傷心王子と中継ぎ婚約者の百日戦争
ヘタレだけど負けず嫌いの王子と軍事特化した伯爵令嬢のお話です。
「それでは殿下、戦争しましょう」
さりげない宣言が、ロウィニア王国第二王子ユゼフを絶句させた。彼だけではない。花咲くスヴェアルト宮殿の侍女、従僕全てが発言者の令嬢に注目していた。
それを意にも介さず、一年半前に彼の婚約者となったエデルマン伯爵令嬢リディアは相手の返答を待った。
「……その、理由を聞いていいか?」
ユゼフは必死で平静を装った。お茶を味わうリディアの方は落ち着いたものだった。
「圧倒的な対話不足です」
つまり婚約以来形式的な挨拶以外をロクにしていないということだ。第二王子には心当たりがありすぎた。彼は努めて冷静に問いただそうとした。
「それならどうしてわざわざ物騒な手段を」
「殿下にその気がないからです」
真正面から伯爵令嬢は言ってのけた。少し上体を揺らしたユゼフは必死で表情を制御した。
「だからといって……」
「これが殿方同士なら拳で語り合うという肉体言語で相互理解にたどり着けるかも知れませんが、生憎私には無理です」
「いや、僕も殴り合いなどしたくはないが」
戸惑いを隠しきれない王子に向かってリディアは淡々と語った。
「ご心配なく、既に演習場と模擬戦の用具一式、使用期限近い火薬類の使用許可を取り付けております。そうですね、準備期間もありますし毎日とは行きませんから、決戦は毎十曜日で回数は十回としましょう。ちょうど百日ですわね」
言いたいことを並べ立てると、伯爵令嬢は立ち上がり淑女の礼をとった。
「では、私は準備に入ります。ご機嫌よう、殿下」
侍女を引き連れ去っていく婚約者の後ろ姿に、第二王子はかける言葉を持たなかった。
「……本気なのか、彼女は」
やっと出せた声は弱々しかった。伯爵令嬢が置いていった許可証を見て侍従が頷いた。
「全て正式なものです。さすがエデルマン家のご令嬢ですね」
軍人家系のためか、伯爵令嬢は軍事以外の趣味を持たないという噂だった。だが、ユゼフは半信半疑だった。
「仕方ない、ご婦人の我が儘に付き合うとしよう。多少軍事に詳しいとはいえ、木馬と案山子を並べた戦争ごっこだ」
溜め息交じりに第二王子は笑った。
* *
「……そのはずだったのに……」
ことの始まりの回想に浸る第二王子に、侍従が叫んだ。
「現実逃避しないでください、殿下! 次弾が来ますよ!」
この言葉に重なるように、彼らの前で砲弾が炸裂した。土埃と煙で汚れながらユゼフは怒鳴った。
「どこが安全な砲撃なんだ、ここは本当に射程外なのか?」
「頭を下げて!」
忠告と共に容赦なく頭部を押さえつけられ、第二王子は耳を塞いだ。爆発で舞上げられた土と石がばらばらと落ちてくる。
「こちらの戦力は確実に削られています」
記録係の侍従に言われ、ユゼフは叩かれっぱなしの状況から挽回しようとした。
「向こうは何を出してくる?」
「騎兵です」
「なら、例の新製品の出番だ」
彼には勝算があった。あらかじめ決められた予算範囲内で武器を調達するというルールの中、ユゼフが選択したのは新型の機関砲だ。
さすがに実物ではない張りぼての騎兵が、それでも結構な速度で接近してくる。
「迎え撃て!」
三脚上に乗せられた機関砲右側に砲車長が位置取り、一番砲手が三脚架上のサドルに座る。装填を終えた機関砲が発射され迫る騎兵を蹴散らす。
そのはずだった。
数発撃った後に、突然機関砲は沈黙してしまった。それからは幾度引き金を引いても何の反応もない。
「……弾詰まりです、殿下」
「こんな時にか!?」
叫ぶユゼフの側を模擬騎兵が駆け抜けた。
「司令部制圧、ユゼフ殿下側の敗北です」
審判が宣告し、自陣に降伏の旗が揚がるのを第二王子は呆然と見上げた。蹄の音に気付いた時、彼の目の前に乗馬服姿の伯爵令嬢リディアがいた。
「一戦目は私の勝ちですわね」
ユゼフは悔しそうに拳を震わせて詰問した。
「リディア嬢、君が使用した大砲は威力がありすぎる。予算超過して入手したのではないか?」
エデルマン伯爵令嬢は一笑に付した。
「あれは払い下げ寸前の型落ち品です。単に、初期不良の洗い出しもできていない新兵器より実績のある旧型の方が役に立っただけです」
言葉も出ない第二王子に、彼女は追い打ちをかけるように告げた。
「では勝者の権利として殿下への課題です。機関砲の歴史と効果的な運用について研究なさってください。それでは失礼します、また次の十曜日に」
そう言い残すと伯爵令嬢は馬を駆けさせた。ユゼフは役立たずの機関砲を恨めしげに眺めた。
その夜、第二王子の私室に入った侍従は机に山積みされた書籍に驚くこととなった。
「調べ物ですか、殿下」
隙間から覗く金髪に向けて尋ねると、本の山からぬっと顔が現れた。
「機関砲の資料を探している」
「最近開発された物ですからまだ少ないのでは」
呆れ気味の侍従に王子ユゼフは眉根を寄せた。
「しかし、分かりませんでしたなどと答えたら、彼女にどれほど馬鹿にされるか……」
「エデルマン伯爵令嬢なら懇切丁寧に説明してくれるのでは?」
「それはそれで嫌だ」
子供のようなふくれっ面をする王子に苦笑したものの、侍従はそれ以上何も言わずに辞去した。
残されたユゼフはぼんやりと天上を見上げた。無意識に一つの名を呟く。
「……マージャ……」
それは三年前まで彼の婚約者であった女性、ブラウエンシュテット公爵令嬢マグダレナの愛称だった。
ユゼフは兄クリスティアンとは親子ほども年が離れている。父ミロスラフ国王が老境に入ってから二番目の王妃を迎えて生まれたのが彼だ。
王妃は出産後間もなく亡くなり、母を知らずに育つ幼い王子に宮廷中が涙し愛情を注いだ。早くから名門貴族であるブラウエンシュテット公爵家の令嬢を婚約者とし、二歳年上のマグダレナとは姉弟のように育った。
宮廷の名花と謳われた美しいマグダレナ。聡明な彼女はいつも彼を優しく導いてくれた。ずっと二人で生きていくのだと疑ったことさえなかった。
なのに三年前、突然公爵令嬢は第二王子との婚約の白紙撤回を訴え、国外に去ってしまった。「自分探しの旅に出ます」という中々に不穏なメッセージを残して。
何の予兆もない破局にユゼフは混乱した。自分の何が悪かったのかと散々考え、答えの出ない迷路に放り込まれたような状況で彼はひたすら落ち込んだ。
