った? あんたの妻(だったと言いたいが、あえて気をつかう)も、離縁を企んだからおれに配達を依頼した。客がなにを企んでいるかはおれに関係ない。企みたいだけ企めばいい。だが私情から生じる事件に巻きこまれるのはごめんだ」
「ああ、わかったよ! いいさ、やってくれるなら文句はない! ああ——ああくそぉっ!」
トモヤの錯乱は一向に収まることがなく、髪をかきむしりながらあーだこーだと騒いでいるので、おれは強い語調でさえぎった。
「《《ひとつだけ》》頼みがある」
「な、なんだ、条件か!? 条件を呑まないと運ばないってのか!? え!? ふざけんなよばかやろう!」
頭に血がのぼったやつの相手をするとき、自分に言い聞かせることがある。こいつはただの客。金を落とす蓄音機。
音がうるさいのを聞き流せば、それでいい。レコード盤が再生を終えたら、うるさい曲を黙って聴いたご褒美として金がもらえる。
そしてもらった分の仕事をする。
ひとりで、静かに、着実に。
心を落ち着かせるために目を閉じる。
ふと、ここは静かな場所だったと思い出した。
街や工業の喧騒から離れていて、風の音しかしない。いい場所だと着いたときに思った。いまみたいにだれかさんが怒鳴っていなければ。
人間は音も出すし、においも出す。
掃除するのは人間だが、汚すのも人間だ。
トモヤがなぜ離婚届を突きつけられたのか、どことなく理解できる。おれが働いているから、おまえは食えているんだと家庭内で豪語するタイプだろう。そんな気がする。
こいつの夫婦仲など知ったことではない。 どっちがわるいかなど、知る意味もない。
ただ、伝えるべきことは——
「頼む。普通にしゃべってくれ」
時間は一八時おそらく三〇分になった。分単位を告げる前に《《おそらく》》とつけ加えるようになったのは、二〇〇年前からだとか。
キルラのせいで電波時計という道具が使えなくなり、正確な現在時刻を知る術が壊滅状態になってからの習慣らしい。おれにとっては生まれてからの常識だから、不思議に思ったことはない。
純政府の役場はどこも一九時くらいに閉まる。ギリギリで間に合った。カウンターに木札を差し出すと、むこう側に座るスタッフの女が眠そうなあくびをした。茶髪のボブで、ベージュ色のタキシード。赤の蝶ネクタイが目立つが、すこし傾いている。
「ふぁ……、はぁい、ネシティさんですねぇ」
「依頼物を届けた。確認してくれ」
「はぁい……。えっとぉ、ソノザキ・トモヤさん。うーんと、ああ、あー出稼ぎの方ですねぇ……。確認しましたぁ、ご苦労さまですぅ……」
木札は回収され、金属製の棚のなかに仕舞われた。何枚もの札が整頓され、収納されていたから、この街はネシティがよく訪れるのだろう。にしてもこのスタッフ、三秒も目をつむれば寝てしまいそうだ。
「ではぁ、また依頼に関わることが発生しましたら、当窓口までお越しくださぁい」
あしたもまたこの女性が相手だろうか。役場の人間にはネシティを毛ぎらいする輩もいるから、これくらいのんきな接客のほうがありがたい。
「あと、紙喰いの白灰を換金したい」
「あぁ……、では、討伐地点の座標をお知らせねがいたいので、二階の治安当局にどうぞぉ……」
役場というのは、あっちで手続きしろ、こっちで手続きしろ、とたらい回しにするのが好きだな、といつも思う。ひとつの窓口で全部済んでくれたら楽なのに。
折り返し階段を登って二階に行く途中、タキシードすがたの男ふたり組とすれちがった。おれの近くでは黙っていたが、通りすぎるとすぐに陰口を叩いたのがわかった。
「ほらいまの、命知らずだ……」