表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/25

序、夜会の罠 1

「お兄様! 助けて……助けてくださいぃぃ!」


 ティアンは兄がいる休憩室に入って早々、懇願した。


 夜会会場の通路をできる限り急いで歩いてきたせいで、何曲もダンスをした後のようにティアンの息はあがっていた。

 頬を高揚させて、アイスブルーの瞳を潤ませて、休憩室の扉に縋りついた。

 両親はこの夜会に不参加で、会場内でティアンが頼れるのは兄であるライアンしかいない。


 どうしてこんなことに。と後悔しながらも、とにかく早く夜会の会場から、両親が待つ屋敷へ帰りたいのだ。

 そして、会場から帰るには、共に来た兄に頼る他ない。



「ティアン? いきなりどうしたんだ」


 ライアンは訝しながら、部屋に入るように促した。

 会場内で別れてからなにがあったのか。

 会場入りした時のティアンの可愛らしさは、いまやない。ハーフアップに結い上げられたハニーブロンドの髪は乱れているものの、新調したドレスはそれほど乱れていないのに、ティアンの表情は強張って、通路を気にしているようだ。


 ティアンがこうなったのは、ダンスを嗜んだせいではないのだろう。ダンスで乱れたりしないように髪はきっちりと侍女が結い上げていた。


 ライアンと最初にダンスをしたあと、他の貴族に誘われて相手を譲ってから、これまでに何が彼女の身に起きたのか。


 妹をなによりも大事にするライアンは、妹を心配しながらも、ティアンの可愛らしさを損なわせた“なにか”に怒りを露わに、くつろいでいたソファから乱暴に立ち上がった。



「なにがあった!?」


 扉を支えに、潤んだ瞳で兄をみつめる。そうすれば兄は、ティアンを助けてくれる。幼少の頃から変わらず兄はティアンに優しい。


 ただ、一度怒らせてしまうと、顔がとてつもなく怖くなるのが難点だった。見てしまった側の表情筋が引き攣って、目を逸らしたくなるほどに怖い。

 ライアンは心配げな表情で大股に歩いてくるが、その歩が、急にぴたりと止まった。


「?」


 ティアンは首をかしげた。すぐに、思い当たることがあり、青ざめて、通路を急ぎ振り返った。


 …………誰もいない。


 慎重に扉の陰から顔を出して通路を遠くまで見渡し、人がいないことを確認した。

 見つかってしまうような失敗はしていないはずだ。

 安堵したのも束の間。


「ティアン」


 ティアンの腕が強引に掴まれ、引かれるままに、振り返る。

 そこに立っている人が誰が分かると顔をしかめた。


 兄の学院時代からの友人であり親友である、ハロルド。

 夜会に出るために、いつもは下ろしている銀色の髪を後ろに撫で付けて、鳶色の目がティアンを冷淡に見下ろしていた。


 彼もこの部屋で休憩していると知っていたら、急いで来てまで兄に助けを求めてない。

 会場内の至る所にいる給仕に助けを呼んでいたというのに。


「ハロルド。ティアンを離せ」

「そんな怖い顔で迫ったら、大事なティアンが怖がって逃げてしまうよ?」


 ハロルドが兄の昂った感情を冷まさせようと、冷静に指摘した。

 王城の騎士団に所属しているライアンは、ティアンにとことん甘い。

 ライアンの知らないところで、ティアンが傷つけられることがたまらなく許せない。そのせいで怒りの沸点を簡単に超えてしまう出来事が過去に何度かあった。

 ティアンはなるべく兄を怒らせまいとしているのだけれど……上手くいかない。

 目尻を吊り上げ、いまにもティアンに迫ろうとする兄から、兄妹の間に入り込むことでハロルドはティアンを守った。


「どうして、冷静になれと?」

「落ち着け。ただ、転んだだけかもしれない。昔のように」

「助けて、と聞いた気がするが?」


 友人同士がティアンのことで睨み合う。

 どちらも引き下がらないから終わりがない。


「兄様たち、そんな時間はないのだけれど!?」


 怒る兄と、冷静な友。

 対局する二人のいい争いを呑気に止めている時間すら、いまは惜しい。

 助けを求める相手を間違えたようだ。

 ティアンが叫ぶように言うと、ハロルドと睨み合う形相のまま、ティアンに向く。


「時間がないってどういうことだ?」


(ひえっ)