見かねた父と兄が新たに選定した婚約者がエデルマン伯爵令嬢リディアだ。マグダレナとは似ても似つかない平凡な見た目の物静かな令嬢。ユゼフが受けた第一印象はそれだけだった。
それから一年以上が経過したというのに、周囲がお膳立てしたお茶会も観劇も遠乗りも、二人の距離を全く縮めなかった。不満があるなら去って行けばいい。半ば捨て鉢に考えていたら突然の宣戦布告だ。
「……どうして僕の婚約者はやることが極端なんだ」
ぼやきながらもユゼフは戦術解説書を開いた。
次の十曜日、第二戦。思いがけない所からの奇襲を受け、ユゼフは急いで戦力を割いて防御を厚くした。しかし騎兵の強襲で突破され、またしても第二王子陣営に降伏の旗が立ってしまった。
「……何故だ…」
頭をかきむしりたい衝動を堪えるユゼフに、勝者となったリディアが声をかけた。
「戦力の逐次投入は緩慢な自殺同然ですわ、殿下」
その言葉に彼は反論した。
「攻撃されたところに増援するのは理にかなっているだろう」
「場当たり的な対処療法は、大した成果もないまま戦力を消耗させるだけです」
彼女は後方の自陣を指し示した。
「私に残っている兵はあれだけです」
ユゼフは自分の目を疑った。リディアは予備兵力すら残していなかったのだ。
「全軍で突入したのか。無謀だ」
「そのために騎兵を使って突破口を開きました」
伯爵令嬢の視線の先に、激戦で破壊された模擬騎兵の残骸があった。ほぼ全滅なのは説明するまでもない。ユゼフは唸るような声を出した。
「これでは使い捨てだ」
「機動力を武器として全滅と引き換えに敵の防御網を破る。騎兵にしかできない任務を与えたまでです」
彼女の主張がようやく第二王子にも理解できた。
「明確な目標か。漫然と押されている所にあてがうから勝てないのか?」
考え込むユゼフを見て、リディアは意外そうな顔をした。
「何か?」
王子の質問に軍人一家の伯爵令嬢は素直に応えた。
「いえ、女性のこうした意見はまともに聞いてもらえないことが多いので」
「現に僕は二連敗だ。参考にできることがあれば知りたい」
不本意であることを隠しもしない彼に、リディアは微笑んだ。平凡でよそよそしい印象を一変させる魅力的な笑顔だった。ユゼフは目を瞠り、彼女の表情の変化を見つめた。
数瞬後に、伯爵令嬢はいつもの退屈そうな様子に戻った。
「王宮図書館は戦史研究書籍が充実していると聞いております。騎兵に関してはアグロセンかザハリアスの軍人の著書が参考になるでしょう。今回の課題ということで」
「そうか、探してみる」
ユゼフが頷き更に質問しようとした時、侍従が彼に用件を伝えた。
「殿下、王太子殿下がお呼びです」
「すぐ行く。リディア嬢、次は勝つからな」
敗北の悔しさと次回への課題を抱え、ユゼフは兄の元に向かった。
「今日もリディア嬢と模擬戦闘なのか?」
王太子クリスティアンは自分の子供たちより年若い弟に尋ねた。ユゼフが頷くと、やや意地悪く兄は続けた。
「で、勝てたのか?」
「…………」
沈黙が何より雄弁な回答だった。王太子は声を上げて笑った。
「さすが、ザモイスキ伯爵が推薦する令嬢だけあるな」
「ザモイスキ伯がリディア嬢を?」
意外そうに言った後でユゼフは思い出した。リディアの兄アントニはザモイスキ伯爵の妹と結婚していることを。
弟の思考を見抜いたように兄クリスティアンが訂正した。
「身内びいきの推薦ではないぞ。知る限り最も聡明な令嬢だと明言していた」
「確かに、軍事面には明るいようですが」
やや負け惜しみじみた評価に王太子は含み笑いをした。そして彼は庭園回廊を歩く者に気づき、声をかけた。
「商用か、ヤクブ・グレツキ」
年若い青年を連れた中年男性が王太子に向けて深々と礼をした。
「ご無沙汰しております、王太子殿下。ユゼフ殿下もご一緒でしたか」
「そちらは息子か?」
父親の骨格を受け継いでいる青年が、やや緊張気味に答えた。
「ミハウ・グレツキです、今は父について商会の事業を勉強中です」
「まだまだ未熟者で。先日もローディン経由で購入したオチクス社の機関砲が不具合を起こしたとか」
嘆かわしげに父親がぼやくと、息子は俯いた。ユゼフは取りなすように言った。
「いや、新兵器にありがちなことだ。こちらも試射が十分でなかったし」
ミハウ・グレツキは彼の言葉に救われたような顔をした。急いで問題の兵器について報告する。
「あの機関砲はエデルマン様のご指示で工廠に移送しました。今は問題の箇所を改善中です」
「そうか。無駄にならずに済むなら何よりだ」
ロウィニアは決して大国ではない。北の大帝国ザハリアスと草原地帯を挟んで睨み合う歴史の中で忍耐強さと努力を身につけた国だ。
国の舵取りをする王家の一員として、ユゼフも微力を尽くしたいと切望している。今はまだ何ができるかも判明していないが。
考え事をするうちに、急成長の商会の会頭とその跡取り息子は王太子と一緒に移動してしまった。
鳥の声のみが聞こえる庭園を眺めていると、楽しげな笑い声がした。
「ご機嫌よう、ユゼフ叔父様。リディア様に勝てる作戦はできまして?」
そこには金褐色の髪の若い女性がいた。彼の年上の姪、兄クリスティアンの長女である姫君だ。
「わざわざ演習場で見物していたらしいな、バーシャ。流れ弾でも飛んできたらどうするんだ」
「退屈な観劇より何倍も面白いもので」
彼女の「面白い」には自分があたふたと右往左往する様も含まれているのだろう。
かなり正確な推測をユゼフは頭に浮かべた。バーシャはくすくす笑いながら回想した。
「初戦の火力集中からの突破は鮮やかでしたし、第二戦の騎兵の思い切った運用も素晴らしかったわ。さすがエデルマン家のご令嬢ね。あの家は不祥事でゴタゴタしていたけど、あの方がいらっしゃるなら大丈夫」
「ザモイスキの令嬢が嫁いできているのだろう?」
かつて辺境伯と呼ばれた国境守備の重責を負う家門と、何人もの陸軍元帥を輩出してきた軍人一家。その結びつきがもたらす影響は大きい。
「お祖父様の後押しでね」
祖父とは現国王ミロスラフのことだ。ユゼフは国王の意図が分からなかった。やれやれと言いたげにバーシャが年下の叔父に説明する。
「お祖父様があのご高齢なのにどうしてお父様に譲位せずにいるか分かる?」
それはユゼフも不思議に思ってきたことだ。兄は既に婚姻し後継も立派に育っている。いつ王位に就いても何の支障もないはずなのに。
「父上が国王でいなければならない理由があるのか?」
「ザハリアスとの交渉が決裂したのはご存じよね」
