第6話 だから、俺はただ絶望するしかなかったんだ
次の日、朝の七時きっちりに目が覚める。目が覚めて最初の景色は真っ白な猫の尻だった。
「おはよう界人。いきなりだが大問題だ」
喋る白猫が、白い尻を向けて言う。やはり昨日の出来事は夢ではなかったか。しかし、寝起きなので思考の整理がつかない。大問題とは? もう少し眠らせて欲しいんだが。
「トイレのドアが開けられない。このままでは君の顔面に排便をする羽目に――」
「わー! わー!」
セムの青ざめるような言葉のお陰で、頭の方もすっかり眠気が引いた。どうせトイレに失敗するくらいならそこらの床でしてくれた方がマシだというのに、こいつは律義に俺を起こして尻を構えていた。そういえばそこら辺でウンコするのは天使の尊厳に関わるとかなんとか言ってたっけか。いやいや、人の顔面に漏らして保たれるプライドなんて。俺からすればそれこそまさにクソくらえなのだが。
「はぁ」
なんとかこの駄目猫の排泄介助を終えた所で、俺は腰を落ち着けて朝食を取ることができた。
セムの朝食は、昨晩、夜中に母がコンビニで買ってきた猫缶だった。母の前では普通の猫として振る舞う、ということでセムは特徴的な天使の輪も人語を喋ることも控えている。
「母さん、こいつ猫用トイレ買ってあげた方がいいよな」
ないよりかはマシだろう。ここは飼い猫と天使の折り合いのつけ所だと思う。セムにはちゃんとした猫用トイレで済ませてもらいたいのだ。
「そうねぇ」
「……おっ、お願いしていいかな」
「まぁ! 私だって猫飼いたかったんだから、そんな遠慮しなくてもいいのよ界人」
「あぁ、おう……」
母との会話の際中、足元にくすぐったい感覚がした。がた、と椅子を下げて確認すると、そこにはいたずらっぽく「にゃん」と鳴くセムの姿が。
言いたいことは分かる。なんてぎこちないコミュニケーションなんだ、と。そう言いたいんだろう。
仕方がないことなんだ。父の不倫で離婚してから間が悪くグレてしまい、それなのに母は俺に対してストレスを抱くでもなく、逆に申し訳ないと感じている。その様子は子供心で分かるのだ。
仲が悪いからではなく、接し方が分からなくなった。グレてから一日に会話する数なんて片手で足りる程だった。酷い時は一言だって言葉を交わさない日もあった。ただ、だからこそだろうか。俺が申し訳なさそうに我儘を言う時、母はとても嬉しそうにするのだ。それがどうしようもなくこそばゆく、殊更に申し訳がなく、母猫に首根っこを掴まれた子猫のような心持ちになる。
ここまで真っ直ぐな愛情を前にしても、素直になれないのが俺の悪いところだ。
流石に今日はきちんと学校に通おう、と勇んで時間通りに到着したのは良いものの……俺は通学鞄の奇妙な重みに、眉間で皺を作りながら、渋い顔で登校することになった。
「なんで」
「なんでも何も。私の助けなしに君が京介とまともに接触できるとは思えないからだよ」
鞄を覗いてみると、そこには当たり前のように鎮座する白毛玉の駄目猫だ。
昨晩少し経緯を話しただけで随分な言いようだ。グリゴリとはそんなに人間のことに詳しいのか。
「その通り。私達は人と最も近い所にあり、そして人を愛しているのだ。何とかしてやりたいというのは職業病のようなもので、君みたいな頑固で素直じゃない不器用な人間こそ、私が求める『救いたくなる人間』なのだよ」
「それが天使の、グリゴリの尊厳って奴なのか」
「なのだよ」
だったらなんでも良いけども。内申を今更気にするようなこともないし、ただ猫を学校に連れてきたというのは仲間や周りの生徒などにバレると恥ずかしいから、それだけ避けられれば俺は十分だ。
きっと、このセムの相当な自信の有り様から、俺も少なからず期待しているのだろう。何せ想像と幾分か遠いにせよ(恐らく)本物の天使様だ。黄金色の空の向こう、天上におわします父なる神の存在も信じられないことはないし、神がかり的な奇跡か何かで、このぐしゃぐしゃの友情が修復できればと願わずには居られなかった。
「そうだな。まずは薊京介の好きなものが必要だ」
授業をやり過してようやく迎えた昼休憩。人気のない屋上でセムは言った。
あいつの好きなものと言えば、『かわいいもの』が好きだった気がする。
「ほう? となれば私の出番だな。」
セムは鞄から飛び出して、キャットウォークをしながら語ってみせた。
「小さいながらにまんまるとした全体のフォルム。天使特有の不老だからこそ維持できる毛のふわふわ感とさらさら感。そして良い腹の肉付きに顔の丸み。どこから見ても天使らしく、ギリシア彫刻に比肩する美しさだろう」
後半の豪語には、そう易々と賛成していいものか迷うが。ギリシア彫刻のモデルである神様側が言うのだから良いのか?