 ティアンがハロルドの背に顔を隠す。

 般若のような形相に、目を瞑りたくなった。

 かなりお怒りのご様子。

 ここにハロルドがいなければ、ライアンは怒りに任せて会場に乗り込んで行っていたかもしれない。


「落ち着け、ライアン。まだ、わからないから」


 ティアンの腕を掴んだまま、ハロルドはライアンの肩を掴んだ。


「とりあえず、座ろうか。ライアン?」

「ハロルド、わかっているよな?」

「ああ、ちゃんと」


 ハロルドは肩をすくめた。返事の代わりらしい。

 ライアンは友人をひと睨みする。ハロルドの勧めに、冷静さを欠いた兄は大股で座っていたソファへ戻った。

 怒り狂う兄がいると余計に事態をかき回して、余計にひどくしてしまうから、離れてもらうのはいい判断だ。


「それで、なにをしたの? ティアン」


 さも当然のように、ライアンと同じことを聞いてくる。

 ティアンが困っていることを、ハロルドに助けを求めるのはなにか違うように感じた。


「あなたには、関係ないこと、ですよ?」


 あなたの助けはいらないと、掴まれた腕を振り払うも、相手の力が強くて出来ない。


「へえ? 妹のように可愛がってきた僕には言えない事?」


 悲しみを込めて、嘆息された。

 これまでの彼のティアンに対するものすべてが、“妹のように可愛がった”ですまされてはたまらない。

 口端が意地悪く見えるのは気のせいじゃない。


「か、かわ!? なに馬鹿なこと……っ」


 ティアンは忘れてない。


 彼は屋敷へ遊びにくると、ことあるごとにティアンをからかってきた。

 新しいドレスを着てめかしこんだ姿を、ドレスに着られていてまるで人形みたいだと笑われて。

 庭で小難しい本を読んでいると、いつのまにか来ていたハロルドに、まだ早いと、あっけなく奪われて。

 巷で流行りの小物を誕生日に欲しいと両親にねだれば、なぜかハロルドから一昔前流行したものを嫌がらせのように送られた。



 ティアンの初恋は、ハロルドだった。


 はじめて会った日から変わらず、幼いティアンの目にはハロルドしかみえていなかった。

 それなのに。

 意地悪やからかいは、加速するばかりで、やめてもらえない。


 ――気に入らないならほっておいてほしい。


 そう訴えると、意地悪く笑って、「僕の趣味だ」なんて言われた日。淡い恋心があっけなくガラスのように砕け散ったのはいうまでもない。



 ティアンには時間がない。

 遠くから声が聞こえてくる。

 探し人を見つけられないことに、怒りが混じった男性の呼び声は、ティアンをビクつかせるには十分だった。

 ハロルドに反論しようとした口を、おのれの両手で慌てて塞いだ。

 いまここで叫んだらバレてしまう。


「ふぶっ」


 声になる前に空気が指の間から漏れて、変な声になってしまう。

 ここで抗議すれば、誰もいない通路に声が響き、外にいる人に(、、、、、、)居場所がしれてしまう。

 休憩室で、ハロルドを相手にしている時間はない。

 けれど、このまま休憩室でのんびりする時間もなくて。


「兄様、ごめんなさい」

「あ、ティアン!」


 怒りの収まらない兄だけに退室することの無礼を謝ると、兄が声をあげる。

 兄につかまるとさらに厄介だ。

 スカートをたくしあげた。廊下を振り仰ぎ、慎重に周りを確認した。通路の端にティアンを悩ます問題の大元がいた。

 見つかればこっちも、さらにもっと厄介だ。

 慎重に通路に踏み出そうとしたティアンの腕が強く引かれて振り返った。ハロルドの手がまだ、ティアンの腕を掴んだままだったことを失念していた。


「離してくださる?」

「どこへ行こうとしてるのかな?」

「どこって、あなたがいないところよ」

「へえ?」


 剣呑な声音に嫌な予感がした。


「離し……ぃった!」


 嫌味とトゲを含んで言い放つと、ティアンの要望は聞き入れられないと、さらに強い力で引っ張られ、休憩室に連れ込まれた。そっと扉が閉じられる音がした。


「ちょっと!」


 扉のすぐそばの壁に背を乱暴に押しつけられた。抗議しようとハロルドを見上げると、真剣な眼差しで見下ろしてくる鳶色の瞳とぶつかる。

 さらなる抗議の言葉を飲み込んだ。驚いた。

 こんな人だっただろうかと。

 ティアンをからかうことが生きがいのような人なのに。


「ティアン。なにがあった」


 しごく当然のように真剣に、ティアンを気遣ってくれる。

 こんなこと、これまでにあっただろうか。

 ハロルドのことは幼少の頃から知っている。

 ティアンを見下ろす表情はみたことないものだった。真剣なその眼差しに胸が高鳴った。


「な、なんでも……なんでもないわ」


 真っ直ぐに見つめる瞳から逃れるように、目をそらした。


「へえ」


 顔をそむけたことが気に入らないのか、それとも通路の足音に全神経を持っていかれていることが気に入らないのか。するりと首筋を下から撫でられて、別の意味で震える。