第二王子は頷いた。帝国の露骨な南下政策にロウィニアは幾度も抗議してきたが、ザハリアスは歯牙にもかけていない。
「このままだと…」
「いずれ開戦になるわ」
王女はきっぱりと明言した。思わず周囲を見回すユゼフに片手をヒラヒラさせる。
「大丈夫よ、人払いはしてあるから。それより、お祖父様は帝国との戦争になった時をお考えなのよ。最悪の場合ご自分が全ての責任を負ってお父様に王位を譲れるように」
「そんな……」
列強国の傲慢な伸張政策に翻弄される側は、ここまでしなければならないのか。ユゼフの中に苦々しさと同時に憤りが沸き起こった。彼の隣を歩くバーシャも同様だ。
「だからお父様は軍事力の増強を考えていらっしゃるわ。グレツキ商会に外国の武器を調達させるのもその一環ね。あと、リディア様を叔父様の婚約者にしたのも」
「……何でそこで彼女が?」
不快そうな彼を王女は鼻で笑った。
「愛しいマージャの思い出に浸って自分を憐れんで三年も過ごされた方が、曲がりなりにも軍事の研究をなさっているでしょ」
ユゼフは完全に言葉に詰まった。からかうような笑い声をたてると、王女はさっさと彼を残して庭園の方へと行ってしまった。
私室に戻ったユゼフはリディアとの模擬戦闘の記録を読み返した。
「砲撃戦に騎兵の突撃……、ザハリアスの得意とする戦法だ。彼女は仮想敵国を演じてきたのか?」
それなら次はどんな作戦をとってくるだろうか。第二王子は帝国の戦闘記録を侍従に持ち運ばせた。
第三戦は激戦となった。
第二王子は新旧問わず最も射程距離が長い砲を主力に選び、敵に飛び込む隙を与えなかった。結局密かに移動した銃撃部隊から受けた損害の大きさでユゼフの敗北判定となったが、一方的だった前の二戦に比べれば格段に拮抗していた。
それでも悔しさを隠せない第二王子に、訓練教官が感心したように言った。
「失礼ながら、殿下はすぐに音を上げてしまわれるかと思いました。相手はエデルマン家のご令嬢ですし」
「前の二戦が酷かったからな」
教官があえて触れなかったことをユゼフは堂々と言ってのけた。苦笑しながらも教官は彼の姿勢を賞賛した。
「敗北から学ぶ者は強くなります。ぜひ次戦で挽回を、と言いたいところですが、残念ながら模擬戦闘で使える火薬類が底をついてしまいました」
それにはリディアも驚いた様子だった。
「使用量を誤ってしまったようですね」
「それだけ接戦だったということです。次からは座学や図盤を使用してください」
「図盤とは?」
ユゼフがこっそりと侍従に尋ねた。
「戦場の縮小模型ですね。紙に書いただけのものから立体的なものまで色々な種類があります」
「それでゲームのように駒を進める訳か」
理解はしたものの第二王子の表情は納得未満だった。
ユゼフが抱いていた違和感は、作戦室の戦術図盤を前にしてはっきりとなった。
「これは違うな」
きっぱりとした言葉に伯爵令嬢リディアが顔を上げた。
「何か支障がありますか?」
一つ頷き、第二王子は理由を述べた。
「演習場でさえ、土埃や硝煙でろくに前も見えなかった。実際の戦場も全体の状況は掴みにくいだろう。こんなに全てを見渡せるのは神くらいだ」
「殿下が気付かれるとは思いませんでした」
リディアは感心した様子だった。そして、彼女は侍従に頼んで図盤を取り替えさせた。平原とそれを囲む起伏に富んだ丘という地形だ。そこに歩兵や騎兵を配置し、彼女は説明した。
「これはロウィニア建国時の戦闘、シェロキ平原会戦です」
ユゼフの頭にも知識としてある戦いだ。リディアは淡々と語った。
「若き王子スタニスワフがシェロキ平原の支配権を賭けてバジキスタン、デルベスタンの連合軍と戦いました。両国の背後にはザハリアス帝国がいることは明白な状況で、苦戦を強いられることは容易に想像が付きました」
淀みない説明にユゼフは頷いた。ほとんど建国神話となっている有名な戦いだ。
「連合軍はダルガ川を挟んでロウィニア軍と対峙した。倍の兵を揃えた連合軍は余裕だったようだな」
第二王子の言葉を受けるようにリディアは続けた。
「そうです。背後には帝国の大軍が詰めていることも彼らの気を大きくしたでしょうね。対するロウィニアの作戦は最初消極的に見えました。川向こうに弓を射る程度で」
まだ銃が兵器として行き渡っていない時代だ。攻撃は弓矢、槍、剣が主力になる。リディアはダルガ川両岸の陣営を変えた。
「ここで連合軍はロングボウを撃ち込んできました。ロウィニアは後退し、陣形が乱れたと見えたでしょう。おそらく、連合軍は帝国の力を借りずに勝利することに固執していました。彼らの次の行動をご存じですよね」
「晩秋のダルガ川渡河だ」
第二王子は即答した。勝てると見込んだ連合軍の兵士は個人の戦果を求めた。帝国だけでなく共闘しているはずの友好国より多くの獲物が欲しかったのだ。
「その結果、歩兵も騎兵も雪がちらつく中で凍るような川を渡り、身体が冷え切った状態で戦うことになった」
状況を語るユゼフの声には侮蔑が滲んでいた。せっかく自慢の騎兵を揃えていたのに、わざわざ機動力を鈍らせてくれたのだ。それはロウィニア軍が待ち望んだ瞬間だった。
「後は叙事詩や歌で伝えられるとおりです。雪の中に総攻撃の角笛が響き王子の直衛部隊が反転攻勢に出ると同時に、丘を駆け下りたロウィニア騎兵が連合軍を背後から襲う。連合軍後衛が川に殺到し、そこにロングボウの斉射を浴びた前衛が後退する。戦いが決した後のダルガ川は赤く染まり川面は連合軍兵士の死体で埋め尽くされたと言われます」
歌うような伯爵令嬢の声が戦場の模型に凄惨な光景を重ね、戦略室の人々は薄ら寒い表情だった。一人、ユゼフは怪訝そうな顔だった。
「貴重な騎兵の兵力を割いて敵後方に回り込ませた奇襲。素晴らしい勝利だが、スタニスワフ王子はどうやって知ったのだろう?」
周囲の不思議そうな様子に気付き、彼は詳しく説明した。
「王子は最前線で戦っていた。敵の後衛の様子など見えなかったはずだ。対岸から飛んでくる矢や上陸してくる敵の剣を防ぎながら、千載一遇の好機が訪れた瞬間を何故察知できたのかが分からない」
リディアが軽く頷いた。
「それが分かるのは、かの王子ただ一人でしょう」
「現在でも解析されていないのか?」
戸惑う第二王子に教官が静かに答えた。
「敵の動きの変化、彼我の勢い、そうした戦場の空気を読める者。そしてそれを勝利に結びつけることのできる者を我々は英雄と呼び大王と称えるのです、殿下」