猫好きではないので、そういったアピールポイントに疎い俺だが、『かわいいもの』好きで思い出せるものと言えば、一つあった。
「ヘイロー集めをしてた時、写真を撮ってたな。京介の親父から借りたデジカメで」
「ほう、殊勝なものだな。行動しただけで満足せず、形に残そうとするとは。幼年にして素晴らしい意識だ」
褒めてくれるのも結構だが、これを提案したのは他でもない京介自身だ。俺は自分の頭上に輪がある写真に興味は無かったし、その時々に見るだけで良かった。言ってしまえば、行動しただけで満足した方だった。
「む? ではかわいいと何の関係が?」
「京介は写真を撮る時、可愛いって言ってた気がする。そういう、頭につけるアクセサリーとかが好きなのかな」
「写真を撮るのは京介だけで、その時に可愛いと言っていたのか。ううむ、それは恐らくヘイローのことではなく……」
「うん?」
俺が首をかしげてセムを見遣ると同時に、昼休憩の終わりを知らせる予鈴が鳴った。セムは特にそれ以上何も言わず、黙って鞄の中に入っていく。少々気がかりだったが、猫を抱えて動くのは意外に大変なので、慌てて教室へ戻ることにした。
かくして迎えた放課後だったが、結局それまでに薊京介と出くわすことはなかった。教室を覗いても居なさそうで、また「京介はどうした」と訊ねて以前のように騒がれるのは御免なので捜索は諦めた。
であれば放課後、あいつの家に行くのが確実だろうというのが俺とセムの合意だった。セムの助言に従って準備を済ませ、俺は早速、薊家の門を叩いたのだった。
「やぁ界人くん。久しぶりだね、5年生の時以来かなぁ」
「あ、お久しぶりです。京介のお父さん」
招き入れられて、リビングに通され、最初に見たのは京介の両親だった。平日の夕刻前だというのに家族が揃っているのは、若干の違和感があった。
「あの、早速なんですけど、京介って――」
「あぁ、京介は……あいつは今体が弱っててね。重病なんだよ」
そこまでは聞いた話だ。あいつは顔が良いし、人当たりも良いから、皆が心配してその様子を気に掛けていたことだろう。不良の仲間ですら知っていた。
「それって、大丈夫なんですか」
「やっぱり、本人から聞いていないかい……?」
問いの後に、京介の父親は重苦しく口を開けて明かした。当然俺にはそんなことは初耳だったし、きっと他のクラスメイトなどにも明かしていない事実だろう。しかし俺自身、そのことを微塵も想像だにしていなかったと言えば嘘になる。
だけど普通そんな筈はない、考え過ぎだと斬って捨てる想像のはずだ。言われなければ気付かないし、何かの病気というだけで、気になるのはまずその病名などの情報だろうから。だから、俺はただ絶望するしかなかったんだ。
「京介は、余命半年なんだよ」