 意図がわからない。


 兄の抗議の声がした。ティアンの耳には入ってこない。

 ハロルドの手は止まらない。

 そのまま、首のラインを辿っていって……顎に到達した。顎を持ち上げられて、目線を合わせられる。


「逃がさないよ。なにがあったのかな?」


 彼の鳶色の瞳は、ティアンの瞳からなにかを感じ取るかのよう。ひどく動揺した瞳は揺れ動き、ハロルドを見返す。


「は……はなして! なんでもないわ」


 ハロルドはティアンの抗議を目を眇めて受け流す。

 なにやら不穏なものを感じた。別の意味で再び身を震わせる。


「困りました。綺麗だった髪をこんなにもひどく乱していて、なんでもないってこの口は言うの?」


 下唇をふにりと、親指で押さえられる。

 なに考えているのかわからない。わからなくて、動けない。


 通路から再び呼ぶ男性の声。ここへ近づいてきている。

 声が大きく、足音が荒々しい。

 一瞬忘れていたのに、声を聞いただけで小刻みに震えだした身体は止められない。

 その震えは、ハロルドに気づかれてしまった。

 逃げようとするティアンの逃げ道を、スマートに塞がれてしまう。

 

 

 普段はおだやかなライアン。

 いまはティアンのことで、頭に血がのぼっている。怒らせると周りが見えなくなるのがたまにキズだけれど、兄は誰よりも頼りになる。


 目の前のハロルドよりも。



「に、兄様!」


 ハロルドの腕の中から、兄へ助けを求める。

 通路に出ていこうものなら、声の主に確実に捕まる。

 気持ちばかりが急いて、視界の隅に映り込んだ兄に手を伸ばした。

 すると、その手をハロルドに捕られた。

 掌が合わさり、指が絡み合う。

 絡み合った手を持ち上げられて、その甲に唇が寄せられた。

 ちょんと唇が当たっただけなのに、じんわりと手の甲に熱が広がった。


「そこは僕にでしょ? ティアン。相手を間違えてはいけないよ」


 なにも間違っていない。

 この男に助けられるくらいならライアンがいい。

 頬がひくつく。

 今日は厄日か。

 ハロルドが与えるドキドキと、通路の声のビクビクと。とても感情が忙しい。


 ひどく青ざめた顔でティアンは、三度みたび大好きな兄に目で助けを求めた。

 ハロルドから助けてほしい。

 潤んだ瞳で訴えるも、冷静さを取り戻したライアンは友人を止めるどころか、二人を微笑ましく見守っていた。生暖かくも遠くをみるような寂しげな顔で首を振った。


 あんなにも怒り狂っていたのに、いまは手を差し伸べてくれない。

 いまこそ、助けてくれるべきだ。妹が、いまにも襲われているように見える体制なのに、助けてくれないらしい。

 裏切り者! と心の中で罵ったところで。


「ティアン嬢!」


 通路で一喝した男性に、肩が飛び上がった。

 ああ、もう逃げられない。


「どうか……されましたか、レオンさま」


 偶然通路を歩いていた男性が恐る恐る訊ねている。こうも怒る相手になかなかの、肝の据わった持ち主だ。


「どうもしない! いいからさっさと仕事に戻れ! 邪魔だ、行ってしまえ!」


 案の定、令息の怒りを買うことになる。

 声をかけたのはこの屋敷の使用人らしい。


「くそ、あの娘。どこ行った」


 盛大に吐き捨てる声も聞こえてきてしまう。男性は非常に休憩室に近い。


「なにがあった、ティアン」


 ハロルドがティアンを小声で問い詰める。

 ティアンが逃げ込んだ部屋が見つかってしまうのも時間の問題だった。

 声に反応するように、ハロルドを見上げる。

 その顔に絶望感が漂っていることに、ティアンは気づいていない。

 ハロルドの顔が引き締まる。通路につながる扉に視線を逸らされた。緊張にこわばった横顔はとても秀麗にみえた。


 誰でもいいから助けて。

 あんなに怒る人に目をつけられたなんて、怖くて言えない。

 全身を震えさせながら、ハロルドの胸に手をついた。……離してほしくなくて、服を掴んでしまう。


「ティアン……」


 嬉しさと困惑のないまぜになった声が降りてくる。


「し、仕方ないでしょ」


 ハロルドがティアンを離したら。

 部屋の外から声が聞こえて。

 不安でどうしようもない。


「はなさないよ」


 腰に手が回り、頭を引き寄せられた。

 思いが読まれてしまったのか。

 それでもいい。

 トクンと、脈打つ胸の音に、堪えた涙が一筋落ちる。


「ティアン、大丈夫だから。もう大丈夫。俺に任せて、安心して」


 耳元で優しく囁かれて、青ざめた顔で見上げた。

 これまで見たことのない柔和な微笑みで、ティアンを見下ろして、目尻の涙を指先で拭う。


「ゆっくり。呼吸して」


 背中を優しく撫でられて、酸素を求めるようにして呼吸する。

 ぼうっとする頭で恐怖に、呼吸すら止めてしまっていたことに気付かされた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