限られた情報から戦況を正確に把握し、形勢逆転できる瞬間を逃さない決断力が必要なのだとユゼフは理解した。
「我が軍にそのような者はいるのだろうか……」
無意識に口を突いて出た危惧にリディアが反応した。
「芸術や学問と比べ、戦争の才能を見いだすのは困難です」
「そうだな、まず戦乱になる必要がある。……なら、その人材を発掘できる環境を用意することなら我々にもできるのでは?」
教官が興味深そうな顔をした。
「身分階級に囚われない登用ですか。戦時中の限定措置になりそうですが」
「それでもないよりはマシだろう」
兄と父王とどちらに相談するべきだろうかとユゼフは考え込んだ。彼の婚約者は感嘆を込めた視線を向けていたが、本人は気付く余裕はなかった。
作戦室からスヴェアルト宮殿の本宮回廊を歩くリディアの耳に、周囲からの囁きが届いた。
「あれがエデルマン伯爵令嬢?」
「ユゼフ殿下の婚約者の…」
「華のない方ね」
「中継ぎ様ですもの、マグダレナ様と比べては」
「殿下が鬱陶しがるのも無理ないわ」
いつものこととリディアは聞き流した。それよりも彼女には優先すべき面会があった。
奥庭園の一角、王家専用の東屋に客人は待機していた。リディアは足取りを緩め、あからさまな愛想笑いをした。
「お久しぶりです、お兄様」
「ああ、王都に戻って帰宅前に陛下へのご挨拶に伺った。お前は変わりないか」
彼女の兄、エデルマン伯爵家嫡男アントニが居心地悪そうに挨拶した。かなり堅苦しい言葉が兄妹間で往復した後、アントニはようやく本題を切り出した。
「ユゼフ殿下相手に戦争を仕掛けたと聞いたが」
「今は座学で競っております」
リディアはすまして答えた。アントニは頭を抱えた。
「……お前、ただでさえ中継ぎ婚約者などと言われているのに、不仲説を増長させるような真似をわざわざする必要があるのか?」
兄の言葉に妹は大げさに目を瞠った。
「まあ、何てご立派なご意見なのかしら。到底、お父様共々イカサマぼったくりカジノに引っかかってケツの毛まで抜かれた方のお言葉とは思えませんわ」
飲みかけたお茶が気管に入り、アントニはしばらく呼吸困難状態となった。やっとのことで言語能力を取り戻した彼は、涙目で妹を叱責した。
「……リディア、貴族の娘がそんな下賤な言葉を…」
「あら失礼、お兄様方が不在中に屋敷に押しかけた者どもにさんざん罵倒されたもので。誰かさんが屋敷の抵当権まで渡してしまったおかげで」
アントニは言葉を失った。リディアは大きく溜め息をついた。
「聞かされたお義姉様は卒倒するわ、幼い甥姪は怯えて泣き叫ぶわで、私が交渉しましたのよ」
その言葉に伯爵令息はテーブルに額をぶつける勢いで謝罪した。
「すまない! あの件は本当に反省している! 無論、父上もだ!」
兄の後頭部に冷たい視線を向け、リディアは続けた。
「もっとも、狼藉者の対応は復活したお義姉様がしてくださいましたから。今からお前たちと話し合うのはこれだとおっしゃって、広間の床にお嫁入り道具のロングソードを突き立てた時のお義姉様の凜々しかったこと。あ、床の修理はまだですから、帰宅された折はお気をつけて」
神妙な顔でアントニはお茶を渇いた喉に流し込んだ。妹はとどめの言葉を伝えた。
「お義姉様から伝言です。『二度目はない』と」
兄が持つカップとソーサーがカスタネットのような音を立てるのを、リディアは溜飲が下がる思いで眺めた。
しばらくして落ち着きを取り戻した伯爵令息が呟いた。
「屋敷を手放さずに済んだのも、お前がユゼフ殿下と婚約していることで銀行が動いてくれたおかげか……」
「件のカジノ、出資元を辿ればザハリアス帝国に行き着いたとか」
「ああ、狙われていたということだ」
苦々しい顔の兄に向けて、妹が言った。
「お二人とも色仕掛けが通用しない朴念仁ゆえ、手段を変えてきたのですね。真面目な者ほど賭け事にはまると怖いということがよく分かりました」
「ザモイスキ領の辺境警備で目が覚めたよ。今がどれほど危うい情勢なのかは王都では実感しづらいことが身に染みた」
しみじみとした兄の言葉にリディアは眉をひそめた。
「そこまでですか」
「旧バジキスタン、デルベスタン両公国は完全に帝国の植民地だ。住民は通貨から言語まで帝国製を強要されている」
征服された者の行く末を見せつけられたアントニは覚悟が備わった顔をしていた。
「最悪の場合、ロウィニアはあの大国と開戦し、勝つ。いや、勝っている間に終結させねばならない」
「お父様や軍務省も同意見でしょうか」
「各方面から帝国の南下政策の報が入っているからな。猶予が少ないことは明らかだ」
「共闘してくれる国はありますか」
「次に脅威にさらされるモルゼスタンとは水面下で同盟の条約締結が進んでいる」
「あの国は旧アグロセン統治領。帝国も正面切っては征服に動かないと思いますが」
「ここで帝国にも立ち向かえることを宗主国に示して完全独立を勝ち取りたいのだろう」
ただ一国で北の大帝国とに立ち向かうことを思えば朗報だが完全とは言えない。
「列強の協力が得られれば状況が変わるのですが」
「難しいな、アグロセンもリーリオニアも表だって事を構えるつもりはないだろう」
帝国と国境を接する国には期待できないということだ。それならばとリディアはアヴァロン海の島国の名を口にした。
「ローディンはどうでしょうか」
アントニはしばらく考え込んだ。
「そうだな、あの国は表向きは帝国と敵対はしていないが、南方大陸の植民地拡大政策はザハリアスを刺激しているようだ」
「敵の敵からうまく協力を得られれば、勝利の確率は一桁違ってくると思います」
「問題は仲介者だな」
距離がある国だけに、国交は活発とは言えない。だがリディアは別方面に活路の可能性を示した。
「国としてはそうですが、交易は存在します。特に兵器輸入に関してはローディンを中継することも多いですし」
「国内の財界で最も意欲的なのはグレツキ商会か……」
「最新型の機関砲を手に入れてくれました。多少改善の余地はありますが」
軍人らしく、アントニは新兵器に反応した。
「あれが噂通りの性能なら、無敵と言われた帝国騎兵を足止めできるかもしれない」
「工廠での修理が終わる頃です。見学なさいますか」
「予定を空けておこう」
立ち上がりかけたアントニは、ふと思い出したことを気まずそうに告げた。
「……その、公爵家からの情報であのことの裏付けが取れたんだが」
「そうですか」
「いいのか、お前は」
真剣に気遣う兄に、リディアは動揺を見せずにお茶を淹れた。その反応に諦めた様子で伯爵子息は庭園から出ていった。
残された伯爵令嬢はぽつりと呟いた。
「所詮、中継ぎですから」
次の対戦は一応座学ということになっていた。しかし、会場である作戦室には第二王子と伯爵令嬢、そのお付きの者以外にも国軍の若き実戦指揮官たちがずらりと揃っていた。戸惑うユゼフに教官が説明した。
「殿下の対戦が軍部内で話題になっておりまして、ぜひ観戦したいという者が多かったのです。これでも人員は絞ったのですが」
中央に円形の戦術図盤が置かれ、それを取り巻くように階段状の座席がある作戦室に囁きがさざ波のように漂った。
それも今回の戦術図盤が示すものが分かると一気に静まった。
「講義の前に一言、全員この内容を一言たりと漏らすことは許さん。いいな」
眼鏡越しに鋭い視線を走らせ、教官は口を開いた。
「これは対ザハリアス戦を想定したものです。まず考えられるのは草原地帯を挟んで最も国境に近い都市アスピーダに戦力を集結させること」
リディアと並んで座るユゼフは静かに頷いた。軍隊はいきなり降って湧くものではない。駐屯地から移送させるのだ。
伯爵令嬢が質問した。
「この場合、輸送手段は鉄道と考えてよろしいでしょうか」
「最も早く大量に輸送できる手段を帝国は使うでしょうな。それも惜しみなく」
近年発明された蒸気機関は鉄道事業を各国で一気に推し進めた。線路を敷設できない場所ではまだ馬車が主流だが、それもより小型の外燃機関が可能になれば取って代わられるのではと言われている。
教官は帝国側に指示棒を向けた。
「現在、帝国南西部最大の基地を起点としてアスピーダに百万の兵を増強するとして、最短で何日かかりますか?」
基地から国境の都市までの距離、蒸気機関車の速度、機関車が一度に牽引できる車両と積載人員、帝国が保有する車両数。それら与えられた条件からユゼフは結論を導き出した。
「僕の計算では二十日だ」
「五日です」
ほぼ同時だったリディアの回答に室内がざわめいた。観戦のはずだった将校たちもそれぞれが計算をしていたのだ。
「それは無理ではないのか、最短で往復しても百万の増強は…」
「何故往復する必要があるのですか」
伯爵令嬢の反論にユゼフは戸惑った。ザハリアスの鉄道が単線なのは誰もが知っているからだ。機関車が戻らなければ次の増員を送れない。長い貨車の列を率いた状態で往路と復路のすれ違いは困難を極めるだろう。
「単線なら往復しなければ」
当然のことを語るうち、彼は気付いた。列強の国力と手段を自国の常識で測ってはならないことを。
「……だが、最初から一方通行で計画すれば」
彼の言葉が作戦室に沈黙をもたらした。
馬鹿馬鹿しいと笑う者はいなかった。ありったけの機関車を集め、国境まで次々に走らせる。終着点で機関車だけ車両基地に収め貨車は次々に分解していくなら復路は機関車一両のみ。速度は往路を遙かに上回りすれ違いも容易になる。
ユゼフは急いで計算をし直した。周囲の士官たちも同様だ。鉛筆を走らせる音が作戦室に響き、人々は次々に驚愕と恐怖の表情を作っていった。
「五日……、五日で帝国は戦闘準備に入れる」
絶望が彼の裡をじわじわと浸食していく。それを全身で振り払うようにしてユゼフは顔を上げた。
「それなら我が国が目指すのは開戦の主導権を握ることではないか」
教官は首肯し、伯爵令嬢は彼の横顔を見つめた。第二王子は紙に要点を書き連ねながら言った。
「帝国の不意を突く形で先制攻撃し成果を得る。これまで奴らが小国をすり潰してきた定石を覆して必勝の形に入るのを防ぐ。……言うほど簡単でないのは分かっているが、ザハリアスの南下政策を食い止めるのはもはや武力しかない」
将校たちはこれまでとは全く違った目で第二王子を見た。甘やかされた王家の末っ子という先入観は彼らの中から消滅していた。それに気付くことのないユゼフは、やや自嘲気味に婚約者に話しかけた。
「それにしても、単線で最大限の輸送力を導き出すとはな。今回も君の勝ちだ」
「いえ、これほど戦力差がある中で即対抗策を立てる殿下の方が…」
第二王子は首を振った。
「僕のはただの思いつきだ。教官、兵站関係を学びたいのだが誰に師事すればいい?」
「殿下がお望みであれば、拒む者などおりません」
恭しく頭下げる教官の背後で、将校たちは我先にユゼフの指導をかってでた。
彼が軍人たちに囲まれるようにして作戦室を出て行くのを、リディアは無言で見送った。
数日後、ユゼフが王国軍将校たちと庭園回廊を歩いていた時、突然将校たちが前方の人物に向けて一斉に敬礼した。
誰だろうと第二王子は答礼する人物を見つめた。
「ご無沙汰しております、殿下。アントニ・エデルマン、本日より正式に軍務省に復帰しました」
「エデルマン准将か」
彼の婚約者リディアの実兄で伯爵家の継嗣だ。醜聞沙汰を起こして国境地帯で激務に就いていたという噂をユゼフは思い出した。
「ザモイスキ伯の領地で国境警備に就いていたと聞いたが」
「その節は誠にご迷惑をおかけしました。しかし、国境地帯の現実を見られたのは得がたい経験でした」
たくましさを増した伯爵子息はきっぱりと答え、おそらく彼の経験を共有した将校たちも厳しい表情をしていた。
「アントニ卿の言うのは帝国の脅威のことか?」
「左様です。教官から、殿下の軍事研究は画期的であると聞きました」
「君の妹御ほどではない」
座学・研究でもさっぱり歯が立たないユゼフは賞賛を素直に受ける気になれない。アントニは頭を掻いた。
「妹は、その、社交そっちのけで父と軍事資料の山に埋もれてきたもので、殿下に非礼を働くこともあったかと…」
「婚約者らしいことをしてこなかったのは僕も同じだ。アントニ卿が気にすることはない」
快活な笑顔を見せた後で、ユゼフはアントニが民間人を連れているのに気付いた。
「前に見た顔だな……、グレツキ商会の者だったか」
「はいっ、ミハウ・グレツキです」
「ああ、機関砲の」
「はい、工廠での修理が完了したのでご報告に」
「そうか、本来の性能が出せるのだな」
興味を示したユゼフにアントニが提案した。
「見学されますか?」
「邪魔でなければ」
即決でエデルマン准将は第二王子を案内するためにグレツキ商会の息子と従卒を連れて宮殿を出た。
工廠では意外な者と鉢合わせすることになった。
「……リディア嬢」
「ご機嫌よう、殿下。お兄様も」
エデルマン伯爵家の令嬢もまた、修理された機関砲の見物に来ていたのだ。
「本当に研究熱心なのだな」
素直に感心する第二王子を周囲の者は温かく見守っていた。一人、アントニだけはどうして工廠ではなく劇場や夜会で打ち解けないのだと頭が痛そうだったが。
リディアはいつもの冷静な態度で言葉を返した。
「殿下の方こそ、今では教官も驚くほどの熱心さで私的研究会を開かれているとか」
「そのような大それたものではない。まだまだ不勉強なことが多いから人を集めて質問しているだけだ」
ユゼフはそれよりも機関砲の威力を確かめたくてうずうずしていた。
「試射はどこで?」
「これは周囲の安全のためにも演習場に移動する必要があります。すぐに荷馬車を用意させます」
「それなら一緒の馬車で行かないか、リディア嬢」
「よろしいのですか」
「君も興味があるのだろう?」
伯爵令嬢はためらいがちに頷き、微笑んだ。
「お気遣い嬉しく思います」
花開くような笑顔にユゼフの鼓動が跳ね上がった。第二王子は決まり悪そうに告げた。
「いや、本来ならもっと交流を持たねばならないところを不義理ばかりしてきたのは僕だ。すまなく思う」
謝罪を受け、リディアは思い詰めた様子で口を開いた。
「…殿下、実は」
そこに機関砲移送の準備ができたと工廠の技師が報告した。ユゼフに手を取られ、リディアは王家の馬車に同乗した。
騎馬で馬車と併走するアントニは、演習場に続く道を何かが塞いでいるのに気付いた。
「すぐに近くの詰所に増援を要請しろ」
従卒を走らせ、彼は用心深く馬車の周囲を警戒した。
「車輪が壊れたのか?」
窓から様子を見たユゼフが呟いた。リディアも不安そうにしている。故障した馬車の御者らしき男がやたらとペコペコしながら言い訳する姿が見えた。彼女は不意に眉をひそめた。男の上着の裾から銃把が覗いていたのだ。伯爵令嬢は叫んだ
「お兄様、武装しています!」
咄嗟にアントニは下馬し、従卒たちと共に銃を構えた。壊れた馬車の背後から別の馬車が現れた。それを盾にするように銃撃が始まった。こちらも反撃するが、銃弾は馬車に跳ね返されてしまう。
「装甲馬車か」
馬車と言っても馬は繋がれていない。後方に蒸気の煙が見えることから蒸気機関で動くようだと見当が付いた。陸軍准将は舌打ちすると王家の馬車に向けて怒鳴った。
「大丈夫ですか、殿下!」
「今のところは……」
ユゼフはリディアを庇い、床に伏せるように低い体勢を取った。どうするか迷ううちに馬車の扉が破壊され、襲撃者が彼らを引きずり出そうとした。第二王子は護身用の拳銃を撃った。焦っていたため相手の肩を掠めただけだったが、時間は稼げた。別方向からの銃弾が襲撃者の頭部を撃ち抜いた。
詰所から援軍が到着したのだ。数では互角の銃撃戦となった。ひと息ついたユゼフは怯えているであろう婚約者の方を見た。だが、馬車内にいるのは彼だけだった。
「……リディア嬢?」
第二王子が唖然とする間、伯爵令嬢は腰を抜かしていたミハウ・グレツキを強引に手伝わせていた。
「この覆いを取り除いて、使えるようにします」
「あの、お嬢様、これが何だか分かってるんですか?」
「だから使うのよ、早く」
大商会の会頭の息子は半分やけで、荷馬車に乗せられたオチクス社製機関砲の姿をあらわにした。
「くそっ、奴ら馬車にどんな装甲をしたんだ」
アントニが忌々しげに襲撃者に銃弾を浴びせた。だが、黒い蒸気馬車はびくともしない。やがて王家の馬車めがけてロープが投げられた。端に取り付けたフックが馬車の車輪に絡まり、車軸をへし折った。
「殿下のお側から離れるな!」
エデルマン准将はいざとなれば自身を盾にしてでも第二王子を逃そうと馬車に向かった。その時、背後の荷馬車が突然進み出た。振り向いたアントニは愕然とした。
荷馬車に積まれた機関砲は覆いを取り去り銃口を襲撃者の馬車に向けていた。その銃座に座るのはうら若い娘――エデルマン伯爵令嬢リディアだった。
「リ、リディア……」
兄が慌てて妹を止めようとし、襲撃者たちは嘲笑った。
「大層なモン持ち出して来やがったぜ」
「しかも女が」
「おい、怪我するぞー」
野次を無視し、リディアは無表情に弾倉を装填すると機関砲の引き金を引いた。
つんざくような砲声が空気を震わせ、あれほど強固に思えた装甲馬車が見る見るうちに原形をとどめないほど破壊されていく。
弾倉が空になった時、襲撃者たちが盾にしてきた物は鉄くずと木片の固まりと化し、ボイラーが轟音を立てて爆発した。敵も味方も言葉も出ない中、リディアは次の弾倉を装填した。
「回転、右十五度」
その命令にミハウ・グレツキが回転式に改造された銃座のハンドルを懸命に回す。機関砲の砲口は襲撃者たちを捉えた。
「よせ! 撃つな! 撃たないでくれ!」
必死の形相で両手を挙げ膝をつく彼らを見て、アントニがやや気の抜けた声で命じた。
「……武装解除しろ」
馬車の中からその様子を見届けたユゼフは慌てて婚約者に駆け寄った。
「リディア嬢、無茶にもほどがあるぞ!」
「俺の寿命を縮める気か?」
詰め寄る婚約者と兄に、伯爵令嬢は不思議そうに答えた。
「弾詰まりは解消しています」
――違う、そうじゃない。
ユゼフとアントニは同じ言葉を呑み込んだ。周囲を見回し、リディアは初めて顔を曇らせた。
「塀と石畳を破損させてしまいました。騒乱罪にあたるのでしょうか?」
額を押さえ、どうにかしてユゼフはこの場を収めようとした。
「アントニ卿、僕はリディア嬢と一緒に王宮に戻る。ここの処理を頼めるか?」
「御意、早急に奴らの背後を洗います」
陸軍准将は深々と頭を下げ、妹に向けておとなしくしてくれと視線で哀願した。代わりの馬車が調達され、ユゼフはリディアを伴いスヴェアルト宮殿に戻っていった。
「さて、憲兵隊に尋問させるか」
呟くアントニに、ミハウが声をかけた。
「これ、外国製ですよ」
彼が持つ装甲馬車の車輪(の残骸)には、ロウィニアのものではない刻印があった。
二人が宮殿の門をくぐるより先に襲撃の報が王宮にもたらされていた。
「ユゼフ、無事か?」
蒼白な顔で王太子クリスティアンが弟を迎えた。
「アントニ卿が守ってくれました。……リディア嬢も」
「そうか、怪我もなくてよかった」
安堵のあまり、クリスティアンは弟の返答にあった奇妙な間に気付かなかった。それからエデルマン伯爵令嬢に気遣う言葉をかけた。
「怖い目に遇わせてしまったな、リディア嬢」
「いえ、オチクス社製機関砲の本来の威力が分かり有益でした」
当然ながら王太子は言葉に詰まった。彼の侍従が何事かを囁き、王太子は表情を改めた。
「ユゼフ、先ほどブラウエンシュテット公から聞いたのだが、マグダレナが帰国したようだ。既に王都に到達しているらしい」
「……マージャが…」
第二王子は呆けたように固まった。あれほど再会を願った元婚約者が戻ってくる。兄の言葉の意味が頭の中で繋がり、彼は思わず隣を見た。
そこにいたはずの伯爵令嬢は姿を消していた。
スヴェアルト宮殿に第二王子の元婚約者帰還の知らせが広まるのに時間はかからなかった。
「お聞きになりまして? あのマグダレナ様が帰国なさったとか」
「ええ、驚きましたわ」
「三年になるかしら」
「殿下との婚約は白紙に戻ってしまいましたけど、これは分かりませんわね」
「今のエデルマン令嬢とは合わないことですし」
「そのリディア様は白昼に町で武器を持って暴れたとか…」
「それは解消ですわね」
好き勝手な憶測が宮廷中にばらまかれる間、当事者であるユゼフは部屋にこもっていた。
寝台に転がり、片手を天蓋に向けて伸ばす。何かを掴むように手を握りしめるが、当然広げても何もない。
そんなことを繰り返しながら第二王子は考えた。
――マージャが帰ってくる。
あれほど慕った元婚約者に再会できるのだ。もう一度会いたいと眠れぬ夜を過ごした相手に。
当然歓喜に湧き上がるはずなのに、今の彼にあるのは困惑ばかりだった。
「でも、どうして……」
本当は自覚していた。ここまで離別のショックを引きずってきたのは理由が分からないためだと。
彼女の口から三年前の真相を聞くことができれば吹っ切れるだろうか。無為に過ごした時間を取り戻せるだろうか。
現婚約者であるリディアとの関係を改善できるだろうか。
そこまで考えてユゼフは気付いた。自分がマグダレナとの復縁を全く検討事項に入れていないことに。
彼女との日々は懐かしく暖かな家族の思い出として記憶の中にある。常に優しく見守ってくれたこと、幼い頃に顔も知らない母親に会いたいと駄々をこねた時に抱きしめてくれたこと。
「……愛していると思っていた」
口にした言葉に吊られるように頭に浮かんだのは華やかな公爵令嬢の姿ではなかった。平凡な茶色の髪と瞳の伯爵令嬢の表情の読みにくい顔、巧みな乗馬姿、戦術を語る時の生き生きとした様子、ユゼフの失策を容赦なく指摘し同じように立案を賞賛する声、別人のように魅力的な笑顔。
「彼女に会わないと」
おそらく宮廷の無責任な噂で不安に思っているだろう。そう思い至ったユゼフは侍従を呼んだ。
「エデルマン伯爵令嬢に面会したい」
婚約者として共にする公務も多く、王太子妃宮の一室を与えられている彼女に会うのは容易なはずだった。だが、帰ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「ご令嬢は先ほど王宮を出て王都内のご自宅に戻られました」
ユゼフの顔から血の気が引いた。三年前の記憶が甦る。
『マグダレナ嬢は既に国外に出発されました』
婚約白紙撤回の報告を聞き、理由を知りたいと面会を求めた時の拒絶。何も分からないまま一人放り出されたような喪失感と絶望。
礼儀も何もかもかなぐり捨て、第二王子は王宮内の厩舎へと走り出した。
スヴェアルト宮殿を出たエデルマン伯爵家の馬車は、首都パデレシチに続く森を走っていた。
一言も話さない伯爵令嬢リディアに、侍女がおずおずと問いかけた。
「よろしかったのですか? 殿下にご挨拶しなくても」
それにも何も応えずにいた伯爵令嬢は、ふと窓から顔を出して後方を見た。彼女は目を見開いた。
後方から一頭の馬が猛追してきた。遠目に見ても駿馬と分かるその背に乗っていたのはさっき話題に出たばかりの人物だった。
「……殿下」
馬丁厩務員その他諸々の引き留めを振り払って騎乗したユゼフは、馬車の紋章を見て更に馬を加速させた。
「リディア嬢!」
今彼女に言わなければ、全てがおしまいになってしまう。焦った第二王子は馬車に馬を寄せた。リディアは珍しく驚いた様子だったが、その口を突いて出た言葉は相変わらず冷静だった。
「殿下、前方を注意された方が」
「……え?」
横を向きっぱなしだったユゼフが顔を前に向けた時、視界を塞いだのは木の枝だった。次の瞬間、衝撃と共に彼の意識は途切れた。
誰かの声に誘われるように意識が浮上した。囁き声が耳に入ってくる。
「……殿下が気付かれたようです」
目を開けたユゼフは、自分が地面に横になっているのに気付いた。正確には地面にあるのは身体の大半だったが。
彼の頭部はクッションの上に置かれ、そのクッションは誰かの膝にあった。
「大丈夫ですか、殿下」
そっと問いかけてくるのがエデルマン伯爵令嬢リディアで、彼女の膝に頭をもたせかけた状況と認知したユゼフは反射的に起き上がろうとした。
しかし、手袋をした手がそっと彼を押しとどめた。
「頭を打って落馬なさったのですから安静にしてください。すぐに宮殿の侍医が参ります。手や足は動かせますか?」
「……ああ、問題ない」
心配そうな口調で言われ、第二王子は己のしでかしたことを徐々に理解した。情けなさのあまり片手で顔を覆い、彼はぼやいた。
「格好良く追いかけるつもりだったのに」
そして、膝を貸してくれる婚約者に頼み込んだ。
「僕が君との交流をおろそかにして来たことは謝罪する。…だから、君まで突然いなくならないでくれ」
伯爵令嬢は息を呑んだ。しばし沈黙した彼女はためらいがちに答えた。
「市中を騒がせてしまったので謹慎しようと自宅に戻るつもりでした。……あの、お側にいていいのでしょうか」
「君がいい」
きっぱりと答えた後で、きまり悪そうにユゼフは付け加えた。
「……まだ一度も勝っていないからな」
リディアは小さく笑った。彼女の身体の震えがドレスとクッションを通してユゼフに伝わった。それは酷く落ち着かない気分にさせる振動だった。
つられるように鼓動が早くなったユゼフは、誤魔化すように話しかけた。
「マージャ……ブラウエンシュテット公爵令嬢が帰国した」
「存じております」
「挨拶に登城するだろうが、君も同席してくれないか」
「…分かりました」
ほっと息をつき、ユゼフはリディアの膝の感触を頭から追い出そうと苦労しながら宮殿から医師が駆けつけるのを待った。
三年ぶりの元婚約者との会談は、宮殿奥の庭園にある東屋で行われた。
「ご無沙汰しております、殿下」
挨拶をするブラウエンシュテット公爵令嬢マグダレナは輝かしい美貌に磨きをかけ、華やかさも優雅さも変わることなく……。
そして誰がどう見ても妊婦だった。
「ホレイシオ・ウェリントン様との結婚も懐妊も実家に伝えていたのに、誰かが妙な気を回したのですね」
再会から全く口もきけない第二王子と彼の婚約者に向け、今はローディンの伯爵夫人となったマグダレナは嘆かわしげに言った。彼女は口調を変え、真摯にかつての婚約者に詫びた。
「三年前、出奔同然に去ってしまったことをお詫びします」
「……その、よければ理由を教えてくれ」
ようやく言葉を発したユゼフに、伯爵夫人は溜め息をついた。
「私は下に弟妹がいないせいで、殿下との婚約を本当の弟ができたように思っておりました。誰よりも大事に可愛がるのだと子供心に誓ったものです」
頷く第二王子も幼い頃の記憶を呼び起こしていた。彼女の言葉は次第に深刻なものになっていった。
「年上の私が支え、教えて差し上げなければと気負って保護者気取りを続けた結果気付いてしまいました。殿下が何をするにも私の指示を伺い、私の好むものを当然のように選ばれるのを」
ユゼフは驚愕した。確かに考えてみればあの頃の自分はマージャの言うことなら間違いないと思い込んでいた。全幅の信頼と言えば聞こえはいいが、彼女に依存しきっていたのだ。マグダレナは眉をひそめた。
「本当にぞっとしました。自分はどれだけ殿下の可能性を潰してきたのかと。それで対応を改めようとしたのですが、人の性分を変えるのは至難の業でした。どうしても全てに口出しするのも一から十まで手取り足取りするのも直せず、最後の手段として物理的に距離を置くしかないと決めました」
美貌の伯爵夫人は再度大きく息をついた。
「薄情な自分に愛想を尽かしてもらえたらと都合のいいことばかり考えて置き去りにされた殿下を傷つけた可能性に気付くのが遅れてしまい、どう説明すべきかと悩んでおりました」
「……そうだったのか……」
やっと明らかになった経緯に、ユゼフは胸の奥が軽くなるのを感じた。まず自分が嫌われていたのではないという安堵。そして彼女は自分にとって母であり姉であり親友だったが、それ以上にはなれなかったのだという納得。
それらは三年間わだかまっていた彼の鬱屈を緩やかにほどき押し流していった。
ゆったりしたドレスを着たマグダレナに、リディアが質問した。
「あの、不躾な好奇心なのですが、ご夫君はどのような方なのですか?」
マグダレナは微笑んだ。
「全てにおいて私より一枚上です。私も海防に関しては門外漢なので、今は勉強中です」
ローディンの海軍を統べる名門貴族に嫁いだマグダレナは、その重責すら楽しんでいるようだった。ユゼフは自然な口調で話すことができた。
「マージャ……、いや、ウェリントン伯爵夫人、君が幸福そうで僕も嬉しい」
「勿体ないお言葉でございます、殿下」
答える彼女の目にはうっすらと涙が光っていた。
その後は打ち解けた会話が続き、やがてマグダレナを見送ったユゼフとリディアは二人で庭園を散策した。
庭園の様子をこっそりと眺めていたバーシャは、背後に立つ者に声をかけた。
「どうやら叔父様はリディア様との未来を選ばれたようね。あなたも安心したのではなくて、ザモイスキ伯」
辺境領から王都に来ていた伯爵は苦笑気味に答えた。
「確かにそうですが、よろしいのですか? 王太子殿下が探されていたのに」
「どうせ私の片付け先に関することだもの。あなたも宮廷のみんなのように『出戻り王女』と呼んでも構わないのよ」
二度婚約者と死別している王女は身も蓋もない返答をした。ザモイスキ伯は笑った。
「妻に逃げられた男に何も言う資格はありませんよ」
若き日に典雅な貴公子と謳われた美貌を戦傷で損ねた伯爵に、王女はきっぱりと言った。
「名誉の負傷の価値も分からない者など放っておきなさい」
彼に向けて差し伸べられた手を取り、辺境伯は王女を導いた。
「では、王太子殿下の元にご案内します、バルバラ王女殿下」
のぞき見に気付くこともない第二王子は婚約者と和やかな会話をしていた。
「すっかりウェリントン伯爵夫人と意気投合したようだな」
「本当に多才で聡明な方ですもの」
妊婦が乗っていても負担にならないほど揺れが軽減された馬車の話題で盛り上がっていた様子を思い出し、ユゼフは貴婦人の話題としてはどうだろうかと考えた。彼女たちは最後にはそれで運送できる武器弾薬を熱く語っていたのだ。
リディアはそっと告白した。
「本当は、もっと前にマグダレナ様の帰国の情報は掴んでおりました。それで、殿下に宣戦布告したのです。百日後にはあの方が戻ってきてこの婚約が終わりになるかも知れないと」
「まだ半分も残っているんだ。一つも勝てていないのに終わらせるわけがないだろう」
怒った口調でいながら悪戯っぽく笑う第二王子を見て、リディアも微笑んだ。ユゼフが何より好きな笑顔だった。
「ザモイスキ伯が辺境軍で使用期限が切れた弾薬類を譲ってくださるそうです」
「なら、次は演習場だな。陸軍の将校たちも参加したがるだろうな」
「やはり対ザハリアスを想定しますか?」
「ああ、残された時間があるなら徹底的に考えたい」
甘い睦言とはほど遠い会話だったが、二人の手はずっと繋がれたままだった。
* *
二年後、ロウィニア王国はザハリアス帝国に対し宣戦布告と同時に攻撃を開始し、後年『電撃戦』と呼ばれる初戦に勝利した。後に陸軍元帥となるアントニ・エデルマンと王女バルバラが降嫁したザモイスキ伯爵を中心に、苦しい戦闘が続いても決して屈することなく、帝国内の混乱にも助けられアスピーダ大会戦の勝利で対ザハリアス戦役は終結した。ロウィニアへの武器調達と情報収集にはグレツキ商会を通じてローディンが大きな役目を果たし、主導したのはウェリントン伯爵だった。
第二王子ユゼフは臣籍降下しレヴィツキ公爵となった。公爵夫妻は子に恵まれなかったが戦役で親を失った子供たちを邸に保護し教育を与えた。そこから多くの優秀な軍人を輩出したためレヴィツキ私設士官学校と呼ばれ、後年旧公爵邸がロウィニア王国の正式な士官学校となったのは有名な話である。
今年最後の短編です。読んでくださって有難うございます。